2025年2月19日水曜日

心田を耕す

 

まずはじめに、本コンテンツは、ご著書 『心田を耕す』の感想文ではなく、勉強会の『心田を耕す』です(^^;;

 

ちなみに、ご著書『心田を耕す』の著者は、佼成会の開祖さまではなく、現会長先生です。

 

先日の午前中、ママからのお届けものを、某教会へ持って行きました。

 

そこで、たまたま『心田を耕す』の最終章の勉強会があり、ついでに有難く参加させていただきました(^^;;

 

普通の田んぼに種を植えるには、その前に田んぼを耕します。


心の田んぼも信仰の種を植えるには、同じように、心の田んぼを耕さないとならないのです。


心の田んぼを耕すには、以下の3つが必要とのことでした。

  1. 朝夕にお経を読む
  2. 手取り・お導き・法座に参加する
  3. 法華経を勉強する

これ、某教会では、3つの基本信行と言うらしいです。

 

1のお経は、法華経の抜粋を読誦し、2の手取り・お導き・法座は、法華経を人に薦める行いで、3の法華経を勉強するは、まぁそのままです(^^;

 

しかし、この3つで耕したら、を植える必要がないのではとか…、そもそもこの場合の稲ってなんなんだろうか・・・とか。

 

まぁとにかく、基本は大事、これから心の田んぼを耕して参りましょう(^o^)

 

2025年2月18日火曜日

自分こそ悪者ではないか

 


とある小誌からの抜粋

『自分こそ悪者ではないか』

自分こそ正しいと主張しあうところに対立が起きるのであって、 自分が悪いとなれば、自他一体・一如となり、そこは無対立の世界となります。 それが宗教の智慧であり、平和を築く絶対の力であります。

 

なるほど、なるほど、なるほど・・・

私の場合は、自分こそアタマが悪者ではないか…なのかもしれない・・・スマン(^^;;

 

とにかく、目には目、歯には歯では、争いはなくならない、それでは、永遠に恨みは連鎖してしまいます・・・どこかで断ち切らないと!

 

それにしても、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は、争いの絶えないどうしようもない宗教ですね! 

 

世界中が仏教にならなければ、真の平和は訪れないのではないのか・・・と思います(^o^)


2025年2月17日月曜日

「下坐に生きる」の紹介文

旧燈明日記からの引用です。

下坐に生きる By 神渡良平の紹介文です。

 

隔離病棟のドアをあけると、そこには、痩せこけた一人の青年がいた。

その青年は、開放性の結核にかかっており、余命10日といわれていました。

青年の生い立ちは、それは、それは、悲しいものでした。

生まれる前に父は蒸発、母は青年を産み落として亡くなりました。

その後、親戚や学校から邪魔者扱いにされながら育ち、14歳で家を飛び出し、賽銭泥棒等で生活をしていましたが、警察に捕まり、少年院へ送られました。その後、結核になり、今ここに、人間不信のまま辛い辛い人生の幕を閉じようとしていたのです。

あまりに不憫な青年を、なんとか、救ってあげたいと院長から頼まれ、私はドアをあけました。

私 :「おい!どうでぇい。」
青年:「...」(無応答、しばらく間をおいて...)
私 :「折角、見舞い来たんじゃねぇか。なんとか言えよ!」
青年:「うるせえ!」
私 : 言葉は乱暴だけど、しかし、一瞬の青年の寂しい表情を見逃さなかった...。
私 :「おい、こっち向けよ、今日は一晩看病させてもらうからな」
青年:「チェッ、もの好きな奴やな」

生い立ち等の話しをしながら、青年は、次第に心を許しはじめた...。

私 :「折角来たんだ。足でもさすろうか」
私 : さすった足は、枯れ木のような細い足で、骨の形がみえるようだ...。
青年:「おっさんの手は、やわらかいなぁ」
私 :「何言っとるんじゃ。男の手が柔らかいはずがあるかい」
青年:「うんにゃ、柔らかいぞ...、おっさん、あのな!」
私 :「なんじゃ」
青年:「笑っちゃ、いかんぞ」
私 :「笑うもんか、早く言え、もったいぶるな」
青年:「あのなー、一度で言いから、『お父っつぁん』って...呼んでいいかい」
私 :「ああ、いいよ、わしでよかったら、返事するぞ」
青年:「じゃぁ、言うぞ」

しかし、青年は言いかけて、激しく咳き込み、血痰を吐いた、私は、背中をさすりながら...。

私は泣いた、それほどまでに、こいつは『お父っつぁん』と言いたいのか...。

私 :「なぁ、今日は止めとけ、体に悪よ」
青年: 苦しい息のとぎれとぎれに、とうとう言った。「お父っつぁん!」
私 :「おう、ここにいるぞ」

青年の閉じた瞳から涙がこぼれた、どれだけこの言葉が言いたかったことか...。

青年は大声を上げて泣いた。18年間、この言葉を言いたかったのだ...。

 

この本の100分の1でも、感動が伝われば、幸いです。


2025年2月16日日曜日

法華経の中の法華経の正体

 


法華経を読誦していると、その中に有り難いほど沢山の『法華経』が出てきます。

 

如来の滅後に四衆の為に是の法華経を説かんと...(法師品第十)

妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に信敬して...(提婆達多品第十二)

億憶万劫より。不可議に至って、時に及し、是の法華経を聞くこと得。(常不軽菩薩第二十)

四法を成就せば如来の滅後に置いて当に是の法華経を得べし。(普賢菩薩勧発品第二十八)

 

などなど...で、よく考えると法華経は仏滅後400~600年後に編集されたといわれています。


つまり、法華経に出てくる『法華経』は、論理的に法華経ではないということになります。


では、法華経に出てくる法華経でない『法華経』の正体とは、一体なんなのでしょうか...。


この答は、いろいろ考えたり、参考資料を見ましたが、今の私のレベルでは、【謎】です。


しかし、 佼成会の開祖さまが、真理そのものって言っていたような…(^^;;;


ただ、なんとなく思うのは、他の宗教(キリスト教など)や他の宗派(浄土宗など)の経典も実は、 『法華経』の正体と同じものから出ているんじゃないかと推測しています...。


まぁ、『法華経』の正体が分からんと(以下略)。分かったら更新 アップします(^-^;)

2025年2月15日土曜日

お釈迦さまがお亡くなりになった日


今日は2月15日、お釈迦さまが亡くなった涅槃会です。

 

釈尊は、29歳で出家され修行し、35歳でお悟りを開かれ(成道)、80歳で入滅する(亡くなる)までの45年間、仏法の布教伝道に邁進しました。
仏伝では、初転法輪前後と入滅直前あたりは、順を追って分かるのですが、それ以外の事柄は、2500年前のことなのでわかりません。


しかし、天台大師や後世の学者が、ほぼすべての経典を読破し、成道直後に華厳経、つぎに阿含経、方等経、般若経と説かれ、涅槃の8年前から法華経が説かれ、最後に、涅槃経を入滅直前の一日一夜の説法とのことと解明されました。


さて、入滅の涅槃ですが、直前に2つのエピソードがありました。


一つ目は、ほとんど絶望と思われていた釈尊が、幸い小康を得られた時に、熱心な信者のチュンダが、ご供養した食事の茸に中毒され、ご容体がにわかに悪化し、それを知ったチュンダは、物凄く後悔しました。
しかし、釈尊は『チュンダの供養した食事が、私の最期を早めたからといって、何も悔やむことはありません。
私が成道する前に、スジャータという娘が食事を供養してくれましたが、今入滅しようという際のこの食事も、それと同じように大きな功徳があるのです。』とおおせられ、チュンダの心を救ったとのことです。


2つ目は、いよいよ寿命が尽きることをお悟りになった釈尊のもとへ、スッパダという異教の行者が『真の悟りに至る道』の教えを請いに来ました。
釈尊の弟子達は、ご臨終に近い釈尊をわずらわしてはならぬと思い、断ると、その押し問答を聞かれた釈尊は、『道を聞きに来た人を拒んではなりません。』と八正道をお説きになったそうです。
そして、スッパダは、そのお言葉に目がさめたようになり、釈尊の最後の弟子になりました。


そして、クシナガラという町の沙羅の木の間に床を用意され、頭を北にし、
右脇を下にした形で、お亡くなりになりました(享年80才)。最後のお言葉は、


すべての現象は、移り行くものです。怠らず努力することですよ!

 

とのことでした。


ここに人類始まって以来の最高の聖者は、まことに大いなる死を迎えたのでありました。
それは、日本暦に直して2月15日の夜半とのことでした。
ちなみに、仏教界ではこの日に涅槃会を毎年とり行っています。


ちなにみ、なぜ北枕にしたのかというと、一説では、足を自分の生まれた国の方向へ向けないためとのことです。
これは、大いなる放棄より、父母に対しての親不孝を、釈尊はいつも気にしていたとのことです。


2025年2月14日金曜日

生まれてきて良かった

 

前に、京王線の準急に乗っていた時でした。すると何か聞こえます。


二才ぐらいの小さな女の子が、一人でぺちゃくちゃなにか言っているのです。


車内なので、うるさい子だなと内心思いながらいると……。

 

『生まれてきて良かった』『生まれてきて良かった』と連呼し始めたのです。

 

すると、今までうるさいなと思っていた感情が消え、その子がすごく愛しく思えてきたのです。

 

そして、なぜか、涙が込み上げてきて・・・

 

親にとって、子供から『生まれてきて良かった』と思われることは、最高の親孝行ではないでしょうか。

 

ごく日常の中、ふとした感動、ありがとう。

2025年2月13日木曜日

苦労は幸せのもと

よく、「苦は楽の種」といいます。
これ、人間だけでなく、魚や樹木にも言えるみたいですね。

 

先日、おもしろい話を聞きました。
アユを関西から東京にもっていこうといろいろな方法をこころみましたが、どうしてもうまくいきません。
ところが、あるとき水槽の中に棒を入れて、ときどきかき回しながら運んだら、アユはすこぶる元気だったとのことです。


また、そういえば、前にも、おもしろい話を聞きました。
植樹で最良の条件でなくて、主役の苗木と脇役の苗木「まぜるまぜるまぜる」で植えると、相互に協力したり、我慢し合いながら育っていくとのことでした。
つまり、最良の条件を用意してやると逆に苗木が育たないとのことでした。


人は、家庭でも仕事でも学校でも、いろいろな苦労があるからこそ、頑張れるし、成長ができるし、結果的に幸せになれる・・・


そう、まさに「苦は楽の種」で『苦労は幸せのもと』だったんですね!