もっと、いい生活を送りたいとか、いいパソコンが欲しいとか、次男に来年大学に受かってほしいとか、三男が大学に受かるまで(後4年)はリストラされないとか、つい苦しくて神仏に手を合わせて祈ってしまいます。
しかし、釈尊の教えは『一切皆苦』と説かれているのです。すべては苦しみなのだと・・・。
なので、神仏にいくら手を合わせても、実は『一切皆苦』は、変わらないのです。
では、なぜ昔から神仏に手を合わせるのかというと・・・。
それは、今ここに、神仏によって生かされていることへの感謝の気持ちを表す行為なのです。
たとえば・・・
- 毎朝、目が覚めて、息をしていた。あぁ有り難い。
- 病気もせず、リストラもされず、今日も会社に行ける。あぁ有り難い。
- ぼろノートパソコンだけど、こうやってブログを更新できる。あぁ有り難い。
- ランキングで一時3位まで行ったけど、20位以下になってしまった。でもランキングに参加できるだけで有り難い。
- 長男はいつ寝ているのかわからないけど、とりあえず生きている。あぁ有り難い。
- 次男は受験勉強を全然していないけど、明るさだけは失っていない。あぁ有り難い。
- 三男は三鷹大会を制してから毎日バスケットの練習に夢中で、本当は体にちょっと心配があるのだけれど、今のところ大丈夫そう。あぁ有り難い。
というように、祈りは、神仏にお願いをするのではなく、今あることへの感謝の気持ちを表す行為なのです。
で、本ブログでなにが言いたかったかというと・・・。
神仏にいくらお願いをしても『一切皆苦』はなくならず、今ここに生かされてるという奇跡に気づくと、なぜか苦しみがなくなったような気がして、頑張れる気がしてくるのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿