お経には、『劫(こう)』という時間の単位がよく登場します。
では、『劫』という時間の長さはどれぐらいでしょうか?
お釈迦さまは、以下の様な旨を、おっしゃたそうです。
『たとえば、一辺が40里の大きさの超巨大な石の山があって、その頂きを100年に一度ずつ柔らかい衣の袖で撫でることによって、 石の山がすこしずつ磨れてゆき、すっかり磨れてしまうまでの年数よりも、劫というのはもっと長い時間である』
いや~どんだけ、長いんや~。
ちなみに、1里は約3.9キロメートルです。
お経には、『劫(こう)』という時間の単位がよく登場します。
では、『劫』という時間の長さはどれぐらいでしょうか?
お釈迦さまは、以下の様な旨を、おっしゃたそうです。
『たとえば、一辺が40里の大きさの超巨大な石の山があって、その頂きを100年に一度ずつ柔らかい衣の袖で撫でることによって、 石の山がすこしずつ磨れてゆき、すっかり磨れてしまうまでの年数よりも、劫というのはもっと長い時間である』
いや~どんだけ、長いんや~。
ちなみに、1里は約3.9キロメートルです。
普通、中道とは、物事の中程の道と思われています。
しかし、釈尊は、最初に説法された初転法輪で以下のように仰いました。
『比丘たちよ。この世には近づいてはならぬ2つの極端がある。如来は、この2つの極端を捨て、中道を悟ったのである。』
この『中道』とは、『極端を離れたほどよい道』というあいまいなものではなく、ただ一つしかない真理に合った道を云うのです。
では、真理に合うとは、『仏教で云う『真理』とは?』を参照願います。
人間の本質は、仏性であることを自覚し、自分と他人を分けて自己中心に考える「我」の心を取り除きながら、いのちの大本である「一つの大きな輝くいのち」と常に一体感を味わえる境地(成仏)にまで、絶えず向上の道を歩むこと。
まぁ、こんな感じです。『いのちの大本である「一つの大きな輝くいのち」』がつっこみどころかもしれませんが、とにかく、法華経的には、すべての人は「一つの大きな輝くいのち」に生かされていると説かれています。
普通、『我執』とは、我に執着することで、すべて自己中心に考え「自分のために・・・」と考える気持ちです。
釈尊は、お悟りを開かれた時につぎのように仰いました。
『奇なるかな。奇なるかな。一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す。ただ妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず。』
つまり、我々の心に、この我執が充満しているかぎり、すべてのものを生かす真理が入り込む余地がないのです(証得せず)。
逆に、『我執』を捨てた『無我』の境地になると、真理の光が何の障害もなく心の底に差込み、染み込んでくるのです。
したがって、いくら仏教を学んでも行じても、『我執』を捨てなければ、救いも幸せも生ずるはずがないのです。
三帰依文とは、仏教徒なら毎日お経を上げる前に必ず唱える例の決まり文句です。
意味は、「仏(仏さま)・法(真理)・僧(仏の仲間)を全身全霊で信じきり、拝みきって、心のよいどころに致します。」ということらしい。
では、なぜいきなり、三帰依文かというと・・・。
それは、先日、三身一体でお話した「応身・法身・報身」が、もしかしたら、「仏・法・僧」のことではないか・・・と、ふと思ったのです。っていうか、報身がイマイチ理解できなくて、そこに「仏・法・僧」の「僧」が、飛び込んできたのです。つまり・・・
応身 = 仏
法身 = 法
報身 = 僧
ということで、報身とは、法華経を行ずる我々自身だということに気づかせて頂きました。
そして、他人からいわれるのでなく、自ら「仏・法・僧」を全身全霊で信じきり、拝みきる・・・。私は、いつになったら、その境地になれるのでしょうか・・・。
さて、三身一体とは、以下のように仏教での三身の仏のことをいい、そして、三身だけど実は一体なのだという教えです。
そう、三位一体とほぼ一緒と言おうか、これは、もう同じでしょう・・・。やはり、仏教もキリスト教も根本では、同じ説を信じます。
以前、法華経の勉強会に行って、法師品第十を主に勉強してきました。で、心に残った『衣座室(えざしつ)の三軌』をお分けいたします。
これは、法華経を説く時の三つの心構え(ルール)です。
まずは、法師品第十からの引用です。
如来の室に入り如来の衣を著如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし。如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是れなり。如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは一切法空是れなり。是の中に安住して、然して後に不懈怠の心を以て、諸の菩薩及び四衆の為に、広く是の法華経を説くべし。
ちなみに、「四衆」とは僧、尼、信男、信女の仏教信者をいいます。
以下は、『衣座室(えざしつ)の三軌』と言います。
とある教団で、とある開祖さまが、ナンバー2の人を担いだグループから邪険にされた時代がありました。
しかし、とある開祖さまは、そのグループをまったく咎めなかったのです。
のちに、とある開祖さまが、この時の心境をインタビューされたとき、以下のようにおっしゃいました。
そのグループの人達は、私の可愛い子供達(仏の子)ですからね。出来の悪い子供ほど可愛いものです。
開祖さまは、まさに、『衣座室の三軌』を実践したといえるでしょう・・・。すごい。
です。
例えば、AとBがあって、AとBを知って、それを教え恵むことが知恵で、AとBとの違いや共通点を見い出すことが智慧なのかな・・・
一般的には「知恵」を使いますが、宗教的には「智慧」を使う場合が多いですね。
十如是の如是は、「このように」とか「あるがままのすがた」という意味です。では、各々説明いたしましょう。
と、いう教えです。つまり、『因縁果報』そのもので、諸法実相とも云い、そして、『法華経の神髄』で述べた半分の部分です。
六波羅蜜の波羅蜜は、梵語でパーラミータのことで、到彼岸ことです。また、彼岸とは、ずばり真理を悟った境地のことです。
つまり、六波羅蜜とは、悟りに到るための六通りの修行のことです。
お布施とは、悪徳宗教の資金源のことではありません。また、お金でなくても、人に尽くことは沢山ありますよね!