2016年4月5日火曜日

四顛倒(してんどう)

顛倒とは、物事を逆さまに見ること、すなわち真相を見誤ることです。
普通の人(凡夫)には4つの顛倒があると、仏教では云われています。
  • 常顛倒 - 本来は無常(変化)であるのに、常(変化しない)と考える。
  • 楽顛倒 - もともとは苦であるものを、一時的な現象だけで楽と考える。
  • 淨顛倒 - 不浄なるものを、表面だけを見て淨と考える。
  • 我顛倒 - 世の中は助け合って成り立っているものを、自分の力だけだと考える。

人は追い込まれると、まさに四顛倒になりますね。
余裕をもって四顛倒にならないようにいきましょう。

2016年4月3日日曜日

『劫』という時間の長さ

お経には、『劫(こう)』という時間の単位がよく登場します。
では、『劫』という時間の長さはどれぐらいでしょうか?
お釈迦さまは以下の様に、おっしゃたそうです。

『たとえば、広さ40里もある石の山があって、その頂きを100年に一度ずつ柔らかい衣の袖で撫でることによって、
石の山がすこしずつ磨れてゆき、すっかり磨れてしまうまでの年数よりも、劫というのはもっと長い時間である』

いや~どんだけ、長いんや~。
ちなみに、1里は約3.9キロメートルです。

2016年4月1日金曜日

さとりの境地

さとりの境地をまとめてみました。
  1. 1.なん法 - 仏法にふれて暖かく傍にいたいと思う境地。
  2. 2.頂法 - 仏法の尊さはやや認識できたけど、あやふやな境地。
  3. 3.忍法 - 仏法の尊さがはっきり認識できた境地。
  4. 4.世第一法 - 仏法が世の教えの中で第一であると確固たる境地。
  5. 5.須陀おん果 - 仏道の流れに乗った信仰状態の境地。
  6. 6.斯陀ごん果 - まだ迷いのある凡夫へ戻る可能性のある信仰状態の境地。
  7. 7.阿那ごん果 - もう凡夫へ戻る可能性のない信仰状態の境地。
  8. 8.阿羅かん果 - まよいのない境地、声聞の最高の境地。
  9. 9.辟支仏 - 縁覚ともいい、生活体験によって仏の道を会得している状態の境地。
  10. 10.第一地:歓喜地 - 二空の理を会得して大歓喜している境地。
  11. 11.第二地:離垢地 - 煩悩(垢)からすっかり離れた境地。
  12. 12.第三地:発光地 - 人格から光を発する境地。
  13. 13.第四地:焔慧地 - 焔(ほのう)のような智慧をもった境地。
  14. 14.第五地:極難勝地 - 言う事、なす事がすべて仏道と一致してくる境地。
  15. 15.第六地:現前地 - すべての人が平等であると現実に目の前に見えてくる境地。
  16. 16.第七地:遠行地 - 声聞・縁覚のさとりから遠く離れて、仏に近くなった境地。
  17. 17.第八地:不動地 - 仏の境界に達する資格が不動になった境地。
  18. 18.第九地:善慧地 - どんな人でもかならず救えることが出来るようになった境地。
  19. 19.第十地:法雲地 - 大雲が空を覆うように仏法でありとあらゆる人を救う境地。
1から4は、仏教入門の人の境地
5から8は、いわゆる声聞といわれる人の境地
9は、いわゆる縁覚といわれる人の境地
10から19は菩薩といわれる人の境地
う~ん、私は、4~5の中間ぐらいかな、まだまだ、先は長い……。

2016年3月31日木曜日

仏教で云う『真理』とは?

普通、『真理』とは、いつでも、どこでも変わりのない法則が真理です。
仏教では、その真理を『』とも呼び。真理に合うとは、大調和のある世界を創造する一因をなすことが、 真理に合ったということなのです。たぶん。

2016年3月29日火曜日

仏教で云う『中道』とは?

普通、中道とは、物事の中程の道と思われています。
しかし、釈尊は、最初に説法された初転法輪で以下のように仰いました。
『比丘たちよ。この世には近づいてはならぬ2つの極端がある。
如来は、この2つの極端を捨て、中道を悟ったのである。』
この『中道』とは、『極端を離れたほどよい道』というあいまいなものではなく、ただ一つしかない真理に合った道を云うのです。
仏道修行によって『我執』を捨て、八つの正しい道(八正道)を歩むことを心がけていますと、 しだいしだいに、考え方や行いが真理に合うようになってくるのです。
では、真理に合うとは、『仏教で云う『真理』とは?を参照願います。

2016年3月27日日曜日

仏教で云う『我執』とは?

普通、『我執』とは、我に執着することで、すべて自己中心に考え「自分のために・・・」と考える気持ちです。
釈尊は、お悟りを開かれた時につぎのように仰いました。
『奇なるかな。奇なるかな。一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す。
ただ妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず。』
つまり、我々の心に、この我執が充満しているかぎり、すべてのものを生かす真理が入り込む余地がないのです(証得せず)。 逆に、『我執』を捨てた『無我』の境地になると、真理の光が何の障害もなく心の底に差込み、染み込んでくるのです。
したがって、いくら仏教を学んでも行じても、『我執』を捨てなければ、救いも幸せも生ずるはずがないのです。
では、どうしたら『我執』を捨てることができるかというと、仏教徒の人は、朝夕の読経供養がいいらしいです。 では、一般の人は、どうするの・・・仏教徒になるしか・・・。

2016年3月26日土曜日

仏教で云う『空(クウ)』とは?

色即是空とか空即是色といった言葉をよく目にします。 この空(クウ)は、一般的な意味は空『カラッポ』という意味です。 しかし、仏教で云う空とは、全く反対の『実体』と云うことなのです。
空の原語である梵語のシャーニャは、『脹らむもの』と云う意味だそうです。 『脹らむもの』とは、エネルギーの象徴です。 生きて、動いて、働いて、ものごとを作り出すエネルギー、それが空の真の意味なのです。
『実体』と『エネルギー』は一見矛盾すると思いますが、現代物理学では、究極の物質(実体)はエネルギーだそうです。 だから、矛盾していないのです。
究極の物質が『空』であると云う事は、容易にこの宇宙の実体が『空』であるということにたどり着きます。 また、人間も宇宙の生成物の一つである以上、『空』なのです。
したがって、人間の本質は、生きて、動いて、働いて、ものごとを作り出すエネルギーで、すべての人間は、同じ『空』なのです。
つまり、人間は、何かを創造することが本質で、すべての人間は、平等に空に生かされている兄弟姉妹なのです。 だからこそ、大調和のある世界を兄弟姉妹で創造することが、『空』の最終形態なのかなと思う次第です。
と、私の今のレベルでの空の理解でした。"違うぞ!"、という方、ご指導よろしくお願いいたします。