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2016年3月31日木曜日

仏教で云う『真理』とは?

普通、『真理』とは、いつでも、どこでも変わりのない法則が真理です。
仏教では、その真理を『』とも呼び。真理に合うとは、大調和のある世界を創造する一因をなすことが、 真理に合ったということなのです。たぶん。

2016年3月29日火曜日

仏教で云う『中道』とは?

普通、中道とは、物事の中程の道と思われています。
しかし、釈尊は、最初に説法された初転法輪で以下のように仰いました。
『比丘たちよ。この世には近づいてはならぬ2つの極端がある。如来は、この2つの極端を
捨て、中道を悟ったのである。』
この『中道』とは、『極端を離れたほどよい道』というあいまいなものではなく、ただ一つしかない真理に合った道を云うのです。
仏道修行によって『我執』を捨て、八つの正しい道(八正道)を歩むことを心がけていますと、 しだいしだいに、考え方や行いが真理に合うようになってくるのです。
では、真理に合うとは、『仏教で云う『真理』とは?』を参照願います。

2016年3月27日日曜日

仏教で云う『我執』とは?

普通、『我執』とは、我に執着することで、すべて自己中心に考え「自分のために・・・」と考える気持ちです。
釈尊は、お悟りを開かれた時につぎのように仰いました。
『奇なるかな。奇なるかな。一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す。ただ妄想・執着
あるを以ってのゆえに証得せず。』
つまり、我々の心に、この我執が充満しているかぎり、すべてのものを生かす真理が入り込む余地がないのです(証得せず)。 逆に、『我執』を捨てた『無我』の境地になると、真理の光が何の障害もなく心の底に差込み、染み込んでくるのです。
したがって、いくら仏教を学んでも行じても、『我執』を捨てなければ、救いも幸せも生ずるはずがないのです。
では、どうしたら『我執』を捨てることができるかというと、仏教徒の人は、朝夕の読経供養がいいらしいです。 では、一般の人は、どうするの・・・仏教徒になるしか・・・。

2016年3月26日土曜日

仏教で云う『空(クウ)』とは?

色即是空とか空即是色といった言葉をよく目にします。 この空(クウ)は、一般的な意味は空『カラッポ』という意味です。 しかし、仏教で云う空とは、全く反対の『実体』と云うことなのです。
空の原語である梵語のシャーニャは、『脹らむもの』と云う意味だそうです。 『脹らむもの』とは、エネルギーの象徴です。 生きて、動いて、働いて、ものごとを作り出すエネルギー、それが空の真の意味なのです。
『実体』と『エネルギー』は一見矛盾すると思いますが、現代物理学では、究極の物質(実体)はエネルギーだそうです。 だから、矛盾していないのです。
究極の物質が『空』であると云う事は、容易にこの宇宙の実体が『空』であるということにたどり着きます。 また、人間も宇宙の生成物の一つである以上、『空』なのです。
したがって、人間の本質は、生きて、動いて、働いて、ものごとを作り出すエネルギーで、すべての人間は、同じ『空』なのです。
つまり、人間は、何かを創造することが本質で、すべての人間は、平等に空に生かされている兄弟姉妹なのです。 だからこそ、大調和のある世界を兄弟姉妹で創造することが、『空』の最終形態なのかなと思う次第です。
と、私の今のレベルでの空の理解でした。"違うぞ!"、という方、ご指導よろしくお願いいたします。

2016年3月24日木曜日

法華経(仏教)を解き明かす『3』という謎の数とは?

法華経を読んでいると、なにかと3つが組みになっているキーワードに遭遇します。
智慧系慈悲系行徳系
文殊菩薩弥勒菩薩普賢菩薩
多宝如来釈迦如来阿弥陀如来
法身応身報身
如来の室如来の衣如来の座
諸行無常諸法無我涅槃寂静
諸悪莫作衆善奉行自浄其意
声聞縁覚菩薩
四諦十二因縁六波羅蜜
小乗大乗一乗
無量義経法華経懺悔経
縁起の法永遠の命法の実践
呼ばれたら返事、ハイ!朝の挨拶、おはよう!脱いだ靴は、そろえるよ!
法布施財布施身布施
敬供養利供養行供養
自分が変れば相手が変るまずは人様すべては自分
そして、それらのイメージが自然と、智慧系、慈悲系、行徳系に分類されるのです。 また、法華経の前半を智慧系が、中程を慈悲系が、後半が行徳系のくだりになっているのです。
どうも、この3つの系が一体化されたものを釈尊は、悟られたのかなぁと思う次第です。 まだ、未消化気味の内容の文章ですが、これからも考察していきたいと思う次第です。

2016年3月22日火曜日

初転法輪

初転法輪とは、今から約2500年前、釈尊がお悟りを開いた後に、以下の5人へ、はじめて鹿野苑(インドのベナレス)で説法をされたこと云います。
ちなにみ、初転とは、はじめて転がすことで、法輪とは、法の車輪を転がすことです。(古代インドでは、りっぱな王には、巨大な車輪が授けられた。)
  • 嬌陳如(きょうじんにょ)
  • 跋提(ばつだい)
  • 婆沙波(ばしゃば)
  • 摩訶那摩(まかなま)
  • 阿説示(あせつじ)
第一声は以下でした。
『比丘たちよ。この世には近づいてはならぬ2つの極端がある。
如来は、この2つの極端を捨て、中道を悟ったのである』
そのあと、四諦八正道の教えが説かれたとのことです。
また、仏、法、僧がはじめてそろった、つまり、仏教が誕生した記念すべきイベントが初転法輪なのです。

2016年3月21日月曜日

開経偈

開経偈とは、『お経文として読誦するのでは無く、法華経を拝読するときにお唱えする讃文(讃歌)であります。』ということで、以下を唱えます。
無上甚深微妙の法は百千万劫にも遭いたてまつること難し。
我今見聞し受持することを得たり、願わくは如来の第一義を解せん。
至極の大乗思議すべからず、見聞触知皆菩提に近づく。
能詮は報身、所詮は法身、色相の文学は即ち是れ応身なり。
無量の功徳皆この経に集まれり。是の故に自在に冥に薫じ密に益す、
有智無智罪を滅し善を生ず、若は信、若は謗共に仏道を成ず。
三世の諸仏甚深の妙典なり、生生世世値遇し頂戴せん。 
要約すると、「法華経に巡り会えることは凄く難しく。しかし、私は今、法華経と出会い、心に刻み、できれば、法華経の神髄を理解したい。」、つまり、「遭い難き法華経に出会えて、法華経の神髄を必ずつかませていただきたい!」ということです。
そして、法華経の神髄とは、「無常の法」であり、お互いに生かしあい(諸法無我)、絶えず変化している(諸行無常)ことを悟り、宇宙全体のありようを、一つの大きないのちと観じられる・・・。
















2016年3月20日日曜日

三帰依文

三帰依文とは、仏教徒なら毎日お経を上げる前に必ず唱える例の決まり文句です。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、 
大道を体解して、無上意を発さん。 

自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、 
深く経蔵に入って、智慧海のごとくならん。 

自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、 
大衆を統理して、一切無げならん。 
意味は、「仏(仏さま)・法(真理)・僧(仏の仲間)を全身全霊で信じきり、拝みきって、心のよいどころに致します。」ということらしい。

では、なぜいきなり、三帰依文かというと・・・。
それは、先日、三身一体でお話した「応身・法身・報身」が、もしかしたら、「仏・法・僧」のことではないか・・・と、ふと思ったのです。っていうか、報身がイマイチ理解できなくて、そこに「仏・法・僧」の「僧」が、飛び込んできたのです。つまり・・・
  • 応身 = 仏
  • 法身 = 法
  • 報身 = 僧
ということで、報身とは、法華経を行ずる我々自身だということに気づかせて頂きました。
そして、他人からいわれるのでなく、自ら「仏・法・僧」を全身全霊で信じきり、拝みきる・・・。私は、いつになったら、その境地になれるのでしょうか・・・。

2016年3月18日金曜日

三身一体(法身・応身・報身)

三位一体では、ありません、こちらは、キリスト教でのお祈りの言葉で「父と子と聖霊の名のもとに・・・」であり、父とは神であり、子とはイエスのことであり、聖霊とは信仰の証のことです。
さて、三身一体とは、以下のように仏教での三身の仏のことをいい、そして、三身だけど実は一体なのだという教えです。
  • 法身 - 法華経では、多宝如来として表されている究極的な真理(仏さまの本体)をいいます。
  • 応身 - 究極的な真理を衆生にお示しになるために、人としてこの世に生まれた釈迦如来をいいます。
  • 報身 - 浄土宗でいう阿弥陀如来などのことで、修行の報いによって仏になられた信仰の証をいいます。
そう、三位一体とほぼ一緒と言おうか、これは、もう同じでしょう・・・。やはり、仏教もキリスト教も根本では、同じ説を信じます。

2016年3月17日木曜日

四弘誓願(しぐせいがん)

先の「法華経 従地涌出品 第十五」で、他の世界からやって来た菩薩達が、仏の滅後に娑婆世界にとどまってこの法華経を広めたいと申し出たのを、きっぱりとお釈迦さまは、お断りになったとたん、突然地面の中から涌き出した四大菩薩(上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩)等は、どのような意味があるのでしょうか。
実は、この四大菩薩は、菩薩としての四つの大誓願を代表しておられるのです。これを四弘誓願といいます。
  • 安立行(衆生無辺誓願度)- 衆生の数は無辺であろうとも、すべてもれなくお救いしようという誓願。
  • 浄行(煩悩無数誓願断)- 煩悩の数は無数であろうとも、かならずすべてを断ち切ろうという誓願。
  • 無辺行(法門無尽誓願学)- 仏の教えは無尽であろうとも、かならず学びつくそうという誓願。
  • 上行(仏道無上誓願成) - 仏の道は無上であろうとも、かならず成就しようという誓願。
まず、娑婆世界の地から涌き出したということは、娑婆世界の住民であるわれわれが、自らこの世界を法華経(正しい教え)によって、平和をつくりださねばならない、という力強い意味があります。
また、菩薩の名前に「行」が付いているのは、まさに「この世界を法華経(正しい教え)によって平和を作りださねばならない」という「行」そのものなのです。そして、その「行」は、四弘誓願の実践とイコールらしい。

2016年3月15日火曜日

衣座室(えざしつ)の三軌

以前、法華経の勉強会に行って、法師品第十を主に勉強してきました。で、心に残った『衣座室(えざしつ)の三軌』をお分けいたします。
これは、法華経を説く時の三つの心構え(ルール)です。
如来の室に入り如来の衣を著如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし。如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是れなり。如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは一切法空是れなり。是の中に安住して、然して後に不懈怠の心を以て、諸の菩薩及び四衆の為に、広く是の法華経を説くべし。
  • 如来の室(大慈悲心是れなり)
    大きな喜びをあたえ、大きな苦しみをも取り除いてあげようとする心。
  • 如来の衣(柔和忍辱の心是れなり)
    やさしくおだやかで、種々の侮辱や苦しみを耐え忍び、心を動かさないこと。
  • 如来の座(一切法空是れなり)
    すべての人は、仏の子(同根同胞)であり、すべての教えは、平等に受け止められ、生きるエネルギーになる。
ちなみに、「四衆」とは僧、尼、信男、信女の仏教信者をいいます。


とある教団で、とある開祖さまが、ナンバー2の人を担いだグループから邪険にされた時代がありました。
しかし、とある開祖さまは、そのグループをまったく咎めなかったのです。
のちに、とある開祖さまが、この時の心境をインタビューされたとき、以下のようにおっしゃいました。
そのグループの人達は、私の可愛い子供達(仏の子)ですからね。出来の悪い子供ほど可愛いものです。
開祖さまは、まさに、『衣座室の三軌』を実践したといえるでしょう・・・。すごい。

2016年3月14日月曜日

智慧とは・・・

  • 智慧の智とは、すべての物事の違いを見分ける力。
  • 智慧の慧とは、すべての物事の共通を見いだす力。
  • 救いとは、心のやすらぎと生きる希望を与えられたとき。
  • 有難いとは、有る事が難しいこと。
  • 仏性とは、すべての人がもっているもの。

2016年3月13日日曜日

慈悲の心とは・・・

慈悲の慈とは、梵語のマイトレーヤの訳で「最高の友情」という意味があるそうです。で、そこから転じて、「与楽の心」だと定義されています。(たぶん、法華経に・・・)
慈悲の悲とは、梵語のカルナーの訳で「苦しんでいる人の声をきいて共感してあげる」という意味があるそうです。で、そこから転じて、「抜苦の心」だと定義されています。(同じく、法華経に・・・)
また、法華経では、すべての人が平等であると説いていますが、人生にはいろいろと苦と楽にアンバランスが生じ、不平等が生じます。
そして、不平等が生じたときに、ほとんど無意識にその不平等を均して平等に返そうとする気持ち、どうしてもそれをぜすにはいられなくなる気持ちを・・・、慈悲の心というらしい・・・。

2016年3月11日金曜日

四無量心(慈・悲・喜・捨)

ふつう、人は、幸せになりたい。なるべく悲しい思いはしたくない。自分だけの喜びをもちたい。自分の大切なものは捨てたくない。
と、まぁ思うものです。そう、これがごく普通です・・・。
しかし、約2500年前のとある人は、
  1. 『慈 = 自分でなく人を幸せにしてあげたい』
  2. 『悲 = 人の苦しみを取り除いてあげたい』
  3. 『喜 = 人の喜びを一緒に喜んであげたい』
  4. 『捨 = どんなことに出会ってもありのままに受けとめて、怒ったり驚いたり過剰に反応しない』
を実践したそうです。
ふつうの人のは、無意識で人間の本能と言えるのに対して・・・、とある人のは、全く逆で、意識的で、それを実行するために常に修行という努力が必要でした。
種明かし、そう、とある人は、ブッダこと仏さまのことであり、また、『慈・悲・喜・捨』の4つを仏教用語で『四無量心』といいます。
つまり、ブッダの教え、仏教は、『四無量心』の実践といえます。また、法華経そのものともいえますね・・・。
さあ、あなたも、いつまでも本能まま生きるのではなく、『四無量心』を実践してみては・・・。誰にともなく・・・。

2016年3月9日水曜日

三法印

仏法には、三法印という教えがあります。
  • 諸行無常 - この世の中に現れるすべての現象は、たえず変化する。
  • 諸法無我 - この世の中のすべてのものごとは、必ずつながりがあり、孤立しているものはない。
  • 涅槃寂静 - 迷いをすっかり吹き消してしまってこそ、平穏な、生活が得られるのだ。
この教えで、涅槃寂静の教えが、どうも、しっくりこないのです・・・。
諸行無常は、たえず変化するということで、「永遠の時間」の概念です。諸法無我は、必ずつながりがあるということで、「永遠の空間」の概念です。
では、涅槃寂静は、この二つと同レベルなもののはずですよね・・・。つまり、涅槃寂静は、「永遠の時間でも空間でもないもの」です。たぶん。
では、「永遠の時間でも空間でもないもの」って何でしょうか?
この世は、時間と空間で成り立っているので、そんなもん、まったく、思い付きません。
この世?・・・、あっ!、思い付いた! もしかしたら、涅槃寂静は、あの世ことではないでしょうか・・・。そして、永遠の時間と空間が畳み込まれた世界・・・。
まぁ、宗教素人の戯言でした・・・。トンデモ思い付き、御免!

2016年3月8日火曜日

十如是(じゅうにょぜ)

十如是の如是は、「このように」とか「あるがままのすがた」という意味です。では、各々説明いたしましょう。
  1. 如是相 - あらゆる存在には、必ず持ち前のすがた(相)があります。
  2. 如是性 - (相)あるものには、それにふさわしい持ち前の性質(性)があります。
  3. 如是体 - (性)あるものには、それそのものの主体(体)があります。
  4. 如是力 - (体)あるものには、かならずそれにふさわしい(力)をもっています。
  5. 如是作 - (力)あるものには、かならずいろいろな作用(作)をおこします。
  6. 如是因 - (作)を起こせば、そこに、原因(因)が生じます。
  7. 如是縁 - いろいろな原因(因)がいろいろな条件(縁)で出会います。
  8. 如是果 - すると、いろいろな結果(果)でることになります。
  9. 如是報 - 結果(果)がでれば、あとに必ず何か(報)を残します。
  10. 如是本末究境等 - そして、これら9つ(本末)は、つまるところ(究境)、等しいものである。
と、いう教えです。つまり、『因縁果報』そのもので、諸法実相とも云い、そして、『法華経の神髄』で述べた半分の部分です。
実は、この十如是は、序品、方便品での流れの中に不自然に出てきます。あたかも、誰かが後から付け足したように・・・。まぁ、こだわりませんが・・・。

2016年3月6日日曜日

六波羅蜜(ろくはらみつ)

六波羅蜜の波羅蜜は、梵語でパーラミータのことで、到彼岸ことです。また、彼岸とは、ずばり真理を悟った境地のことです。
つまり、六波羅蜜とは、悟りに到るための六通りの修行のことです。
  1. 布施 - 精神的、物質的、肉体的にあらゆる面から人に尽くすこと。
  2. 持戒 - 謙虚に教えを守り、人格完成の努力をすること。
  3. 忍辱 - 他に対して寛容であり、どんな場合でも平静心を保つこと。
  4. 精進 - 本来の使命にむかって、人格完成の努力をすること。
  5. 禅定 - どんな事が起こっても動揺しない、平静心をえること。
  6. 智慧 - どんな場合でも、真理に沿った、正しい道を選ぶことができること。
お布施とは、悪徳宗教の資金源のことではありません。また、お金でなくても、人に尽くことは沢山ありますよね!

2016年3月5日土曜日

十二因縁

十二因縁とは、正しいものの見方を知らないと(無明の状態だと)、12個の因縁よって、不幸な一生になってしまいますよって教えです。
逆に云えば、正しいものの見方、正しい生き方で、真理に沿って生きていけば、幸せになれますよって教えです。
  1. 無明 - 生まれてくる前の状態で、正しいものの見方を知らない無知の状態です。
  2.  - 無明よる業が、両親の行為を縁として母親の胎内に宿ります。
  3.  - 生けるものとしての誕生です。
  4. 名色 - 名は無形のもので「心」表し、色は有形のもので「体」を表します。
  5. 六入 - 名色が発達してくると、「眼」「耳」「鼻」「舌」「触覚」「第六感」がはっきりしてきます。
  6.  - 六入が発達して、触ることにより、自然にものごとを見分ける力が出てきます。
  7.  - すると、好き嫌いの感情が起こるようになります。これを「受」と云います。
  8.  - 「受」が起これば、当然の流れとして「愛」が生まれます。この場合の「愛」は愛着や執着のことです。
  9.  - 「愛」が起これば、当然の流れとして愛するものを欲しかる「取」が生まれます。この場合の「取」は所有欲のことです。
  10.  - 所有欲から差別心が生まれることを「有」と云います。
  11.  - 差別心から争いが生じ、苦しい人生展開になることを「生」と云います。
  12. 老死 - 思い通りにならない苦しい人生を送っているうちに、老い、ついに死がやってきます。
思い通りにならない苦しい人生だからこそ、魂の成長する絶好のチャンスです。頑張りましょう!(だれにともなく・・・自分も含めて・・・)

2016年3月4日金曜日

八正道(中道)

八正道(中道)とは、苦を消滅させる八つの正しい道。尚、ここで云う「正しい」は、真理にあっているという意味です。また、中道と同義。
  1. 正見 - 正しくものごと見る。
  2. 正思 - 正しく考える。
  3. 正語 - 正しく語り。
  4. 正行 - 正しく行為し。
  5. 正命 - 正しく生活し。
  6. 正精進 - 正しく努力し。
  7. 正念 - 正しく念じ。
  8. 正定 - 正しく心を定める。
要は、正しい生活をして(因)、良い(縁)が沢山出来、人生苦が消滅(果)して、幸せ(報)になる。
これ、法華経の極意(神髄)です。

2016年3月2日水曜日

四諦

四諦の諦は、明らかにするという意味で、それが以下のように4つあります。
  1. 苦諦
    生、老、病、死、怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五蘊盛苦(のちほど説明)の四苦八苦を明らかにすること。
  2. 集諦
    苦の原因を見極めるとそれは皆、渇愛または貪欲にもとづくものであることを明らかにすること。
  3. 道諦
    苦を消滅させる道、『八正道(中道)』を明らかにすること。(実践すること)
  4. 滅諦
    集諦で明らかにした、渇愛または貪欲を道諦により捨て去り、苦を消滅させたことを明らかにすること。
どうも、欲張りは、苦を呼び込むらしい・・・。