2025年5月29日木曜日

「正」しいとは?


先日、法華経の勉強会がありました。
その時、正しいの「正」は、一(真理)が止まると書きます』と説明がありました。
そこで、すかさず、一は真理とイコールですかと質問をしてみました。
 
すると、
『一般的には、「一」には真理という意味はありません、しかし、法華経観では、すべての人は一つの乗り物(一乗)に乗っているいう真理があり、そこから「一」イコール「真理」となる』

 と説明がありました。


つまり、正しいとは、真理が止まること、言い換えれば、真理がある状態らしい・・・。
正しい生活、正しい行い、正しい論理、正しい・・・は、真理がやどる・・・。

2025年5月28日水曜日

真の菩薩行

 

 
『とある人』が、『とある先生』のお供で、インドに行きました。 
 
『とある先生』は、大変忙しく、また、大変偉い方なので、 日本では、話すご縁などありませんでした。 

しかし、今回のご縁で2時間、さしでお話しする機会を得たのです。 
 
『ある人』は、大変有り難いご縁を得たので、緊張と感激のあまり喉が乾き、 傍にあった生水を誤って飲んでしまったのです。
 
そう、インドは、ご存知の通り、生水は不衛生です。 
 
その晩、当然のごとく、「なんとか赤痢」に掛かって、死ぬような苦しみを味わいました。
 
すると、『ある先生』は、自分がこのようになった時のために用意した点滴をくれたのでした。
 
尚、点滴は3本用意してきましたが、すでに2本は、同じような症状の同行者に与え、最後の1本を くれたのでした。
 
点滴を打ったら、『とある人』は、今までの苦しみがうそのように回復しました。
 
すると、こんどは、『とある先生』の様子がおかしいことに気づきました。
 
そう、『とある先生』も、実は、「なんとか赤痢」にかかっていたのです。
 
しかも、『とある人』に点滴を与えた時に、すでに「なんとか赤痢」にかかっていたのを 『とある先生』は、ご自分で知っていたようなのです・・・。
 
真の菩薩行とは、自分がどんな状態でも、目の前の苦しんでいる人を助けずにはいられない、そして、助ける。そのような行いらしい・・・。
 
その後、『とある先生』は、恩に着せることなく、そして、『とある人』は身を持って、真の菩薩行を間近で見ることが出来たのです。

2025年5月27日火曜日

バスの時刻表

 


とあるバス停に、おじいさんとおばあさんがいました。
なにやら、おじいさんは時刻表をぶっ叩いて怒っています。
 
『もうとっくにバスが来ている時間なのに、なんで来ないんだぁ!こんな時刻表などいるもんか!捨てちまえ!』

 すると、連れ合いのおばあさんが言いました。


『おじいさんや、その時刻表がないと、バスがどれだけ遅れたかわかりませんよ・・・』


現実の社会は、このバスと同じように、決して時刻表通りにはいきません。
 
しかし、時刻表があるからこそ遅れているのがわかるのです。
 
そう、お釈迦さまの教えは、バスの時刻表のようなものです。
 
人生は、時間通りに来ないバスのようなものだからこそ、つねに時刻表(お釈迦さまの教え)と照らし合わせて、その差を埋めるべくことに価値があるのです。
 
そして、その価値こそ、『生きがい』と呼べるものだと思います・・・。

2025年5月26日月曜日

劫濁(こうじょく)

 


法華経の方便品に劫濁(こうじょく、または、濁劫という場合もある)という言葉がでてきます。
これは、世の中が同じ状態が長くつづくと動脈硬化をおこして汚れてくるという意味です。

今の世の中、まさにコレですね。
天下りや渡り、2世3世議員、いつの間にか国のトップは、普通のおじさん達になってしまいましたね。

2025年5月25日日曜日

悩んだ人ほど、真理はすぐ傍に・・・

 

『とある先生』のお供で『とある人』が海外へ行きました。 

『とある人』は、そこで、日本語交じりの英語で何かいろいろ回りの外人さんに話し掛けている日本人を見かけました。
 
どうやら海外で迷子なって凄く動転している模様です。
 
迷子の人は、『ある人』が日本人であるとすぐわかったので、地獄で仏のごとく、助けを求めてきました。 

で、手がかりは、Sの付く看板があるホテルに泊まっているとのことで、さっそく、Sの付く看板があるホテルを探しましたが、これだけの手がかりでは、まったく、分かりません。
 
そこで、地図でSの付くホテル探しをしていたらシルトンホテルがあり、それを発音すると『おー、その名前のホテルだ!』と迷子の人は言いました。
 
そして、なんとそのシルトンホテルは、今立って居る斜め後ろのビルではありませんか!
 
悩みに悩んで、探しに探していたら、いつの間にか探していたホテルのすぐ前に居たのです。しかし、居ても気づかずに・・・。

このことを『とある人』は、『とある先生』に報告すると、『とある先生』は、以下のようにおっしゃいました。
 
『人助けが出来てよかったですね。悩みに悩んだ人ほど・・・真理のすぐ傍にいるものです・・・。』

 

ん〜さすが・・・ 

 

ちなみに、『とある先生』とは、立正佼成会開祖の庭野日敬氏で、『とある人は』当時、佼成出版社の記者で、かつて三鷹教会長の岡部さんです。



2025年5月24日土曜日

法華経を一言で言うと・・・

 


法華経の大家である庭野日敬氏は、あるインタビューで『法華経を一言で言うと何でしょう?』と聞かれました。 
 
法華経を知り尽くし、実践尽くした庭野日敬氏は、さて、なんて答えたでしょうか・・・。
 
興味深々ですね! で、いろいろ想像してみてください。『六波羅蜜』『縁起観』『四諦』『十如是』・・・。

 
お待たせしました。答えです。
 
『法華経を一言で言うと何でしょう?』とインタビューされた庭野日敬氏は・・・。
 
 
『良いご縁を作ることです。』
 
 
とお答えになりました。さすが、庭野日敬氏。
 
いや~、まさに法華経を一言で言ってのけました。
 
さぁ、皆さ~ん、良いご縁を作りましょう! ・・・ということで、まとめとします(合掌)。

2025年5月23日金曜日

ダンナ(旦那)とは ?


旦那とは、そう、我々亭主のことです(独身者は除く)。

実は、旦那の語源は、古代インドのサンスクリット語で『ダーナ』といい、「布施」を意味します。
 
「布施」は、慈悲心や情け、思いやりを表しいます。

昔、旦那は寺院や僧侶に布施をする「施主」や「檀家」の意味として用いられていました。
 
やがて、一般にも広まり、稼いだお金(ある意味、布施)で生活の面倒を見る人、つまり、妻が夫を呼ぶ敬称として旦那が用いられるようになったのです。

まさに、我々旦那衆は、家族のために布施する存在ですね。 

財布の中は、最近は小銭しか入っていませんが、こんな時だからこそ、本来の旦那になっているのですね(^^;

2025年5月22日木曜日

あらやしき(阿頼耶識)を清める


最近、仕事のプレッシャーなのか精神的に不安定で、夢の中でも結構叫んでいるらしい・・・。
 
となりで寝ているママが驚いて、私を起こしてくれるのです・・・顔面ピンタとかで(^^;;

こういう時は、法華経読誦(ご供養)が効きますね。
 
特に陀羅尼(26番、28番)がいいようです。

ここのところ、毎日の法華経読誦が復活しました。
 
確かに精神が安定してきました。
 
法華経読誦が、なぜ精神安定に効くかというと・・・私が思うには以下の感じです。

潜在意識や無意識のことを仏教では、あらやしき(阿頼耶識)といいます。
 
この阿頼耶識に仕事のプレッシャーなどがインプットされるみたいです。

しかし、阿頼耶識は、意識的には制御できない無意識の領域なのです。
 
また、法華経には良い事が沢山書かれています。

つまり、良い事が沢山書かれている法華経を、毎日毎日繰り返し読むことによって、
 
潜在意識に刻み込まれ、プレッシャーの意識などを追放して、
 
阿頼耶識を清めることができるみたいです。

当分、阿頼耶識を清めて参ります。
 
ついでにママの阿頼耶識も清めてあげるって言ったら、
 
あなただけには言われたくないと、強い拒絶を受けました(^^;

2025年5月21日水曜日

釈提桓因(しゃくだいかんいん)とは ?


法華経序品第ーに以下のくだりがでてきます。

爾の時に釈提桓因、其の眷属二万の天子と倶なり。

釈提桓因とは、帝釈天の別名で、娑婆世界のうえにある天上界の主とされていました。
 
その帝釈天の眷属には、以下の天子がいました。 
 
  • 名月天子(月の神)
  • 普香天子(星の神)
  • 宝光天子(日の神)
  • 持国天(四大天王の一人:東方を護る)
  • 多聞天(四大天王の一人:北方を護る。別名:毘沙門天ともいう)
  • 増長天(四大天王の一人:南方を護る)
  • 広目天(四大天王の一人:西方を護る)
 
実は、これらの神々は、仏教ではなくバラモン教(古代インドの宗教)の神なのです。
 
釈迦は、これらの神々を排除することなく、仏法護持の神々としたのです。

2025年5月20日火曜日

終日竟夜(ひねもすよもすがら)とは?


法華経譬喩品第三に以下のくだりが出てきます。

世尊、我昔よりこのかた、終日竟夜毎に自らを剋責しき。
 
 
終日竟夜は、「ひねもすよもすがら」と読み、「昼も夜も常に」という意味だそうです。

 

2025年5月19日月曜日

みょう牛(ご)の尾を愛するが如し

 


法華経譬喩品第二に以下のくだりが出てきます。

みょう牛(ご)の尾を愛するが如し

みょう牛(ご)というのは、ヤクのことで、毛の長い(特に尾が)種類の牛です。
この牛は、この尾を大変大切にしていますが、それが元で殺されたそうです。(人間はその尾をとるために殺す)

ということで、上記は、自分にとってはたいした役に立たぬものに心をとらわれ、かえってそのもののために不幸を招くことの譬えで用いられました。

2025年5月18日日曜日

高原穿鑿の譬え


法華経法師品第十に「高原穿鑿(せんしゃく)の譬え」というくだりがあります。

薬王、譬えば人あって、渇乏(かつほう)して水を須(もち)いんとして、彼の高原に於いて、穿鑿(せんしゃく)して之(これ)を求むるに、猶お乾(かわ)ける土を見ては、水尚遠しと知る。功(く)を施すこと已(や)まずして、転(うた)た湿(うるお)える土を見、遂に漸く泥に至りぬれば、其の心決定して、水必ず近しと知らんが如く、菩薩も亦(また)復(また)是(かく)の如し。 

 

水のない高原に井戸を掘るのは、現実の苦しみから逃れようという救いをもとめる努力の譬えです。 


掘り初めのうちは、絶望感を感じますが、しだいに水気をたっぷり含んだ土にぶつかるのです。 


この土こそ、真実の教え「法華経」なのです。
その「法華経」を得て、さらに掘りつづけていくことが、「菩薩行」にほかなりません。

2025年5月17日土曜日

願生(がんしょう)

 


法師品第十で以下のくだりがあります。

衆生を哀愍し願って此の間に生れ、広く妙法華経を演べ分別するなり。

衆生を救おうという願いと慈悲心によって生まれ変わってくること。これを願生(がんしょう)という。

人間とは、もともと人の意味でなく、人と人の間のことで世間という意味です。 

そして、「此の間に生れ」とは、「世間に生まれる」ということであり、「人間に生ずる」ということです。
 
菩薩行とは、衆生を救おうと広く妙法華経を演べ分別すること。

ということで、人は、自覚はないのだけれど、菩薩行をするために願って生まれてくるらしい。

2025年5月16日金曜日

三帰依文とは


三帰依文とは、仏教徒なら毎日お経を上げる前に必ず唱える例の決まり文句です。

自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
深く経蔵に入って、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
大衆を統理して、一切無げならん。

 


実は、「まさに」からのくだりは、日本の江戸時代末期の仏教学者が、『法句経(ほっくきょう)』『華厳経(けごんきょう)』『法華経(ほけきょう)』の経文の一部を組み合わてまとめたものだそうです。

オリジナルは

自ら仏に帰依したてまつる。
自ら法に帰依したてまつる。
自ら僧に帰依したてまつる。

で、これを3回唱えるらしい。
この三帰依は、仏教初期(約2500年前)の時に教団へ入る不動の心構えとされていました。

とりあえず、前に書いた三帰依の記事3つ。 

2025年5月15日木曜日

唯我れ一人のみ。能く救護を為す。


法華経譬喩品に以下の一節(偈)があります。

今此の三界は。皆是れ我が有なり。其の中の衆生は。悉く吾が子なり。而も今此の処は。諸の患難多し。唯我れ一人のみ。能く救護を為す。
 

意訳:

この三界はみんなわたしのものだからです。
その中にいる衆生はすべてわたしの子だからです。
しかも、この三界にはもろもろの苦しみ悩みが満ち満ちているのです。
どうして、わたしがこの苦の世界に飛び込んでいって、わが子を救わずにいられましょう。
しかも、みんなを救うことのできるのは、たった一人、わたししかいないのですよ。

解説:

「みんなを救うことのできるのは、たった一人、わたししかいないのですよ。」のフレーズは、
普通の人が言えば、超傲慢ですが、釈尊が言ったということは、宇宙の真理ということです。
つまり、みんなを救えるのは、唯一、宇宙の真理だけであると・・・。

逆に云うと、宇宙の真理に沿って生きていけば、みんな救われるということです。
では、宇宙の真理とはなにか?

私が思うには、「正しい行いをしていくと幸せになる」です。
もうちょっと詳しく言うと

「正しい行いを続けていくと、善い縁が沢山できて、善い結果が生じ、世界が大調和し、みんなが幸せになる」

だから、毎日読誦する『唯我れ一人のみ。能く救護を為す。』の偈は、心に勇気を与えてくるのかなと思う次第です。

ちなみに、三界とは、凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を3つに分けたもので、
  • 欲界:淫欲と食欲に支配され、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人の六道が住む世界
  • 色界:欲望は離れているが物質的条件にとらわれた世界
  • 無色界:物質的なものから完全に離れた精神的条件だけをもつ世界
 です。

2025年5月14日水曜日

一大事の因縁とは


法華経方便品に以下の一節が出てきます。

諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なるを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。
衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
舎利弗、是れを諸仏は唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうとなづく。

要約すると、仏さま(諸仏)は、我々(衆生)の良心(仏性・仏知見)を「開き」「示し」「悟らせ」「正しい道に入らしめる」ため、この世に出現したとのことです。

逆にいうと、我々は、仏道とご縁になることにより、良心(仏性)に目覚め、正しい行いをしていくことが、結果的に幸せになれることであり、それが生きがいなのだと・・・。

2025年5月13日火曜日

三世・三界・三世間・三世界

 

まぎらわしいので、整理しときます。
 

三世とは

* 前世:過去
* 現世:現在
* 来世:未来

 

三界とは

* 欲界:淫欲と食欲に支配され、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人の六道が住む世界
* 色界:欲望は離れているが物質的条件にとらわれた世界
* 無色界:物質的なものから完全に離れた精神的条件だけをもつ世界

 

三世間とは

* 仮名(けみょう):生命のあるもの、衆生世間とも呼ばれる
* 国土(こくど):山河大地など、住んでいる場所を指す
* 五蘊(ごうん):人間(心や身体)や世界を構成している構成要素

 

三世界とは

* 第一世界:資本主義先進国
* 第二世界:社会主義諸国
* 第三世界:いずれにも属さない発展途上国の総称

2025年5月12日月曜日

仏の三十二相

 

以下は、いわゆる、仏の三十二相です。
無量義経の徳行品に出てきます。

釈尊の完全な人格への賛嘆を示しているとされています。
仏像は、まさにそのような形になっていますね。
 
  1. 額にある月のような渦毛
  2. 項(うなじ)に日の光あり
  3. 渦巻く頭髪は紺青色
  4. 頭上は高く盛り上がっている
  5. 澄み切った鏡のような清らかな眼
  6. その眼は上下にまじろぎ
  7. 紺色の眉はのびのびとし
  8. 口や頬は正しく整い
  9. 唇は赤い花のよう
  10. 舌もおなじく
  11. 歯は、雪のように白く
  12. 40本きちんとそろって
  13. 額は広く
  14. 鼻長く
  15. 顔全体がひろびろとして晴れやかで
  16. 胸には卍が表れ
  17. 上部は獅子の胸のように張って
  18. 手も足も柔らかで
  19. そして車の輪ような紋ある
  20. 脇の下と掌に細い線が揃っていて
  21. それが内外ともにまとまっている
  22. 上腕はながく
  23. 下腕もながく
  24. 指はまっすぐで細く
  25. 皮膚はキメ細やかで柔らかく
  26. 毛はすべて右のほうに渦巻いている
  27. 踝はよく現れて形がいい
  28. 膝も同様
  29. 陰部は隠れていて見えず
  30. 筋は細く
  31. 骨はがっしりしていて
  32. 脚は鹿のようにすらりとしている

補足:

額にある月のような渦毛のことを白毫相(びゃくごうそう)といい、非常に徳の優れたしるし。

項(うなじ)に日の光ありは、後光ともいい、非常に徳の優れたしるし(もしかしてオーラ?)。

卍(万字)は、仏教のしるし。四方が円満に揃っている意味。

2025年5月11日日曜日

サッダルマ・プンダリーカ・スートラ

 


法華経こと『妙法蓮華経』は、サンスクリット(梵語)でサッダルマ・プンダリーカ・スートラといいます。 

  • サッダルマとは、サット(正しい)とダルマ(法)が合わさったもので、そのまま正法を訳した人ともいますが、鳩摩羅什は『妙法』と訳しました。
  • プンダリーカとは、白い蓮の華で、そのまま『蓮華』と訳されました。
  • スートラとは、通し糸で、漢字での縦糸を表す『経』と訳されました。
 
妙法蓮華経の『従地涌出品 第十五』に以下の偈があります。

『善く菩薩の道を学して、世間の法に染まざること蓮華の水の在るが如し』

つまり、法華経は、正しい法を学して、それに沿っていれば、泥水にも染まらず、いつも清らかな白い蓮華のようにいられる…という意味になると思います。

2025年5月10日土曜日

阿鼻地獄(あびじごく)と阿迦尼タ天(あかにたてん)


法華経の序品に、無量義を説いた後、三昧に入っていたお釈迦さまが、『眉間の白毫相(びゃくごうそう)より光を放ち、その光が、下は阿鼻地獄(あびじごく)、上は阿迦尼タ天(あかにたてん)に至る』というクダリがあります。
 
阿鼻地獄は無間地獄ともいい、人間のあり方における最低の状態(地獄界)です。
阿迦尼タ天は有頂天ともいい、人間のあり方における最高の状態(天上界)です。

つまり、光は『仏の智慧』の象徴で、それが、どのような状態の人間にでも行き届きました。


そして、このことがどいうことか、疑問に思った弥勒菩薩が文殊菩薩に教えを請いました。
そう、法華経のはじまりです。