ところが、 先日、某教会の法座で、以下のお話しを聞きました。
実は、親が子供を育てるのではなく、子供が親を育てるのです。
法華経では願生といって、子供は、親を選んで生まれてくるそうです。
なので、子供は親にとって『お客さま』みたいなものなのです。
そう、子供を通して、親として成長していけるのです。
子供を育てさせて頂けるお陰様で、親が成長できる・・・
逆に言えば、子供が親を育ているのですね(^^;;
わかりやすい法華経と釈尊物語
実は、親が子供を育てるのではなく、子供が親を育てるのです。
法華経では願生といって、子供は、親を選んで生まれてくるそうです。
なので、子供は親にとって『お客さま』みたいなものなのです。
そう、子供を通して、親として成長していけるのです。
ここまで「釈尊のいぶき解説サマリーシリーズ」を読んで下さって、ありがとうございました。
まだ、読んでない方は、3月12日からこの「釈尊のいぶき解説サマリーシリーズ」が始まっております(^^;
「釈尊のいぶき解説サマリーシリーズ」の内容は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめた、立正佼成会の「経典」の解説です。
尚、立正佼成会については、「私と立正佼成会 」をご覧ください。
その経典には、法華経の最高エッセンスが散りばめられていて、これを理解して毎日読誦すれば、法華経マイスターになれると私は思います(^o^)
佼成会会員の方は、毎日朝夕に経典を読誦して、本コンテンツを参考にして、法華経の最高エッセンスを掴んで、実践してみてください。
一般の方は、佼成会に入会するか、経典と「釈尊のいぶき」を佼成ショップで買って、毎日朝夕に経典を読誦して、同じく法華経の最高エッセンスを掴んで実践してみてください。
ということで、本シリーズは、ひとまず終わりにしたいと思います。ご精読ありがとうございました!!
立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。
そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。
尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。
・https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-16/
願わくは此の功徳を以て
普く一切に及ぼし
我等と衆生と
皆共に仏道を成ぜん
私たちの願いといたしますところは、この供養の功徳をあまねく一切のものにおよぼし、私たちすべての衆生が、みんな同じように仏の境地に達したい、ということでございます。
唱題では、「南無妙法蓮華経」のお題目を十回唱えます。
南無というのは、梵語(古代インドの言葉)の音をそのまま漢字に当てはめたもので「帰命」という意味です。
「帰命」とは、全身全霊を投げ出して仏さまの懐に飛び込んでいく、すなわち、すべてのものを生かしている真理・法のなかに純粋に溶け込んでいくことです。
そして、その瞬間に身が震えるほどに感じる「ありがたい」という法悦感も、この二音のなかに込められています。
謹んで読誦し奉る大乗妙法蓮華経
集むる処の功徳を以て
南無久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊
南無証明法華の多宝如来
南無十方分身三世の諸仏
南無上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩
南無文殊・普賢・弥勒等の菩薩摩訶薩
南無高祖日蓮大菩薩
南無開祖日敬一乗大師
南無脇祖妙佼慈道菩薩
本部勧請の御守護尊神
信者一同の御守護尊神
十方無量の諸天善神に回向し慈恩に報酬す。
仰ぎ願わくは先祖代々過去帳一切の精霊
今日命日に当る精霊
十方法界有縁無縁の諸精霊
何卒回向供養の法味を納受し
疾く無上菩提の妙果を成就せしめ給え。
総じては、一切衆生仏性開顕・世界平和達成等の御守護を賜りまするよう、偏に願い上げ奉る。
いまここに謹んで読誦させていただきました大乗の教え・妙法蓮華経に集められた功徳のすべてを、
宇宙の大生命である久遠実成の本仏で、その現われとして人類救済のために真理を説いてくださった大恩ある教主釈尊。
法華経の教えの真実を証明される多宝如来。
宇宙の大生命の分身であり、過去・現在・未来を通じて、この世のあらゆる所にお出でくださる諸仏。
すべての人を教化、救済しようと誓願された上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩。
釈尊のお徳(智慧・実践・慈悲)の働きを象徴する文殊・普賢・弥勒をはじめとする菩薩方。
多くの困難を乗り越えて、法華経を説き広めてくださった日蓮大菩薩。
法華経の一仏乗の世界を信受して本会を創立してくださり、真の菩薩行に徹し、法華経広宣流布の大導師であられた開祖日敬一乗大師。
開祖さまの教導のもと、人心救済の教化に身命を惜しまず、菩薩行を行じてご法を証明された脇祖妙佼慈道菩薩。
菩薩行の実践が進むようにと守護してくださる神々。
この世のあらゆる所にいらっしゃり、人びとを護ってくださる神々。
に回向し、その慈悲と大恩に深く感謝いたします。
そして、ご先祖さま、今日が命日にあたる霊位、宇宙の一切の万物(精霊)よ、どうか私たちの真心の回向供養をお受けください。
最後に、本仏釈尊をはじめ、一切の諸仏・諸菩薩・諸天善神に心からお願い申し上げます。何とぞ、本会創立の目的であり、仏さまの本願である『一切衆生の仏性開顕と世界平和の実現』が速やかに成就いたしますよう、私たちの菩薩行実践をご守護くださいませ。
立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。
そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。
尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。
・https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-15/
若し眼根の悪あって。
業障の眼不浄ならば。
但当に大乗を誦し。
第一義を思念すべし。
是れを眼を懺悔して。
諸の不善業を尽くすと名く。
耳根は乱声を聞いて。
和合の義を壊乱す。
是れに由って狂心を起すこと。
猶お癡なる猿猴の如し。
但当に大乗を誦し。
法の空無相を観ずべし。
永く一切の悪を尽くして。
天耳をもって十方を聞かん。
鼻根は諸香に著して。
染に随って諸の触を起す。
此の如き狂惑の鼻。
染に随って諸塵を生ず。
若し大乗経を誦し。
法の如実際を観ぜば。
永く諸の悪業を離れて。
後世に復生ぜじ。
舌根は五種の。
悪口の不善業を起す。
若し自ら調順せんと欲せば。
勤めて慈悲を修し。
法の真寂の義を思うて。
諸の分別の想なかるべし。
心根は猿猴の如くにして。
暫くも停まる時あることなし。
若し折伏せんと欲せば。
当に勤めて大乗を誦し。
仏の大覚身。
力・無畏の所成を念じたてまつるべし。
身は為れ機関の主。
塵の風に随って転ずるが如し。
六賊中に遊戯して。
自在にして罣礙なし。
若し此の悪を滅して。
永く諸の塵労を離れ。
常に涅槃の城に処し。
安楽にして心憺怕ならんと欲せば。
当に大乗経を誦して。
諸の菩薩の母を念ずべし。
無量の勝方便は。
実相を思うに従って得。
此の如き等の六法を。
名けて六情根とす。
一切の業障海は。
皆妄想より生ず。
若し懺悔せんと欲せば。
端坐して実相を思え。
衆罪は霜露の如し。
慧日能く消除す。
是の故に至心に。
六情根を懺悔すべし。
もし、自分のものの見方が誤っていたと気づいたならば、一心に大乗の教えを読誦し、諸法実相(第一義空)ということに心をそわせることが大切です。
これが眼の懺悔であり、一切のよくない行ないを消滅し尽くす大本の力です。
また、迷いがあるがゆえに、ものごとを正しく聞くことができないと、人間関係に不和を生じさせる原因となります。
誤った聞き方をすれば、誤った考えを起こし、あたかも本能のみによって動く猿のように、あられもないことをしてしまうのです。
ですから、一心に大乗の教えを読誦し、すべてのものごとは「空」であり、固定した相はないことをしっかりと観じ、すべての人間が持つ仏性を見つめることを心がけなければなりません。
そうすれば、永久に一切の悪を寄せつけず、すべてのものごとが正しく耳に入ってくるようになるでしょう。
感覚の快さのみに執着すれば、その妄念によってさまざまなまちがった感情を起こし、その迷いのためにいろいろな煩悩の塵が生じます。
そのときに大乗経を読誦し諸法の実相を観じるならば、永遠にもろもろの悪業から離れることができ、再び同じことをくり返すことはないでしょう。
舌は、悪口や荒々しい言葉など、口の悪をつくるもとです。
正しい言葉で語りたいと思うならば、常に慈悲の行ないをし、人びとの仏性というものに思いをこらし、自己中心の心から分けへだてをする考え方を捨ててしまわなければなりません。
心というものは、枝から枝へ飛び移る猿のように、しばらくもじっとしていません。
もしその悪へ傾いた心をおさえ、正しい道に引き入れようと思うならば、つとめて大乗の教えを読誦し、天地の真理を悟った身であり(大覚身)、万物を救う力を具え(力)、何ものをも畏れはばかることなく法を説く(無畏)、仏の業を心にありありと思い浮かべることが大切です。
人間の心身の働きは、まるで塵が風に飛ばされるように、周囲の事情によっていかようにも変化します。
そのなかには眼・耳・鼻・舌・身・意(心)の六根のわがままな欲望が暴れまわっています。
この誤った欲望を滅して常に涅槃の境地にいたいと思うならば、大乗経を読誦して仏の智慧と慈悲(菩薩の母)を念じなければなりません。
人間を向上させる勝れた方法は、このように大乗の教えによって、諸法の実相を思うことから生まれてくるのです。
いま説いた六つの教えもその例であって、これらは人間の心の働きを正しくして実相を見きわめるようになる方法にほかならないのです。
すなわち、一切の行ないの過ち(業障)はみな、ありもしないことをあると思う妄想から起こるのです。
もし自分の業障を懺悔しようと思うならば、静かに坐って諸法の実相を深く想い念じることです。
もろもろの罪というものは、ちょうど霜や露のような仮のあらわれに過ぎず、実相を見る智慧の光に会えば、たちまち消滅してしまうのです。
ですから、ひたすら実相を思うことによって、六情根を洗い清めなければなりません。
人間のすべての感覚を鼻根に代表させています。したがってこの一節は、嗅覚が香を貪るように、感覚の快さのみを追求することを意味しています。
「染」とは、染色などが布にしみ込んで離れないように、ものごとに執着する妄念を意味します。
「触」とは感情のことです。
「真」は究極の真実、「寂」は不動の真理という意味ですから、第一義空(諸法実相)ということです。第一義空を人間にあてはめると、すべての人は「仏性を自らのいのちの本質とする」という点において平等であるということになります。
悪い道にそれてしまった心を正しい道へ引き入れることです。
眼・耳・鼻・舌・身・意(心)の六情根(略して六根)が、それぞれ煩悩のおもむくままに働いていることを意味しています。
菩薩行の原動力は智慧と慈悲です。そこで、仏さまと同じような智慧と慈悲を得たいと念ずることが、菩薩を生み出す母であるというのです。
立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。
そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。
尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。
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仏、普賢菩薩に告げたまわく、
若し善男子・善女人、
四法を成就せば如来の滅後に於て当に是の法華経を得べし。
一には諸仏に護念せらるることを為、
二には諸の徳本を植え、
三には正定聚に入り、
四には一切衆生を救うの心を発せるなり。
善男子・善女人、是の如く四法を成就せば、如来の滅後に於て必ず是の経を得ん。
爾の時に普賢菩薩、仏に白して言さく、世尊、後の五百歳濁悪世の中に於て、其れ是の経典を受持することあらん者は、我当に守護して其の衰患を除き、安穏なることを得せしめ、伺い求むるに其の便を得る者なからしむべし。
仏さまは普賢菩薩に向かってお答えになります。
もし信仰深い男女が、次の四つのことがらを成就すれば、如来の滅後においてもこの教えをつかみ、法華経の真の功徳を得ることができるでしょう。
第一は、諸仏に護られ、念われているのだということを確信することです。
第二は、いつも善い行ないをすることを心がけることです。
第三は、いつも正しい教えを実践する人びとの集団・仲間に入っていることです。
第四は、いつも社会全体をよくすること、人のためにつくすことをめざすことです。
もし、信仰深い男女がこの四つのことがらを満足に行なえば、如来がこの世を去ったのちにおいても、必ず法華経を自分のものにすることができるでしょう。
そのとき普賢菩薩は、仏さまに申し上げました。
世尊、ありがとうございます。
よくわかりました。
私はお誓いいたします。
後の五百歳(自己中心の人が多くなり、自分の利益のことばかり主張するため、大小の争いが絶えない末法の世)の濁りきった悪い社会のなかで、この教えを受持する者がおりましたならば、その者をしっかり守護いたしましょう。
もろもろの障りを取り除き、いつも安穏に法を行なえるようにいたしましょう。
何かの隙をねらって取りつき、修行を妨げたり、迫害を加えようとする者たちに、その手がかりを与えないように守ってやりましょう。
立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。
そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。
尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。
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衆生困厄を被って。
無量の苦身を逼めんに。
観音妙智の力。
能く世間の苦を救う。
神通力を具足し。
広く智の方便を修して。
十方の諸の国土に。
刹として身を現ぜざることなし。
種種の諸の悪趣。
地獄・鬼・畜生。
生・老・病・死の苦。
以て漸く悉く滅せしむ。
真観・清浄観。
広大智慧観。
悲観及び慈観あり。
常に願い常に瞻仰すべし。
無垢清浄の光あって。
慧日諸の闇を破し。
能く災の風火を伏して。
普く明かに世間を照らす。
悲体の戒雷震のごとく。
慈意の妙大雲のごとく。
甘露の法雨を澍ぎ。
煩悩の燄を滅除す。
諍訟して官処を経。
軍陣の中に怖畏せんに。
彼の観音の力を念ぜば。
衆の怨悉く退散せん。
妙音観世音。
梵音海潮音。
勝彼世間音あり。
是の故に須らく常に念ずべし。
念念に疑を生ずることなかれ。
観世音浄聖は。
苦悩・死厄に於て。
能く為に依怙と作れり。
一切の功徳を具して。
慈眼をもって衆生を視る。
福聚の海無量なり。
是の故に頂礼すべし。
人びとが困難に遭い、苦しみにさいなまれているとき、観世音菩薩のすぐれた智慧の力は人びとを救います。
観世音菩薩は自由自在の力を具え、どのような場合にも、その人の救いにピタリと当てはまる智慧を身につけていますから、いかなる場所にも現われて救いの働きをされます。
こうして人間を怒り(地獄)・貪り(餓鬼)・愚痴(畜生)といった悪道から救い、生・老・病・死の苦をしだいに取り除き、ついにはことごとく消滅させるのです。
観世音菩薩は真実を見きわめる眼(真観)、迷いのない清らかな眼(清浄観)、宇宙の万物を自分と一体と見る広大な眼(広大智慧観)、悩み苦しむすべての人を救ってあげたいというやさしい思いに満ちた眼(悲観)、すべての人を幸せにしてあげたいという慈しみをたたえた眼(慈観)を持っています。
人びとは、常にそのような眼を持ちたいと願い、仰ぎ見て手本としなければなりません。
観世音菩薩の身からは、汚れなき清らかな光が放たれ、智慧は太陽のごとく、すべての迷いの闇を払い、もろもろの不幸を滅ぼして世の中全体を照らします。
観世音菩薩の説かれる戒めは、人びとの苦しみを抜いてあげようという愛情に根ざしたものですから、その力は雷鳴のうち震うがごとく偉大です。
また、人びとに幸せを与えずにはいられない心は、あたかも日照りに苦しむ国土を覆う大雲のようにありがたいものであって、甘露のように至上の味わいのある真理の教えの雨をあまねく降り注ぎ、煩悩の炎を消してくれます。
争いごとで役所の裁きを受けたり、それでも解決せずに力ずくの戦いとなって恐ろしい目に遭うようなときでも、観世音菩薩の力を念ずれば、もろもろの忌まわしいことは、たちまち消え失せてしまうでしょう。
観世音菩薩は、至上至妙の真理(妙音)を説き、世のあらゆる人間の願いを明らかに聞き分けて(観世音)くれます。
教えを説く声は清らか(梵音)で、説かれる真理の言葉は海鳴りのように人びとの胸に響き入り(海潮音)、すべての迷いや苦しみを除いて(勝彼世間音)くれます。
ですから、自分も観世音菩薩のようになりたいと常に思うことが肝心です。
ほんの一念にも疑ってはなりません。
観世音菩薩は清らかな身であり、いろいろな苦しみや災難に遭ったときも、力強い寄る辺となります。一切の功徳を具えて、慈悲の眼で人びとを見てくれます。
すべての川が海に集まるように、無量の福がその力によって呼び寄せられるのです。
ですから観世音菩薩を礼拝し、その行ないに学んでいくことが大切なのです。
この品の題にある普門の「普」とは、広くあまねく、どこにもかしこにもという意味です。「門」は、出入口の意味から転じて、家をさす言葉に用いられます。また、ものごとを分類する部門という意味もあります。したがって普門を直訳すると、「あまねくすべての家に」「人間が抱える問題のすべての部門に」という意味になります。わかりやすく言い換えれば、「この世のいたるところに、ありとあらゆる問題とあらゆる場面に、あらゆる場所に、自由自在に」ということになります。
立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。
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如来の滅後に於て。
仏の所説の経の。
因縁及び次第を知って。
義に随って実の如く説かん。
日月の光明の。
能く諸の幽冥を除くが如く。
斯の人世間に行じて。
能く衆生の闇を滅し。
無量の菩薩をして。
畢竟して一乗に住せしめん。
是の故に智あらん者。
此の功徳の利を聞いて。
我が滅度の後に於て。
斯の経を受持すべし。
是の人仏道に於て。
決定して疑いあることなけん。
如来が入滅したのちの世において、
仏の説いた教えがどういう因縁で、
どういう順序で説かれたかということをよく知り、
教えの主旨にしたがって誤りなく人びとに説くならば、
日月の光明が、
すべての暗黒を消滅させるように、
人びとの心の迷いの闇を消し去り、
無数の菩薩(信仰者)たちを必ず一仏乗へと導くでしょう。
よって、人生をほんとうに深く考える人(智慧を求める人)は、
この教えの功徳がすぐれていることを聞いたならば、
如来の滅後において、この教えを受持するのが当然なのです。
どうしても、この教え(真理・法)に帰着せざるを得ないのです。
そうなれば、その人が必ず仏道を成ずるであろうことは、
もはや疑いもありません。
一乗とは一仏乗を略したものです。仏さまの教えには、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗という三乗(三つの修行の道)があるように見えますが、それは最高真実の法へ導くための方便であり、最終到達点ではありません。すべての教えは、「一切衆生を仏の境地に導く」というただ一つの目的のために説かれています。三乗という、それぞれに違いがあるように見える道も、この一つの道につながっているのです。ですから、一仏乗とは、自分も他の人もすべてを仏の境地に導く最終的な道を意味します。
立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。
そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。
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過去に仏いましき。
威音王と号けたてまつる。
神智無量にして。
一切を将導したもう。
天・人・竜神の。
共に供養する所なり。
是の仏の滅後。
法尽きなんと欲せし時。
一人の菩薩あり。
常不軽と名く。
時に諸の四衆。
法に計著せり。
不軽菩薩。
其の所に往き到って。
而も之に語って言わく。
我汝を軽しめず。
汝等道を行じて。
皆当に作仏すべしと。
諸人聞き已って。
軽毀罵詈せしに。
不軽菩薩。
能く之を忍受しき。
其の罪畢え已って。
命終の時に臨んで。
此の経を聞くことを得て。
六根清浄なり。
神通力の故に。
寿命を増益して。
復諸人の為に。
広く是の経を説く。
諸の著法の衆。
皆菩薩の。
教化し成就して。
仏道に住せしむることを蒙る。
不軽命終して。
無数の仏に値いたてまつる。
是の経を説くが故に。
無量の福を得。
漸く功徳を具して。
疾く仏道を成ず。
彼の時の不軽は。
則ち我が身是れなり。
時の四部の衆の。
著法の者の。
不軽の汝当に。
作仏すべしというを聞きしは。
是の因縁を以て。
無数の仏に値いたてまつる。
此の会の菩薩。
五百の衆。
幷及に四部。
清信士女の。
今我が前に於て。
法を聴く者是れなり。
我前世に於て。
是の諸人を勧めて。
斯の経の第一の。
法を聴受せしめ。
開示して人を教えて。
涅槃に住せしめ。
世世に是の如き。
経典を受持しき。
億億万劫より。
不可議に至って。
時に乃し。
是の法華経を聞くことを得。
億億万劫より。
不可議に至って。
諸仏世尊。
時に是の経を説きたもう。
是の故に行者。
仏の滅後に於て。
是の如き経を聞いて。
疑惑を生ずることなかれ。
応当に一心に。
広く此の経を説くべし。
世世に仏に値いたてまつりて。
疾く仏道を成ぜん。
過去に威音王という仏がおられ、すぐれた智慧で一切衆生を導かれました。
天界の人びとも、人間界の人びとも、人間以外の鬼神たちも、ともに真心を捧げてお仕えしていました。
この仏が入滅され、その教えも忘れられようとするころ、一人の菩薩がいました。
常不軽菩薩という名でした。
そのころの出家・在家の修行者たちは、教えを自分流に勝手に解釈して、それにとらわれていましたが、常不軽菩薩は彼らのそばに行ってこう言うのでした。『私はあなた方を軽んじません。
あなた方は菩薩の道を行ずることによって、必ず仏となる方々だからです』と。
人びとは常不軽菩薩のことを、いいかげんなことを言うやつだと軽蔑し、罵り、皮肉を言いましたが、菩薩は寛容の精神をもって、じっとそれを受けとめました。
常不軽菩薩が過去からの身(行ない)、口(言葉)、意(心)の三業の跡を清め尽くして、この世の生を終えようとするとき、法華経の教えを聞くことができました。
そのために身も心もすっかり洗われました。
そして、神通力を得て寿命が延びたため、人びとのためにまた広く教えを説きました。
小法にとらわれていた人びとは、常不軽菩薩のおかげで正しく教化され、仏の悟りを志すようになりました。
菩薩はその功徳によって、次の世も、また次の世でも無数の仏にお会いすることができました。
そして、そこでもこの教えを説き続けたために、はかりしれないほどの功徳を得ることができました。その功徳でまた無数の仏にお会いするという循環をくり返すうちに、ついには仏の悟りに達したのです。
そのときの常不軽菩薩が私の前身なのです。
そして当時、小法にとらわれていた出家・在家の修行者たちは、常不軽菩薩から『あなた方は必ず仏になれる人です』といつも聞かされていたために、その言葉によって仏性を開くことができ、無数の仏に会うことができました。
この法会には、菩薩や大勢の出家・在家の修行者たちが集まって話を聞いていますが、じつは、あなた方こそ過去において私が教化した人たちなのです。
私は、過去の世において、あなた方に最高の法であるこの法華経の教えを聞くことを勧め、〈すべての人が仏性の顕われである〉という真実に目を開かせ、宇宙を貫く〈無常〉の根本法則を教え示して、大安心の境地(涅槃)に至らせました。
そして、私自身もいつの時代にあっても、この教えを常に受持したのです。
しかし、仏法に出遇うことは簡単なことではありません。
億億万劫という考えられないほどの年月がたち、時が熟して、初めて法華経を聞くことができるからです。 億億万劫という推量も及ばぬほどの年月を経て、ふさわしい仏縁が結ばれてこそ初めて諸仏世尊はこの教えをお説きになるからです。
そういうわけですから、私が入滅したのちの世の行者たちよ、この尊い教えに疑惑を持つことなく、真心を込めて教えを説き広めてください。
そうすれば、その功徳によって、いつの時代にも仏に会うことができ、まわり道をすることなく仏の悟りに達することができるでしょう。
男の出家僧(比丘)、女の出家僧(比丘尼)、男の在家修行者(優婆塞)、女の在家修行者(優婆夷)のことです。「四部」と言うこともあります。
怒りや反発を感じながらも、じっと堪えるという意味ではありません。相手を恨むことなく、包容力をもって受けとめるということです。
仏教経典には、一万二千とか、五千などという数がよく出てきますが、これらは実数をさすのではなく、「たくさん」と言う意味です。ですから、この五百という数も「大勢の人たち」と言う意味です。
常不軽菩薩も出家する以前は、凡夫の生活を送っていました。ときには自分勝手な行ないをしたり、怒ったり、人と争ったこともあったはずです。そうした過去の誤った行ないが、菩薩行によって、すっかり清められたということです。
立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。
そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。
尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。
・https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-10/
我仏を得てより来。
経たる所の諸の劫数。
無量百千万。
億載阿僧祇なり。
常に法を説いて。
無数億の衆生を教化して。
仏道に入らしむ。
爾しより来無量劫なり。
衆生を度せんが為の故に。
方便して涅槃を現ず。
而も実には滅度せず。
常に此に住して法を説く。
我常に此に住すれども。
諸の神通力を以て。
顚倒の衆生をして。
近しと雖も而も見ざらしむ。
衆我が滅度を見て。
広く舎利を供養し。
咸く皆恋慕を懐いて。
渇仰の心を生ず。
衆生既に信伏し。
質直にして意柔輭に。
一心に仏を見たてまつらんと欲して。
自ら身命を惜まず。
時に我及び衆僧。
倶に霊鷲山に出ず。
我時に衆生に語る。
常に此にあって滅せず。方便力を以ての故に。
滅不滅ありと現ず。
余国に衆生の。
恭敬し信楽する者あれば。
我復彼の中に於て。
為に無上の法を説く。
汝等此れを聞かずして。
但我滅度すと謂えり。
我諸の衆生を見れば。
苦海に没在せり。
故に為に身を現ぜずして。
其れをして。
渇仰を生ぜしむ。
其の心恋慕するに因って。
乃ち出でて為に法を説く。
神通力是の如し。
阿僧祇劫に於て。
常に霊鷲山。
及び余の諸の住処にあり。
衆生劫尽きて。
大火に焼かるると見る時も。
我が此の土は安穏にして。
天人常に充満せり。
園林諸の堂閣。
種種の宝をもって荘厳し。
宝樹花果多くして。
衆生の遊楽する所なり。
諸天 天鼓を撃って。
常に諸の伎楽を作し。
曼陀羅華を雨らして。
仏及び大衆に散ず。
我が浄土は毀れざるに。
而も衆は焼け尽きて。
憂怖諸の苦悩。
是の如き悉く充満せりと見る。
是の諸の罪の衆生は。
悪業の因縁を以て。
阿僧祇劫を過ぐれども。
三宝の名を聞かず。
諸の有ゆる功徳を修し。
柔和質直なる者は。
則ち皆我が身。
此にあって法を説くと見る。
或時は此の衆の為に。
仏寿無量なりと説く。
久しくあって乃し仏を見たてまつる者には。
為に仏には値い難しと説く。
我が智力是の如し。
慧光照すこと無量に。
寿命無数劫。
久しく業を修して得る所なり。
汝等智あらん者。
此に於て疑を生ずることなかれ。
当に断じて永く尽きしむべし。
仏語は実にして虚しからず。
医の善き方便をもって。
狂子を治せんが為の故に。
実には在れども而も死すというに。
能く虚妄を説くものなきが如く。
我も亦為れ世の父。
諸の苦患を救う者なり。
凡夫の顚倒せるを為て。
実には在れども而も滅すと言う。
常に我を見るを以ての故に。
而も憍恣の心を生じ。
放逸にして五欲に著し。
悪道の中に堕ちなん。
我常に衆生の。
道を行じ道を行ぜざるを知って。
度すべき所に随って。
為に種種の法を説く。
毎に自ら是の念を作す。
何を以てか衆生をして。
無上道に入り。
速かに仏身を成就することを得せしめんと。
私が仏となってから、これまでに経った時間は無量・無限です。
そのあいだ私は、常に真実の教えを説き、無数の衆生を教化して仏道に導きました。
そのときからもまた、無量の月日が経っているのです。
私は衆生を救う手段の一つとして、この世から姿を消したこともありますが、実際は滅度(入滅)したのではなく、常にこの娑婆世界にいて法を説いているのです。
私は常にこの世界にいるのですが、自由自在な神通力によって、顚倒している(何ごとも自分中心に考え、ものごとの真実を見ようとしない)衆生には姿が見えないようにするのです。
衆生は、私が入滅したのを見て、舎利をまつって供養をし、そこではじめて真剣に仏の教えを求めようという心を起こします。
求道の心を起こした衆生は、教えを心から信じ、柔らかく素直な心で、仏とともにいるという自覚を得ようと、命をも惜しまないほどの真剣さで努力します。
このような人びとが多くなれば、私は弟子たちとこの世に出てきて、『私は常にここにいますが、教化の手段として必要だと思われるときに入滅を見せるのです。
また、この世界以外の場所でも、正しい教えを敬い、信じ、聞きたいと願う人たちがいれば、私はその人たちの前にも現われて無上の法を説きます』と衆生に語ります。
多くの人は、このことを知らないために、私が滅度するのだと思い込んでいるのです。
仏の眼で衆生を見ると、多くの人は苦の海に沈んで、苦しみもがいています。
さればこそ、私はわざと身を現わさないで、衆生に自ら仏を求める気持ちを起こさせるのです。
仏を恋慕する心が人びとに起これば、すぐに身を現わして、その人たちのために法を説きます。
仏の神通力とはこのようなものであって、無限の過去から無限の未来まで、娑婆世界およびその他の世界に仏は存在しているのです。
衆生の目で見ると、世界全体が大火に焼かれてしまうような時代になっても、仏の国は安穏であって、天上界の者や人間界の者がたくさん集まり、楽しい生活を送っています。
美しい花園や静かな林、光輝く宝玉によって飾られた立派な建物がたくさんあります。
木々には美しい花が咲き、豊かな実がなっていて、その下で人びとは何の憂いもなく遊んでいます。
天人は妙なる音楽を奏で、曼陀羅華の花びらを雨のように、仏や人びとの上に散じています。
仏の眼から見た世界は、このように平和で美しいのですが衆生の目から見ると、あたかも大火に焼かれるがごとく、不安や恐怖に満ちているように見えるのです。
このような衆生は、よくない行ないを積み重ねるために、長い年月が経っても三宝(仏・法・僧)の名をくことができません。
反対に、世のため人のためにさまざまな善行をなし、心が柔和で素直な者は、私がいつもそばにいて常に法を説いている姿を見る(自覚する)ことができるのです。
そのような人びとに対して、あるときは『仏の寿命は限りないものであって、無始無終である』と説きます。
長いあいだかかって、ようやく仏の存在を知った人には、『仏に出会うことは難しいのだから、いま出会えた喜びを胸に刻んで、怠らず励むのですよ』と説くこともあるのです。
仏の智慧の力はこのように大きいものであり、その智慧の光が照らしだす世界は無量です。
また、仏の寿命も無量であって、それは長いあいだ善業を積んで得た寿命なのです。
ほんとうの智慧を求めようとしているみなさんは、仏の寿命が永遠であり、智慧の力が無限であることを疑ってはなりません。
もし、疑いを起こすような迷いの心があれば、永久に断ち切ってしまわなければなりません。
仏の言葉は、すべて真実なのです。
先に述べた譬え話において、毒を飲んで本心を失ってしまった子どもたちを治すために、医師が善い方便をもって、実際は死んでいないのに『死んだ』と告げさせたことを、だれもとがめたりしないのと同じように、仏が姿を見えなくするのも決してうそ、偽りではありません。
私は父です。
世の父です。
さまざまな苦悩を抱える衆生を救う者です。
いつも衆生のそばにいて、その苦しみを除こうとしているのですが、凡夫の心が顚倒しているので、その真実を見ることができません。
そこで、その目を覚まさせるために、実際はそばにいても『時期がくれば姿を消すのだ』と告げるのです。
もし、いつでも仏に会えるのだということになれば、衆生にわがままな心が生じて五欲に執着する(己の欲望にとらわれる)ため、修羅(争いの世界)や地獄(怒りの世界)などもろもろの悪道の苦しみが人生に現われてくるのです。
私は衆生のすべてを常に見とおして、ある者はよく仏の道を行じており、ある者は行じていないということを知り尽くしていますから、衆生の心がけや教えを理解する力に応じて、適切な方法を選び、さまざまに法を説いてあげるのです。
とはいえ、どんな衆生に対しても、私の本心は少しも変わりません。どうしたら衆生を仏の道に導き入れることができるだろうか、どうしたら速やかに仏の境地に達せしめることができるだろうかと、常にそれのみを念じているのです。
ここで言う神通力とは、修行などによって得られる不思議な力ということではありません。久遠実成の本仏は、宇宙の一切のものを生かしている根源の大生命ですから、自由自在の力を持っておられます。その力を表現しているのです。
釈尊が法華経を説かれた場所が霊鷲山であったために、こうおっしゃられたのであって、真の意味は「この世」ということです。私たちが仏の教えを聞くところは、どんな場所であっても、そこが霊鷲山なのです。
娑婆世界以外の国土ということですが、宇宙のありとあらゆる場所という意味にとらえるといいでしょう。
天上界に咲く花で、見る人の心を喜ばせずにはおかない、美しい花のことです。
仏教でいう罪とは、必ずしも悪いことをしたという意味だけではなく、煩悩に振り回されて、自らの仏性をくらましてしまっていることもいいます。
仏さまに会うことも、仏さまの教えにふれることも、教えを求める仲間に入れてもらう機会にも恵まれないということです。
仏の智慧の光が照らしだす世界は無量であるということは、いつ、いかなる場所でも、迷いの闇にいる衆生に救いの力を与え、仏性を輝かせる働きをするということです。したがって、すべての人が必ず真理に目覚めることができるという意味です。