2025年5月12日月曜日

仏の三十二相

 

以下は、いわゆる、仏の三十二相です。
無量義経の徳行品に出てきます。

釈尊の完全な人格への賛嘆を示しているとされています。
仏像は、まさにそのような形になっていますね。
 
  1. 額にある月のような渦毛
  2. 項(うなじ)に日の光あり
  3. 渦巻く頭髪は紺青色
  4. 頭上は高く盛り上がっている
  5. 澄み切った鏡のような清らかな眼
  6. その眼は上下にまじろぎ
  7. 紺色の眉はのびのびとし
  8. 口や頬は正しく整い
  9. 唇は赤い花のよう
  10. 舌もおなじく
  11. 歯は、雪のように白く
  12. 40本きちんとそろって
  13. 額は広く
  14. 鼻長く
  15. 顔全体がひろびろとして晴れやかで
  16. 胸には卍が表れ
  17. 上部は獅子の胸のように張って
  18. 手も足も柔らかで
  19. そして車の輪ような紋ある
  20. 脇の下と掌に細い線が揃っていて
  21. それが内外ともにまとまっている
  22. 上腕はながく
  23. 下腕もながく
  24. 指はまっすぐで細く
  25. 皮膚はキメ細やかで柔らかく
  26. 毛はすべて右のほうに渦巻いている
  27. 踝はよく現れて形がいい
  28. 膝も同様
  29. 陰部は隠れていて見えず
  30. 筋は細く
  31. 骨はがっしりしていて
  32. 脚は鹿のようにすらりとしている

補足:

額にある月のような渦毛のことを白毫相(びゃくごうそう)といい、非常に徳の優れたしるし。

項(うなじ)に日の光ありは、後光ともいい、非常に徳の優れたしるし(もしかしてオーラ?)。

卍(万字)は、仏教のしるし。四方が円満に揃っている意味。

2025年5月11日日曜日

サッダルマ・プンダリーカ・スートラ

 


法華経こと『妙法蓮華経』は、サンスクリット(梵語)でサッダルマ・プンダリーカ・スートラといいます。 

  • サッダルマとは、サット(正しい)とダルマ(法)が合わさったもので、そのまま正法を訳した人ともいますが、鳩摩羅什は『妙法』と訳しました。
  • プンダリーカとは、白い蓮の華で、そのまま『蓮華』と訳されました。
  • スートラとは、通し糸で、漢字での縦糸を表す『経』と訳されました。
 
妙法蓮華経の『従地涌出品 第十五』に以下の偈があります。

『善く菩薩の道を学して、世間の法に染まざること蓮華の水の在るが如し』

つまり、法華経は、正しい法を学して、それに沿っていれば、泥水にも染まらず、いつも清らかな白い蓮華のようにいられる…という意味になると思います。

2025年5月10日土曜日

阿鼻地獄(あびじごく)と阿迦尼タ天(あかにたてん)


法華経の序品に、無量義を説いた後、三昧に入っていたお釈迦さまが、『眉間の白毫相(びゃくごうそう)より光を放ち、その光が、下は阿鼻地獄(あびじごく)、上は阿迦尼タ天(あかにたてん)に至る』というクダリがあります。
 
阿鼻地獄は無間地獄ともいい、人間のあり方における最低の状態(地獄界)です。
阿迦尼タ天は有頂天ともいい、人間のあり方における最高の状態(天上界)です。

つまり、光は『仏の智慧』の象徴で、それが、どのような状態の人間にでも行き届きました。


そして、このことがどいうことか、疑問に思った弥勒菩薩が文殊菩薩に教えを請いました。
そう、法華経のはじまりです。

2025年5月9日金曜日

慈悲と智慧

 


まずは、おさらいです。 
  • 慈悲の慈とは、慈しみ与え幸福にしてあげること。
  • 慈悲の悲とは、悲しみを取り除いてあげること。
  • 智慧の智とは、すべての物事の違いを見分ける力。
  • 智慧の慧とは、すべての物事の共通を見いだす力。
 
そして、弥勒菩薩は慈悲の象徴の菩薩で、文殊菩薩は智慧の象徴の菩薩です。
で前回のつづきです

『疑問に思った弥勒菩薩が文殊菩薩に教え請いました。』
 
ということは、『慈悲』が『智慧』に呼びかけたということになります。
『慈悲』の呼びかけに応じて『智慧』が発動するのです。

菩薩行とは、相手を救ってあげたいという、やむにやまれぬ慈悲の心です。
ところが、慈悲だけではダメで、そこには智慧がともなわないといけません。
慈悲と智慧がそろってはじめて、正しい導きができるのです。

2025年5月8日木曜日

三昧とは


普通、三昧とは、遊び三昧とか温泉三昧とかで、楽しいことをずーっとやっている意味で使われます。
また、無念無想になる行のように思う人もいるかも知れません。

しかし、仏教でいう三昧とは、そのようなものではなく、一切の雑念を断ち切り、<善き思い>と<正しい教え>に<全精神を集中>し、その一念が長い間切れ目なくつづいている状態を言うのです。
 
瞑想とか思索と違うところは、『<善き思い>と<正しい教え>に<全精神を集中>』というところです。

善き思い>とは、徳のことです。
正しい教え>とは、法のことです。

そして、<全精神を集中>とは、表面の心だけでなく、潜在意識までも、徳と法をしみこませることなです。
徳と法が沢山しみ込んだ人格こそ、仏教徒の目指すところなのです。

とにかく、三昧とは、一切の雑念を断ち切り『<善き思い>と<正しい教え>に<全精神を集中>』することなのです!

2025年5月7日水曜日

法華経の教えとは



法華経の教えとは

悟ればこの身がすなわち仏であり、みんなが悟ればすなわちこの世が寂光土であるという教えです。
仏はわれわれの心のなかにある、極楽はわれわれの日常生活のなかにあるという教えなのです。
 

『新釈 法華三部経十巻』(著:庭野日敬) より


悟れば、ごく身近な心の中と、日常生活の中にあるとは、まさにその通りだと思います。素晴らしい気づきですね!

2025年5月6日火曜日

仏の十号



法華経には、釈尊を始めとして沢山の仏さまが登場します。
過去の日月燈明仏等や弟子達の未来仏、そして他の惑星の仏さま達……。

登場するたびに、仏の十号という尊称で紹介されます。
 
  1. 如来(にょらい)- 真如(ほぼ真理と同じ)から来た人
  2. 応供(おうぐ)- 供養を受けるに相応しい人
  3. 正偏知(しょうへんち)- 正しい智慧を具えた人
  4. 明行足(みょうぎょうそく)- 智慧(明)と実践(行)が満ち足りている人
  5. 善逝(ぜんぜい)- 迷いを完全にのぞきさってしまった人
  6. 世間解(せけんげ)- 世間をはっきり見分けることができる人
  7. 無上士(むじょうじ)- この上もないりっぱな人
  8. 調御丈夫(じょうごじょうぶ)- どんな人でも教えに導くことが出来る人
  9. 天人師(てんにんし)- 天上界と人間界の大導師の人
  10. 仏世尊(ぶつせそん)- 悟ったことにより世の中で尊重される人
 
ということで、仏の十号でした。

2025年5月5日月曜日

四顛倒(してんどう)


顛倒とは、物事を逆さまに見ること、すなわち真相を見誤ることです。
普通の人(凡夫)には4つの顛倒があると、仏教では云われています。

 

  • 常顛倒 - 本来は無常(変化)であるのに、常(変化しない)と考える。
  • 楽顛倒 - もともとは苦であるものを、一時的な現象だけで楽と考える。
  • 淨顛倒 - 不浄なるものを、表面だけを見て淨と考える。
  • 我顛倒 - 世の中は助け合って成り立っているものを、自分の力だけだと考える。

 

人は追い込まれると、まさに四顛倒になりますね。
余裕をもって四顛倒にならないようにいきましょう。

2025年5月4日日曜日

『劫』という時間の長さ

 


お経には、『劫(こう)』という時間の単位がよく登場します。
では、『劫』という時間の長さはどれぐらいでしょうか?

お釈迦さまは、以下の様な旨を、おっしゃたそうです。

 

『たとえば、一辺が40里の大きさの超巨大な石の山があって、その頂きを100年に一度ずつ柔らかい衣の袖で撫でることによって、 石の山がすこしずつ磨れてゆき、すっかり磨れてしまうまでの年数よりも、劫というのはもっと長い時間である』
 

いや~どんだけ、長いんや~。
ちなみに、1里は約3.9キロメートルです。

2025年5月3日土曜日

中道とは?

 


普通、中道とは、物事の中程の道と思われています。
しかし、釈尊は、最初に説法された初転法輪で以下のように仰いました。 


『比丘たちよ。この世には近づいてはならぬ2つの極端がある。如来は、この2つの極端を捨て、中道を悟ったのである。』

 

この『中道』とは、『極端を離れたほどよい道』というあいまいなものではなく、ただ一つしかない真理に合った道を云うのです。


仏道修行によって『我執』を捨て、八つの正しい道(八正道)を歩むことを心がけていますと、 しだいしだいに、考え方や行いが真理に合うようになってくるのです。


では、真理に合うとは、『仏教で云う『真理』とは?』を参照願います。

2025年5月2日金曜日

法華経的人生の目的


あなたの人生の目的はなんですか?
 
なんて、突然言われてもこまっちゃう・・・。とか、そんなこと考えたこともない・・・、と思った人がほとんどだと思います。
そこで、そんな人のために、法華経の講習会で教わった、法華経的人生の目的をご紹介致します。
 

法華経的人生の目的

人間の本質は、仏性であることを自覚し、自分と他人を分けて自己中心に考える「我」の心を取り除きながら、いのちの大本である「一つの大きな輝くいのち」と常に一体感を味わえる境地(成仏)にまで、絶えず向上の道を歩むこと。

 

まぁ、こんな感じです。『いのちの大本である「一つの大きな輝くいのち」』がつっこみどころかもしれませんが、とにかく、法華経的には、すべての人は「一つの大きな輝くいのち」に生かされていると説かれています。 


わかりやすく言うと、魂的には、実は全人類皆兄弟姉妹で、だからこそ、仲良く助け合って生きて、皆さん全員幸せになりましょう ってことらしい。
 
で、まとめですが、ちょっとテーマが大きすぎて、まとまりませんが、次回の機会にと・・・ということで、よろしくお願い致します。

2025年5月1日木曜日

我執とは?

 

 

普通、『我執』とは、我に執着することで、すべて自己中心に考え「自分のために・・・」と考える気持ちです。
 

釈尊は、お悟りを開かれた時につぎのように仰いました。 

『奇なるかな。奇なるかな。一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す。ただ妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず。』

つまり、我々の心に、この我執が充満しているかぎり、すべてのものを生かす真理が入り込む余地がないのです(証得せず)。 

逆に、『我執』を捨てた『無我』の境地になると、真理の光が何の障害もなく心の底に差込み、染み込んでくるのです。

したがって、いくら仏教を学んでも行じても、『我執』を捨てなければ、救いも幸せも生ずるはずがないのです。 

では、どうしたら『我執』を捨てることができるかというと、仏教徒の人は、朝夕の読経供養がいいらしいです。 では、一般の人は、どうするの・・・仏教徒になるしか・・・。

2025年4月30日水曜日

空(クウ)とは?


 

色即是空とか空即是色といった言葉をよく目にします。 この空(クウ)は、一般的な意味は空『カラッポ』という意味です。
 
しかし、仏教で云う空とは、全く反対の『実体』と云うことなのです。
 
空の原語である梵語のシャーニャは、『脹らむもの』と云う意味だそうです。
 
『脹らむもの』とは、エネルギーの象徴です。
 
生きて、動いて、働いて、ものごとを作り出すエネルギー、それが空の真の意味なのです。
 
『実体』と『エネルギー』は一見矛盾すると思いますが、現代物理学では、究極の物質(実体)はエネルギーだそうです。 だから、矛盾していないのです。
 
究極の物質が『空』であると云う事は、容易にこの宇宙の実体が『空』であるということにたどり着きます。 
 
また、人間も宇宙の生成物の一つである以上、『空』なのです。
 
したがって、人間の本質は、生きて、動いて、働いて、ものごとを作り出すエネルギーで、すべての人間は、同じ『空』なのです。 

つまり、人間は、何かを創造することが本質で、すべての人間は、平等に空に生かされている兄弟姉妹なのです。 
 
だからこそ、大調和のある世界を兄弟姉妹で創造することが、『空』の最終形態なのかなと思う次第です。
 
と、私の今のレベルでの空の理解でした。"違うぞ!"、という方、ご指導よろしくお願いいたします。

2025年4月29日火曜日

燈明日記ブログ: 脳と指がバグる〜

燈明日記ブログ: 脳と指がバグる〜:   毎日毎日、タイピングランドとmikanテストをやっていますが・・・ この2つ、正しさとスピードを要求します。 毎日やっているので、常に前進(ラップタイムアップ)すると思いますが、結構、後退して気がめげる日々が多いです。 とにかく、タイピングランドとmikanテストは、瞬時に行...

初転法輪

 


初転法輪とは、今から約2500年前、釈尊がお悟りを開いた後に、以下の5人へ、鹿野苑(インドのベナレス)で、初めて説法をされたこと云います。 
 
  • 嬌陳如(きょうじんにょ)
  • 跋提(ばつだい)
  • 婆沙波(ばしゃば)
  • 摩訶那摩(まかなま)
  • 阿説示(あせつじ)
 

ちなにみ、初転とは、はじめて転がすことで、法輪とは、法の車輪を転がすことです。(古代インドでは、りっぱな王には、巨大な車輪が授けられた)
 
 
第一声は以下でした。
『比丘たちよ。この世には近づいてはならぬ2つの極端がある。
如来は、この2つの極端を捨て、中道を悟ったのである』

 

そのあと、四諦八正道の教えが説かれたとのことです。

また、仏、法、僧がはじめてそろった、つまり、仏教が誕生した記念すべきイベントが初転法輪なのです。

2025年4月28日月曜日

三帰依文


三帰依文とは、仏教徒なら毎日お経を上げる前に必ず唱える例の決まり文句です。


  • 自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。
  • 自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入って、智慧海のごとくならん。 
  • 自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無げならん。


意味は、「仏(仏さま)・法(真理)・僧(仏の仲間)を全身全霊で信じきり、拝みきって、心のよいどころに致します。」ということらしい。

 

では、なぜいきなり、三帰依文かというと・・・。


それは、先日、三身一体でお話した「応身・法身・報身」が、もしかしたら、「仏・法・僧」のことではないか・・・と、ふと思ったのです。っていうか、報身がイマイチ理解できなくて、そこに「仏・法・僧」の「僧」が、飛び込んできたのです。つまり・・・

        応身 = 仏
        法身 = 法
        報身 = 僧

 

ということで、報身とは、法華経を行ずる我々自身だということに気づかせて頂きました。


そして、他人からいわれるのでなく、自ら「仏・法・僧」を全身全霊で信じきり、拝みきる・・・。私は、いつになったら、その境地になれるのでしょうか・・・。

2025年4月27日日曜日

三身一体(法身・応身・報身)

 



三位一体では、ありません、こちらは、キリスト教でのお祈りの言葉で「父と子と聖霊の名のもとに・・・」であり、父とは神であり、子とはイエスのことであり、聖霊とは信仰の証のことです。
 

さて、三身一体とは、以下のように仏教での三身の仏のことをいい、そして、三身だけど実は一体なのだという教えです。

  • 法身 - 法華経では、多宝如来として表されている究極的な真理(仏さまの本体)をいいます。
  • 応身 - 究極的な真理を衆生にお示しになるために、人としてこの世に生まれた釈迦如来をいいます。
  • 報身 - 浄土宗でいう阿弥陀如来などのことで、修行の報いによって仏になられた信仰の証をいいます。


そう、三位一体とほぼ一緒と言おうか、これは、もう同じでしょう・・・。やはり、仏教もキリスト教も根本では、同じ説を信じます。

2025年4月26日土曜日

衣座室(えざしつ)の三軌

 


以前、法華経の勉強会に行って、法師品第十を主に勉強してきました。で、心に残った『衣座室(えざしつ)の三軌』をお分けいたします。
これは、法華経を説く時の三つの心構え(ルール)です。

 

まずは、法師品第十からの引用です。

如来の室に入り如来の衣を著如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし。
如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是れなり。
如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり。
如来の座とは一切法空是れなり。
是の中に安住して、然して後に不懈怠の心を以て、諸の菩薩及び四衆の為に、広く是の法華経を説くべし。

 ちなみに、「四衆」とは僧、尼、信男、信女の仏教信者をいいます。 


以下は、『衣座室(えざしつ)の三軌』と言います。

  • 如来の室(大慈悲心是れなり)ー 大きな喜びをあたえ、大きな苦しみをも取り除いてあげようとする心。
  • 如来の衣(柔和忍辱の心是れなり)ー やさしくおだやかで、種々の侮辱や苦しみを耐え忍び、心を動かさないこと。
  • 如来の座(一切法空是れなり)ー すべての人は、仏の子(同根同胞)であり、すべての教えは、平等に受け止められ、生きるエネルギーになる。



とある教団で、とある開祖さまが、ナンバー2の人を担いだグループから邪険にされた時代がありました。
しかし、とある開祖さまは、そのグループをまったく咎めなかったのです。
のちに、とある開祖さまが、この時の心境をインタビューされたとき、以下のようにおっしゃいました。

 

そのグループの人達は、私の可愛い子供達(仏の子)ですからね。出来の悪い子供ほど可愛いものです。 

 

開祖さまは、まさに、『衣座室の三軌』を実践したといえるでしょう・・・。すごい。

2025年4月25日金曜日

四弘誓願(しぐせいがん)

 


先の「法華経 従地涌出品 第十五」で、他の世界からやって来た菩薩達が、仏の滅後に娑婆世界にとどまってこの法華経を広めたいと申し出たのを、きっぱりとお釈迦さまは、お断りになったとたん、突然地面の中から涌き出した四大菩薩(上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩)等は、どのような意味があるのでしょうか。


実は、この四大菩薩は、菩薩としての四つの大誓願を代表しておられるのです。これを四弘誓願といいます。

  • 安立行(衆生無辺誓願度)- 衆生の数は無辺であろうとも、すべてもれなくお救いしようという誓願。
  • 浄行(煩悩無数誓願断)- 煩悩の数は無数であろうとも、かならずすべてを断ち切ろうという誓願。
  • 無辺行(法門無尽誓願学)- 仏の教えは無尽であろうとも、かならず学びつくそうという誓願。
  • 上行(仏道無上誓願成) - 仏の道は無上であろうとも、かならず成就しようという誓願。
 
まず、娑婆世界の地から涌き出したということは、娑婆世界の住民であるわれわれが、自らこの世界を法華経(正しい教え)によって、平和をつくりださねばならない、という力強い意味があります。

また、菩薩の名前に「行」が付いているのは、まさに「この世界を法華経(正しい教え)によって平和を作りださねばならない」という「行」そのものなのです。そして、その「行」は、四弘誓願の実践とイコールらしい。

2025年4月24日木曜日

燈明日記ブログ: 正確さと速さ

燈明日記ブログ: 正確さと速さ:   毎日毎日、TypingLandとmikanをやっていますが、いくらやっても、上位に入れません。 タイピングも英単語早押し解答も、正確さはもちろん、尋常ではないスピードで行わないとなりません。 なので、上位の人は、とにかく凄い人達なのです。   タイピングスピード は、私の場合...