そんな青年の母は、手術等のお見舞えに来た人達などに、ことある毎に『有り難い有り難い』と言っていました。
そして、それは、お母さんやご先祖さまから受け継いだ感謝の気持ちだったのかも知れません。
『もうとっくにバスが来ている時間なのに、なんで来ないんだぁ!こんな時刻表などいるもんか!捨てちまえ!』
すると、連れ合いのおばあさんが言いました。
『おじいさんや、その時刻表がないと、バスがどれだけ遅れたかわかりませんよ・・・』
2007/5頃に京王線で調布駅から分倍河原駅に通っていた時に遭遇したことを、旧燈明日記に書いた記事なんだけど、凄く印象に残っていたので、法華経ブログでも掲載することにしました。
朝通勤で、いつもちょっとうるさく、悪ぶった野球部の高校生の少年がいました。
その少年は、東府中で降りるのですが、話に夢中になっていたのか、ドアが閉まる寸前に飛び降りました。
あせって降りたので、野球帽を車内に忘れてしまったのです。
すると、20才ぐらいの青年がその帽子を見つけましたが、タイミング的にその子に渡すには無理かと思われました。
しかし、あと10Cmぐらいでドアが閉まるとこを目掛けて外に投げたのです。
そして、無事、帽子は少年のもとに戻りました。車内はほっとした雰囲気になりました。
ドアが閉まり電車が出発すると、その少年が、帽子を投げてくれた青年に向けて最敬礼をしているのです。
私はその一部始終を見ていて、なぜか、凄く感動したのでした。
不良っぽい少年が、最敬礼、このコントラストが感動の源泉かな・・・(^o^)
今日は、3月20日春分の日です。そう、お彼岸です。お彼岸は、超簡単に言うと先祖供養をする日です。先祖というと大昔のことのように思いますが...、実は、一番身近な先祖は親だったりします。まして、お子さんがいる人は、自分が先祖だったりします。
たとえば、子供から親孝行をされた時は、言葉では言い表せないぐらい嬉しいものです。また、親は無条件で子供たちの健康と安全をいつも見守っています。
また、よく考えると、子が親を思う親孝行って、私たちが先祖を思う先祖供養と同じなのですね。ですから、先祖供養は、ご先祖さまが、言葉では言い表せないぐらい嬉しがっているはずなんです。
そして、親が子を見守るように、ご先祖さまは、無条件で私達の健康と安全をいつも見守っているんです。ちなみに、読経や念仏によって得た功徳を故人に回し向けるを「回向」と言います...。
先日、こんな話しを聞きました。
ある母と娘がいました。娘は亡くなったお祖母さんが大好きでした。 娘は、小学校である賞をもらい、家に帰るとすぐ、お祖母さんに知らせたく、 仏壇に賞状をお供えました。 すると、ろうそくの火がゆれたのです...。 それを見た娘は、「お祖母ちゃんが喜んでいる、喜んでいるよ!」と言いました。 母は、きっとそうね、きっとそうね、と娘を抱きしめました...。
情景が浮かんで・・・涙涙・・・
2007年5月頃に京王線で調布駅から分倍河原駅に通っていた時に遭遇したことを、旧燈明日記に書いた記事なんだけど、凄く印象に残っていたので、法華経ブログでも掲載することにしました。
京王線の飛田給駅8時05分着の電車で、一番最後の車両の一番奥のドアにいつもいる少女。
この少女は、飛田給駅に着く寸前に『とびたきゅ〜』と大声で叫び、そして、降りる少女です。
この車両に乗っている人々は、今では、皆、その瞬間を心待ちにしています。
そして、なぜか、その声を聞くと、一日が幸せにすごせるような気がするのです。
先日、私は少女の横にいました。そして、飛田給駅に着くと、その日はなぜか、蚊がなくような小さな声で『とびたきゅ〜』と言ったのです。
ですので、たぶん私以外は、その声は聞こえませんでした。
すると、車内は騒然、『え〜!なんで言わないの!』と言う声があっちにもこっちにも。
高校生の男子グループなどは、『俺、今日は駄目だ、あの声を聞かないと元気でない…どうしよう…』
そう、少女はすでにその車両の人々を幸せにするアイドルになっていたのです。
人は、その少女を数学ガール(書名)でなく、飛田給ガールと呼びました(少なくとも私はそう呼んでいます)。
あなたも是非、飛田給駅8時05分着の一番最後の車両に乗ってみてください。
飛田給ガールの幸せの声を聞いてみてください!
記憶では、見るからに知的障碍者の少女でしたが、車内を和やかにする天使のような女の子でした。今でも強く印象に残っています。ありがとう・・・飛田給ガール。今はどうしているんだろうか・・・
実は、この記事は、法華経ブログにアップするのは場違いかなと思ったのですが、相手の仏性を拝むと云う、法華経の精神と一致するのでここにもアップすることにしました。では、行きます。
警備員の新任教育での講師さんから聞いた、ちょっといい話です。
その講師さんがまだ現場で警備をしていた時のことでした。
学校の警備をしており、門のところで立哨して、先生や生徒達全員に挨拶をしていました。
みなさん、挨拶を返してくれるのですが、どんなに挨拶しても挨拶を返してくれない女の子がいたのです。
しかし、いつかは挨拶を返してくれると思い、特にその女の子には必ず挨拶をしていました。
ある時、学校で学園祭がありました。
その女の子が父親と手をつないで門のところにきて言いました。
『お父さん、この警備員さん、いつも私へ挨拶してくれるの、私、それがうれしくてうれしくて…』
それを聞いた当時の講師さんも、うれしくてうれしくて涙が止まらなかったそうです。
その女の子が挨拶を返さなかったのは、単に恥かしがり屋さんだっただけなのですね。
その女の子への仏性礼拝は通じていたのですね(^o^)
布薩の日に、某教会で、機関紙『佼成』の勉強会(法座)に参加する機会がありました。
ちなみに、布薩の日とは、過去に書いています。
今回の機関紙『佼成』のお勉強とは、会長先生の『親孝行と仏道』というご法話についてでした。また、某教会のRKK教団では「親孝行」「先祖供養」「菩薩行」の3つを生活実践の柱としています。
そしてその勉強会で、「親孝行」こそ仏道そのものだと教えていただきました。「親孝行」とは、生まれつき授かっている仏心、仏性をよりよくはたらかせ、磨き、本来の輝きそのままに生きることにほかならないと教えていただきました。
講師の教会長さんは、教務員時代、四国の辺鄙な港に行った時、ある人から、あなたは布教で前しか見ていない、あなたを心配して祈っているご両親を思ったことがありますか…と言われれ、込み上げてくる涙が止まらなかったとおしゃっていました。
また、会長先生のお供で、佼成霊園から杉並本部(大聖堂)へ歩く修行の時に、会長先生へ、『なぜ初代会長の開祖さまから会長を継承したのですか?』、と質問しました。すると、一言『親孝行です』…とおしゃったそうです。
そういえば、お釈迦さまは、亡くなるときに北枕にしたといいます。その場所での北は、お釈迦さまの親のお墓がある方向で、親を置き去りにして出家した親不孝をいつも気にして、足を北に向けることができないほど親を思っていたからなのです。
また、日蓮も身延山での修行時、山頂で毎日、生まれ故郷(千葉県天津小湊)に向かって合掌されていたとのことです。その合掌されていた山頂が、これにちなんで思親閣となったとか…
とにかく、会長先生もお釈迦さまも日蓮も、みな親孝行なのです。つまり仏道は、親孝行がメインの要素なのですね・・・(^o^)
旧燈明日記からの引用です。
下坐に生きる By 神渡良平の紹介文です。
隔離病棟のドアをあけると、そこには、痩せこけた一人の青年がいた。
その青年は、開放性の結核にかかっており、余命10日といわれていました。
青年の生い立ちは、それは、それは、悲しいものでした。
生まれる前に父は蒸発、母は青年を産み落として亡くなりました。
その後、親戚や学校から邪魔者扱いにされながら育ち、14歳で家を飛び出し、賽銭泥棒等で生活をしていましたが、警察に捕まり、少年院へ送られました。その後、結核になり、今ここに、人間不信のまま辛い辛い人生の幕を閉じようとしていたのです。
あまりに不憫な青年を、なんとか、救ってあげたいと院長から頼まれ、私はドアをあけました。
私 :「おい!どうでぇい。」 青年:「...」(無応答、しばらく間をおいて...) 私 :「折角、見舞い来たんじゃねぇか。なんとか言えよ!」 青年:「うるせえ!」 私 : 言葉は乱暴だけど、しかし、一瞬の青年の寂しい表情を見逃さなかった...。 私 :「おい、こっち向けよ、今日は一晩看病させてもらうからな」 青年:「チェッ、もの好きな奴やな」生い立ち等の話しをしながら、青年は、次第に心を許しはじめた...。
私 :「折角来たんだ。足でもさすろうか」 私 : さすった足は、枯れ木のような細い足で、骨の形がみえるようだ...。 青年:「おっさんの手は、やわらかいなぁ」 私 :「何言っとるんじゃ。男の手が柔らかいはずがあるかい」 青年:「うんにゃ、柔らかいぞ...、おっさん、あのな!」 私 :「なんじゃ」 青年:「笑っちゃ、いかんぞ」 私 :「笑うもんか、早く言え、もったいぶるな」 青年:「あのなー、一度で言いから、『お父っつぁん』って...呼んでいいかい」 私 :「ああ、いいよ、わしでよかったら、返事するぞ」 青年:「じゃぁ、言うぞ」しかし、青年は言いかけて、激しく咳き込み、血痰を吐いた、私は、背中をさすりながら...。
私は泣いた、それほどまでに、こいつは『お父っつぁん』と言いたいのか...。
私 :「なぁ、今日は止めとけ、体に悪よ」 青年: 苦しい息のとぎれとぎれに、とうとう言った。「お父っつぁん!」 私 :「おう、ここにいるぞ」青年の閉じた瞳から涙がこぼれた、どれだけこの言葉が言いたかったことか...。
青年は大声を上げて泣いた。18年間、この言葉を言いたかったのだ...。
この本の100分の1でも、感動が伝われば、幸いです。
前に、京王線の準急に乗っていた時でした。すると何か聞こえます。
二才ぐらいの小さな女の子が、一人でぺちゃくちゃなにか言っているのです。
車内なので、うるさい子だなと内心思いながらいると……。
『生まれてきて良かった』『生まれてきて良かった』と連呼し始めたのです。
すると、今までうるさいなと思っていた感情が消え、その子がすごく愛しく思えてきたのです。
そして、なぜか、涙が込み上げてきて・・・
親にとって、子供から『生まれてきて良かった』と思われることは、最高の親孝行ではないでしょうか。
ごく日常の中、ふとした感動、ありがとう。
自分の赤ちゃんが重度のアトピーで、痒いので掻いて血だらけになっていたとしたら...。 そう自分ではなく、自分ではどうすることもできない、小さな赤ちゃんが...です。
つい先日、盲目のエッセイストのお話しを聞かせてもらいました。 このエッセイスト(麻由子)は、四歳のときに失明して、それ以後、母親と二人三脚で今日に至りました。 母親は、麻由子に生きがいを与えるべく、絵本を読んできかせたり、点字を先にマスターして教えてあげたりしました。
四歳の娘が失明してしまったことにたいする、どうすることもできない親の切ない思い...。 その切ない思いを力に変えて、麻由子は大学院まで入り、英語やフランス語まで点字をマスターしてしまったのです。麻由子にとって感謝しきれない、最高のお母さんでした。
そして、麻由子にとって、いま一番うれしいのは、本人の何倍も努力したであろう母が以下のようにいってくれたことでした。
「麻由子を育てることで、二度も三度も人生を楽しめた。
だからあなたに感謝しているのよ」
アトピーの赤ちゃんのお母さんにも同じような結果になることを願っております。
『苦は楽の種』といいます。もしかしたら、神さまから、苦を克服したその先に楽しみが待っているよ…というメッセージなのかもしれません...。
法華経の見宝塔品には、真理を実践するお釈迦様と真理の象徴である多宝如来が虚空で同座するシーン(二仏同座)があります。
現代でも、それを彷彿するシーンがありました。1994年11月第六回WCRP(世界宗教者平和会議)がバチカンで行われた時でした。
ひな壇の一番高い座に席が二つ、一つは教皇ヨハネ・パウロ二世、もう一つは誰が座られるのだろと注目のところ、なんと立正佼成会開祖さまこと庭野日敬氏が導かれて座られたのです。
ここで話しは、29年前にさかのぼります。
1965年9月第二バチカン公会議開会式に出席された、開祖さまは、時の教皇パウロ六世から『キリスト教が分派を生んだのは歴代の教皇の罪です。いまや宗教が分裂しているときではありません。お互いに手を携えてひとつの平和に向かって進むときです』と身近で聞いて、大きな衝撃を受け、宗教協力は可能だと、このお言葉がWCRP活動へと繋がっていきました。
そして、開祖さまは感激のあまり教皇さまへ、カトリックへ改宗してもよいと、おしゃったとか・・・。オイ!
それを聞いた当時佼成新聞記者の「とある人」さんは、開祖さまに、仏教徒であるのになぜそのようことをおしゃったのですかと問い詰めると・・・。すると開祖さまは一言。
相手を信じきれなくて、どうして自分を信じてもらえるでしょうか・・・。
このように、開祖さまは、教皇パウロ六世と強い信頼関係を築き、教皇パウロ六世は、1978年8月にご逝去されました。
そして、開祖さまは、1994年11月第六回WCRPでバチカンにつくなり、教皇パウロ六世の地下墓所へ一番先に訪れになりましたが、しかし、そこに行く通路がたまたま工事中で、仕方無く、地下墓所の真上辺りの広場で、地面に額をつけて、教皇パウロ六世を参拝されたそうです。それは、霊界にいる教皇パウロ六世と開祖さまがあたかも何かを語り合っているように感じられたとのことでした。
以上、『開祖さま生誕会』で、元佼成新聞記者の元某教会長の「とある人」から聞いた開祖さまのエピソードでした。
RKK教団では、よく信者さんの説法イベントがあります。今回は、とある支部婦人部長さんの説法をご紹介いたします。
その支部婦人部長さんは、一緒に関わっていた、とある部員さんの友人が、病気を悲観して自殺をしてしまって、そのことを通して、自分は人との関わりがうわべだけで、実は上手く行っていなかったのではないのか・・・と悩んでいたのです。
そんな時期に、自分が多摩教区婦人部青梅練成へ参加することになり、行く当日に、急にお腹が痛くなって、4才の娘が『お母さん、お腹大丈夫』と、お腹をさすりながら、行くのを心配してくれたのです。
そして、その青梅練成から帰ってきた時に、自分はすっかりそのことを忘れていたのに、真っ先に娘から『お母さん、お腹大丈夫』と言われ・・・。
この練成中も、ずーっと心配をしてくれていた我が子のやさしさに触れた時に、自分には、このやさしさが足りなかったんだ、と気付く・・・。
やさしい子供のいる人には、わかっていただけると思いますが、久々の感動の説法でした・・・涙涙涙。
一年後に、なぜ「布薩の日」と云うか、わかりました。RKK某教会では、月の1日と15日のことを「布薩の日」と言います。
私は、1年ぐらい前に法座(法華経実践の報告会)で質問をしました。『布薩の日ってなんですか? なんで月2回あるのですか?』
その時は、『昔からそうなんです』的な答えで、はぐらかされてしまいました。そして、一年後、ママの付き合いで久々に某教会の法座に座らせていただきました。
法座が終わったあと、隣に座った、とあるおばぁちゃんと久しくお話をする機会があり、そこで一年前に質問した答えのメモを頂きました。
そのおばぁちゃんは、一年前の質問を、その時にわからなかったので、ご自分で調べていたのでした。
私自身は、そのことをすっかり忘れていたのですが、そのメモを渡されて鮮明に思い出しました。
こんな些細な質問を丁寧に調べてくれて、しかも一年後の突然の回答、感動いたしました。ありがとうございます!
比丘たちが半月ごとに行われる布薩という集会。
仏陀または長老比丘に対して懺悔を行った。
係の比丘が戒律を一つ一つ読み上げていくうちに、
もしその箇条にふれる罪を犯したという自覚を気づいたら、
即座に自らを申し出て内心のひそかなる罪をすべてさらけだし、
指導者のさばきを待つのでした。
つまり、半月毎なので1日と15日に行い、そして、懺悔を行う日なのですね。また、これは某教会の行事でなく、仏教の行事だったのですね。
みなさんは、決して開けてはならない「悪魔の部屋」をご存知でしょうか?
某小誌にヘルパー養成講師でエッセイストの、認知症介護についてのエッセイの中に載っていた「悪魔の部屋」です。
ある日、認知症の母親を介護している知人から、このエッセイストに「母親を殺してしまいそう!」と電話が掛かってきました。
そのとき、エッセイストは、すかさず、「わかった、今、ロープをもって手伝いに行く」と言ったら、 受話器の向こうから大きなため息と「ありがとう、気持ちが少し落ち着いた」という言葉が返ってきたという。
普通の人なら、励ましの定番「頑張って」と言ってしまうかもしれません。しかし、介護を究極に頑張っている人には、 無意味というより、逆に本当に殺しかねません。
介護は本当に大変です。これは、経験してみないと分からない大変さなのです。このエッセイストは、「心の中に悪魔の部屋を持っていい」と言っています。
悪魔の部屋に「ぽっくり、逝ってくれないか」「どこかに行ってしまえばいいのに」を閉じ込めるのです。
自分がやさしい人だと思っている人ほど、介護される人を憎んだりすることを悪いことだと考えてしまい、ストレスになってしまうのです。
いいんです。悪いことを考えても、ただし、決して開けてはならない悪魔の部屋の中にだけに・・・。
介護と「悪魔の部屋」の葛藤の積み重ねが、死を大きく包み込み(私達、頑張ったわよね)と思える、 そして、それまでマイナスだと思っていた感情が、大きな愛に変わるのです。
今まさに、介護に疲れた人に、以下のお言葉を捧げます。
あなたが乗り越えられないような苦労を、神仏はけっして与えられません。 それは、あなたがそれに耐えて成長していける人だから与えられる試練です。 いつの日か「あのときの悲しみ、あのときの苦しみのお陰で、いまの私がある」 と思えるときが必ずくるものです。 By 庭野日敬
実は、私も父が亡くなりまでの半年間、父の介護で、妻、妹、叔母が次々にダウンして、最後は、私と長男で食事を作ったり、本当に大変な思いをしました。
私も「悪魔の部屋」に助けられたのです。また、本当にどうしようもないとき、神仏が助けてくれるを・・・実感しました。
どうか、「悪魔の部屋」で気持ちを切り替えて、辛い現実を乗り越えてください。