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2025年5月31日土曜日

神通力


 
法華経に出てくる神通力は、まぁ、現代では超能力のことですが、お釈迦さまの時代は神通力と呼ばれていました。で、お釈迦さまをはじめ十大弟子の人達は皆、神通力の能力を持っていたとされています。
 
これは、凡人は、どうしたら神通力を会得できるのかと考えてしまいますが、実は、神通力を会得するのが目的でなく、仏道の修行をしていれば自然に会得してしまうものだそうです。
そして、ブッダ教団の幹部は、結果的にMr.マリックのような人の集まりになりました・・・。
 
しかし、この幹部連中を見ていて、オレも神通力が欲しいと願っていた者がいました。そう、お釈迦さまの従弟の提婆達多です。 この人、お釈迦さまと同じように優秀な人でしたが、あらゆる面で一歩お釈迦さまには及びません。
 
で、しだいにお釈迦さまに悪意を持つようになり、いろいろとお釈迦さまの命を狙います。神通力も十大弟子の一人をそそのかし、会得してしまいます。もともと優秀な人ですので、次第に実力者になっていきますが、もろもろの悪行がたたり、最後には生きながら地獄へ落ちたと言われています。
 
法華経における神通力は、仏や菩薩が持つ超人的な力だけでなく、真理を明らかにし、衆生を救済する力としての側面が強く、法華経の教えを理解し、実践する上で重要な概念であることがわかります
 
で、まとめですが、正しい行い(修行)をしていくと自然に神通力が会得できるらしい・・・、また、神通力を正しい行いに使用しないと地獄に落ちるらしい・・・とにかく正しい行いです!

2025年5月26日月曜日

劫濁(こうじょく)

 


法華経の方便品に劫濁(こうじょく、または、濁劫という場合もある)という言葉がでてきます。
これは、世の中が同じ状態が長くつづくと動脈硬化をおこして汚れてくるという意味です。

今の世の中、まさにコレですね。
天下りや渡り、2世3世議員、いつの間にか国のトップは、普通のおじさん達になってしまいましたね。

2025年5月23日金曜日

ダンナ(旦那)とは ?


旦那とは、そう、我々亭主のことです(独身者は除く)。

実は、旦那の語源は、古代インドのサンスクリット語で『ダーナ』といい、「布施」を意味します。
 
「布施」は、慈悲心や情け、思いやりを表しいます。

昔、旦那は寺院や僧侶に布施をする「施主」や「檀家」の意味として用いられていました。
 
やがて、一般にも広まり、稼いだお金(ある意味、布施)で生活の面倒を見る人、つまり、妻が夫を呼ぶ敬称として旦那が用いられるようになったのです。

まさに、我々旦那衆は、家族のために布施する存在ですね。 

財布の中は、最近は小銭しか入っていませんが、こんな時だからこそ、本来の旦那になっているのですね(^^;

2025年5月21日水曜日

釈提桓因(しゃくだいかんいん)とは ?


法華経序品第ーに以下のくだりがでてきます。

爾の時に釈提桓因、其の眷属二万の天子と倶なり。

釈提桓因とは、帝釈天の別名で、娑婆世界のうえにある天上界の主とされていました。
 
その帝釈天の眷属には、以下の天子がいました。 
 
  • 名月天子(月の神)
  • 普香天子(星の神)
  • 宝光天子(日の神)
  • 持国天(四大天王の一人:東方を護る)
  • 多聞天(四大天王の一人:北方を護る。別名:毘沙門天ともいう)
  • 増長天(四大天王の一人:南方を護る)
  • 広目天(四大天王の一人:西方を護る)
 
実は、これらの神々は、仏教ではなくバラモン教(古代インドの宗教)の神なのです。
 
釈迦は、これらの神々を排除することなく、仏法護持の神々としたのです。

2025年5月20日火曜日

終日竟夜(ひねもすよもすがら)とは?


法華経譬喩品第三に以下のくだりが出てきます。

世尊、我昔よりこのかた、終日竟夜毎に自らを剋責しき。
 
 
終日竟夜は、「ひねもすよもすがら」と読み、「昼も夜も常に」という意味だそうです。

 

2025年5月17日土曜日

願生(がんしょう)

 


法師品第十で以下のくだりがあります。

衆生を哀愍し願って此の間に生れ、広く妙法華経を演べ分別するなり。

衆生を救おうという願いと慈悲心によって生まれ変わってくること。これを願生(がんしょう)という。

人間とは、もともと人の意味でなく、人と人の間のことで世間という意味です。 

そして、「此の間に生れ」とは、「世間に生まれる」ということであり、「人間に生ずる」ということです。
 
菩薩行とは、衆生を救おうと広く妙法華経を演べ分別すること。

ということで、人は、自覚はないのだけれど、菩薩行をするために願って生まれてくるらしい。

2025年5月16日金曜日

三帰依文とは


三帰依文とは、仏教徒なら毎日お経を上げる前に必ず唱える例の決まり文句です。

自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
深く経蔵に入って、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
大衆を統理して、一切無げならん。

 


実は、「まさに」からのくだりは、日本の江戸時代末期の仏教学者が、『法句経(ほっくきょう)』『華厳経(けごんきょう)』『法華経(ほけきょう)』の経文の一部を組み合わてまとめたものだそうです。

オリジナルは

自ら仏に帰依したてまつる。
自ら法に帰依したてまつる。
自ら僧に帰依したてまつる。

で、これを3回唱えるらしい。
この三帰依は、仏教初期(約2500年前)の時に教団へ入る不動の心構えとされていました。

とりあえず、前に書いた三帰依の記事3つ。 

2025年5月14日水曜日

一大事の因縁とは


法華経方便品に以下の一節が出てきます。

諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なるを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。
衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
舎利弗、是れを諸仏は唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうとなづく。

要約すると、仏さま(諸仏)は、我々(衆生)の良心(仏性・仏知見)を「開き」「示し」「悟らせ」「正しい道に入らしめる」ため、この世に出現したとのことです。

逆にいうと、我々は、仏道とご縁になることにより、良心(仏性)に目覚め、正しい行いをしていくことが、結果的に幸せになれることであり、それが生きがいなのだと・・・。

2025年5月13日火曜日

三世・三界・三世間・三世界

 

まぎらわしいので、整理しときます。
 

三世とは

* 前世:過去
* 現世:現在
* 来世:未来

 

三界とは

* 欲界:淫欲と食欲に支配され、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人の六道が住む世界
* 色界:欲望は離れているが物質的条件にとらわれた世界
* 無色界:物質的なものから完全に離れた精神的条件だけをもつ世界

 

三世間とは

* 仮名(けみょう):生命のあるもの、衆生世間とも呼ばれる
* 国土(こくど):山河大地など、住んでいる場所を指す
* 五蘊(ごうん):人間(心や身体)や世界を構成している構成要素

 

三世界とは

* 第一世界:資本主義先進国
* 第二世界:社会主義諸国
* 第三世界:いずれにも属さない発展途上国の総称

2025年5月12日月曜日

仏の三十二相

 

以下は、いわゆる、仏の三十二相です。
無量義経の徳行品に出てきます。

釈尊の完全な人格への賛嘆を示しているとされています。
仏像は、まさにそのような形になっていますね。
 
  1. 額にある月のような渦毛
  2. 項(うなじ)に日の光あり
  3. 渦巻く頭髪は紺青色
  4. 頭上は高く盛り上がっている
  5. 澄み切った鏡のような清らかな眼
  6. その眼は上下にまじろぎ
  7. 紺色の眉はのびのびとし
  8. 口や頬は正しく整い
  9. 唇は赤い花のよう
  10. 舌もおなじく
  11. 歯は、雪のように白く
  12. 40本きちんとそろって
  13. 額は広く
  14. 鼻長く
  15. 顔全体がひろびろとして晴れやかで
  16. 胸には卍が表れ
  17. 上部は獅子の胸のように張って
  18. 手も足も柔らかで
  19. そして車の輪ような紋ある
  20. 脇の下と掌に細い線が揃っていて
  21. それが内外ともにまとまっている
  22. 上腕はながく
  23. 下腕もながく
  24. 指はまっすぐで細く
  25. 皮膚はキメ細やかで柔らかく
  26. 毛はすべて右のほうに渦巻いている
  27. 踝はよく現れて形がいい
  28. 膝も同様
  29. 陰部は隠れていて見えず
  30. 筋は細く
  31. 骨はがっしりしていて
  32. 脚は鹿のようにすらりとしている

補足:

額にある月のような渦毛のことを白毫相(びゃくごうそう)といい、非常に徳の優れたしるし。

項(うなじ)に日の光ありは、後光ともいい、非常に徳の優れたしるし(もしかしてオーラ?)。

卍(万字)は、仏教のしるし。四方が円満に揃っている意味。

2025年5月11日日曜日

サッダルマ・プンダリーカ・スートラ

 


法華経こと『妙法蓮華経』は、サンスクリット(梵語)でサッダルマ・プンダリーカ・スートラといいます。 

  • サッダルマとは、サット(正しい)とダルマ(法)が合わさったもので、そのまま正法を訳した人ともいますが、鳩摩羅什は『妙法』と訳しました。
  • プンダリーカとは、白い蓮の華で、そのまま『蓮華』と訳されました。
  • スートラとは、通し糸で、漢字での縦糸を表す『経』と訳されました。
 
妙法蓮華経の『従地涌出品 第十五』に以下の偈があります。

『善く菩薩の道を学して、世間の法に染まざること蓮華の水の在るが如し』

つまり、法華経は、正しい法を学して、それに沿っていれば、泥水にも染まらず、いつも清らかな白い蓮華のようにいられる…という意味になると思います。

2025年5月10日土曜日

阿鼻地獄(あびじごく)と阿迦尼タ天(あかにたてん)


法華経の序品に、無量義を説いた後、三昧に入っていたお釈迦さまが、『眉間の白毫相(びゃくごうそう)より光を放ち、その光が、下は阿鼻地獄(あびじごく)、上は阿迦尼タ天(あかにたてん)に至る』というクダリがあります。
 
阿鼻地獄は無間地獄ともいい、人間のあり方における最低の状態(地獄界)です。
阿迦尼タ天は有頂天ともいい、人間のあり方における最高の状態(天上界)です。

つまり、光は『仏の智慧』の象徴で、それが、どのような状態の人間にでも行き届きました。


そして、このことがどいうことか、疑問に思った弥勒菩薩が文殊菩薩に教えを請いました。
そう、法華経のはじまりです。

2025年5月9日金曜日

慈悲と智慧

 


まずは、おさらいです。 
  • 慈悲の慈とは、慈しみ与え幸福にしてあげること。
  • 慈悲の悲とは、悲しみを取り除いてあげること。
  • 智慧の智とは、すべての物事の違いを見分ける力。
  • 智慧の慧とは、すべての物事の共通を見いだす力。
 
そして、弥勒菩薩は慈悲の象徴の菩薩で、文殊菩薩は智慧の象徴の菩薩です。
で前回のつづきです

『疑問に思った弥勒菩薩が文殊菩薩に教え請いました。』
 
ということは、『慈悲』が『智慧』に呼びかけたということになります。
『慈悲』の呼びかけに応じて『智慧』が発動するのです。

菩薩行とは、相手を救ってあげたいという、やむにやまれぬ慈悲の心です。
ところが、慈悲だけではダメで、そこには智慧がともなわないといけません。
慈悲と智慧がそろってはじめて、正しい導きができるのです。

2025年5月8日木曜日

三昧とは


普通、三昧とは、遊び三昧とか温泉三昧とかで、楽しいことをずーっとやっている意味で使われます。
また、無念無想になる行のように思う人もいるかも知れません。

しかし、仏教でいう三昧とは、そのようなものではなく、一切の雑念を断ち切り、<善き思い>と<正しい教え>に<全精神を集中>し、その一念が長い間切れ目なくつづいている状態を言うのです。
 
瞑想とか思索と違うところは、『<善き思い>と<正しい教え>に<全精神を集中>』というところです。

善き思い>とは、徳のことです。
正しい教え>とは、法のことです。

そして、<全精神を集中>とは、表面の心だけでなく、潜在意識までも、徳と法をしみこませることなです。
徳と法が沢山しみ込んだ人格こそ、仏教徒の目指すところなのです。

とにかく、三昧とは、一切の雑念を断ち切り『<善き思い>と<正しい教え>に<全精神を集中>』することなのです!

2025年5月6日火曜日

仏の十号



法華経には、釈尊を始めとして沢山の仏さまが登場します。
過去の日月燈明仏等や弟子達の未来仏、そして他の惑星の仏さま達……。

登場するたびに、仏の十号という尊称で紹介されます。
 
  1. 如来(にょらい)- 真如(ほぼ真理と同じ)から来た人
  2. 応供(おうぐ)- 供養を受けるに相応しい人
  3. 正偏知(しょうへんち)- 正しい智慧を具えた人
  4. 明行足(みょうぎょうそく)- 智慧(明)と実践(行)が満ち足りている人
  5. 善逝(ぜんぜい)- 迷いを完全にのぞきさってしまった人
  6. 世間解(せけんげ)- 世間をはっきり見分けることができる人
  7. 無上士(むじょうじ)- この上もないりっぱな人
  8. 調御丈夫(じょうごじょうぶ)- どんな人でも教えに導くことが出来る人
  9. 天人師(てんにんし)- 天上界と人間界の大導師の人
  10. 仏世尊(ぶつせそん)- 悟ったことにより世の中で尊重される人
 
ということで、仏の十号でした。

2025年5月5日月曜日

四顛倒(してんどう)


顛倒とは、物事を逆さまに見ること、すなわち真相を見誤ることです。
普通の人(凡夫)には4つの顛倒があると、仏教では云われています。

 

  • 常顛倒 - 本来は無常(変化)であるのに、常(変化しない)と考える。
  • 楽顛倒 - もともとは苦であるものを、一時的な現象だけで楽と考える。
  • 淨顛倒 - 不浄なるものを、表面だけを見て淨と考える。
  • 我顛倒 - 世の中は助け合って成り立っているものを、自分の力だけだと考える。

 

人は追い込まれると、まさに四顛倒になりますね。
余裕をもって四顛倒にならないようにいきましょう。

2025年5月4日日曜日

『劫』という時間の長さ

 


お経には、『劫(こう)』という時間の単位がよく登場します。
では、『劫』という時間の長さはどれぐらいでしょうか?

お釈迦さまは、以下の様な旨を、おっしゃたそうです。

 

『たとえば、一辺が40里の大きさの超巨大な石の山があって、その頂きを100年に一度ずつ柔らかい衣の袖で撫でることによって、 石の山がすこしずつ磨れてゆき、すっかり磨れてしまうまでの年数よりも、劫というのはもっと長い時間である』
 

いや~どんだけ、長いんや~。
ちなみに、1里は約3.9キロメートルです。

2025年5月3日土曜日

中道とは?

 


普通、中道とは、物事の中程の道と思われています。
しかし、釈尊は、最初に説法された初転法輪で以下のように仰いました。 


『比丘たちよ。この世には近づいてはならぬ2つの極端がある。如来は、この2つの極端を捨て、中道を悟ったのである。』

 

この『中道』とは、『極端を離れたほどよい道』というあいまいなものではなく、ただ一つしかない真理に合った道を云うのです。


仏道修行によって『我執』を捨て、八つの正しい道(八正道)を歩むことを心がけていますと、 しだいしだいに、考え方や行いが真理に合うようになってくるのです。


では、真理に合うとは、『仏教で云う『真理』とは?』を参照願います。

2025年5月1日木曜日

我執とは?

 

 

普通、『我執』とは、我に執着することで、すべて自己中心に考え「自分のために・・・」と考える気持ちです。
 

釈尊は、お悟りを開かれた時につぎのように仰いました。 

『奇なるかな。奇なるかな。一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す。ただ妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず。』

つまり、我々の心に、この我執が充満しているかぎり、すべてのものを生かす真理が入り込む余地がないのです(証得せず)。 

逆に、『我執』を捨てた『無我』の境地になると、真理の光が何の障害もなく心の底に差込み、染み込んでくるのです。

したがって、いくら仏教を学んでも行じても、『我執』を捨てなければ、救いも幸せも生ずるはずがないのです。 

では、どうしたら『我執』を捨てることができるかというと、仏教徒の人は、朝夕の読経供養がいいらしいです。 では、一般の人は、どうするの・・・仏教徒になるしか・・・。

2025年4月30日水曜日

空(クウ)とは?


 

色即是空とか空即是色といった言葉をよく目にします。 この空(クウ)は、一般的な意味は空『カラッポ』という意味です。
 
しかし、仏教で云う空とは、全く反対の『実体』と云うことなのです。
 
空の原語である梵語のシャーニャは、『脹らむもの』と云う意味だそうです。
 
『脹らむもの』とは、エネルギーの象徴です。
 
生きて、動いて、働いて、ものごとを作り出すエネルギー、それが空の真の意味なのです。
 
『実体』と『エネルギー』は一見矛盾すると思いますが、現代物理学では、究極の物質(実体)はエネルギーだそうです。 だから、矛盾していないのです。
 
究極の物質が『空』であると云う事は、容易にこの宇宙の実体が『空』であるということにたどり着きます。 
 
また、人間も宇宙の生成物の一つである以上、『空』なのです。
 
したがって、人間の本質は、生きて、動いて、働いて、ものごとを作り出すエネルギーで、すべての人間は、同じ『空』なのです。 

つまり、人間は、何かを創造することが本質で、すべての人間は、平等に空に生かされている兄弟姉妹なのです。 
 
だからこそ、大調和のある世界を兄弟姉妹で創造することが、『空』の最終形態なのかなと思う次第です。
 
と、私の今のレベルでの空の理解でした。"違うぞ!"、という方、ご指導よろしくお願いいたします。