何か事が起こると、「さあ大変だ」と言うのが口癖になっている人がいますが、私は逆に難問がくると「これは、おもしろくなってきたぞ」と自分に言い聞かせるのです。そこの紙一重の差が大事だとおもうのです。
さあ大変だと思うと腰が引けてしまいます。反対に、「ようし」と心に決めると、すぐ行動がおこせるのです。行動を起こせば、必ずどこかに道が開けてきます。
「仏教は苦滅の道」であると学んで、「どんな苦も救うことができる教えを見つけた」と、躍り上がらんばかりだった当時の感動です。
その苦滅の道のかなめは、自分に不利なこと、つまり逆縁をも仏さまのご功徳であり、善縁なのだと受け取れるようになることにあります。
2024年11月27日水曜日
「ようし」と「かなめ」とは
2024年11月26日火曜日
仏教五戒について
法華経には五戒(ごかい)という言葉自体は具体的に登場しませんが、方便品第二に六波羅蜜が出てきます。この六波羅蜜は6通りの修行ことで、その2番目の修行に持戒が出てきます。その修行には、以下の5つあるという教えです。
五戒
- 不殺生(ふせっしょう)
- 不偸盗(ふちゅうとう)
- 不妄語(ふもうご)
- 不飲酒(ふおんじゅ)
- 不邪淫(ふじゃいん)
1から3の「殺さない・盗まない・嘘つかない」は、まぁ当たり前すぎて、守ることすら意識しないでも大丈夫ですが・・・ 人によっては、嘘つきは結構いる感じですか・・・
問題は4と5の「酒飲まない・エロしない」は、これは守るのがすごく難しいですね。
お酒は、付き合いでどうしても飲んでしまうとか、特に夏場はビールがすごくおいしいですね。しかし、お酒が入ると、眠たくなったりして何も出来ず、その時間がいつももったいなく思います。
邪淫の本来の意味は、不倫など人の道をはずれた性行為のことですが、一般的には、エロなどのよこしまで、みだらなことです。私も若い時は結構エロ好きでしたが、もうすぐ70歳になる今は、全く無くなってしまいました(^^;;;
ということで、五戒を意識しなくてもできる自分になりたい…と思う今日この頃です。五戒ありを誤解なく言えたかな(^o^)
2024年11月25日月曜日
当たり前の事を当たり前に行うことが大事
仏法では、誰もが否定できない「当たり前の事」を法(真理)といいます。
しかし、この「当たり前の事」を「当たり前に行う」ことが、実生活の上では凄く凄く難しいのです。
以前、こんな有り難いお話を聞かせて頂きました。
あるお寺に、お釈迦さまの教えを悟りきった凄く偉いお坊さんがいました。
ある仏教専門の偉い学者さんが、是非、教えを請いたいと遠い所からわざわざそのお寺へ訪ねてきました。
学者さんは、お坊さんに、お釈迦さまの難しい教えの真髄を教えて下さいとお願いしました。
すると、お坊さんは、お釈迦さまの教えは、難しくありません。3歳の子供でもすぐ理解ができます。といってお話しをはじめました。
お釈迦さまの教えは、『悪いことをしては、いけませんよ、良いことをしなさい。』これだけです。
それを聞いた学者さんは、わざわざ遠いところから、そんな「当たり前の事」を聞きに来たのではないと怒りはじめました。
それを見て、お坊さんは、『では、あなたは、その「当たり前の事」を実行することが出来ていますか・・・』
それを聞いて、我に帰った学者さんは、仏法を悟ったそうです・・・。
ちなみに、「法」とは、さんずいに去ると書きます。さんずいは、みなさんご存知の通り「水」です。そう、「法」とは、水が流れて去っていくというごく「当たり前の事」をいっている漢字だったのです。
2024年11月24日日曜日
因縁果報
今年2月に、次男夫婦に初のお孫ちゃんが産まれ、お孫ちゃんの安全と健康を祈るために法華経の読誦を、毎日することを決意し、しかし、サボり気味なり、そして今、法華経ブログ再開ということで、今のところ、毎日欠かさず、読誦させていただいています(^^;;
法華経の教えは、突き詰めると『因縁果報』という普遍の法則です。
『とある原因(因)』が『とある条件(縁)』にふれ『とある結果(果)』となり『とある報い(報)』が来る。
『とある結果』のところで、ネガティブな妄想が膨らみ、いろいろと苦しくなっている感じです。『とある結果』のところを変えようと思っても、その領域は、実は神や仏の領域で、自分ではどうすることもできません。自分でできるのは、『とある原因』のところなのです。
原因である自分を変えることしか出来ないのです。
自分にできることを精一杯させて頂くしかないのです。
ネガティブな妄想を捨て、今を精一杯生き抜くしかないのです。
さあ、サボらないで、法華経読誦、するぞ〜と誰にともなく・・・(^^;
2024年11月23日土曜日
不退転とあびばっち、あゆいおっち
法華経を読誦していると「不退転」とか「あびばっち」、「あゆいおっち」という単語が出てきます。
実はこの3つ、同じものなのです。
梵語の「アヴァイヴァルティカ」を音写したのが「あびばっち(阿び跋致)」で、不退転と漢訳されたものなのです。
また、阿惟越致(あゆいおっち)も阿び跋致(あびばっち)と同じものなのです。
尚、阿惟越致は13番16番、阿び跋致は3番、不退転は1,6,12,20番に出てきますね。
あびばっちの決意で、法華経を授受しないといけませんね(^^;
2024年11月22日金曜日
2024年11月21日木曜日
雨にも負けず、風にも負けず
私のお仕事は施設警備員で立哨もあります。 ここ数日、雨が降っていました。
雨の中の立哨は、結構堪えますが、「雨の中、ご苦労様」とか「お風邪を引かないように」等の温かい労いの言葉を頂くことがあり、凄く有り難いです。
仕事とはいえ、雨と寒さの中の立哨は、凄く大変です。
でも、その大変さを顔に出したら、警備員失格ですね。
つねに、良い挨拶と良い姿勢。そして、良い身だしなみを心がけ…。
自己改革を続けなければ、警備員の社会的地位は底辺のままです。
休日に自家用車を買い物等で乗り回すと、交通誘導の警備員さんを沢山見掛けます。
半分以上の警備員さんは、だらしがない格好をしていますね。
平気で警備服のままタバコを吸っていたり…。
警備の仕事は、意識を高く持てば、素晴らしい仕事です。
底辺の仕事などと言われないように頑張りましょう!(誰にともなく…)
ちなみに、「雨にも負けず、風にも負けず」の詩は、宮沢賢治の没後に発見された遺作のメモであり、その最後に「南無無邊行菩薩/南無上行菩薩/南無多宝如來/南無妙法蓮華経/南無釈迦牟尼佛/南無浄行菩薩/南無安立行菩薩」という題目が記されていたという。
この詩は、明らかに法華経20番の常不軽菩薩とイメージが重なります。
私も、常不軽菩薩のように、仏性を拝む修行をしているのかもしれません。
私も、デクノボーと呼ばれ…そういう者に私はなりたい(^^;
2024年11月20日水曜日
「行ってきます」と「行って参ります」
あなたは、何処かへ出かける時、「行ってきます」と言いますか?
それとも、「行って参ります」と言いますか?
この2つ、同じ意味で使われますが、実は、大きな違いがあるのです。それは、「参」が入るか、入らないか、ということです。
「参」には、さまざまな出会いの中で、人間として少しでも尊ぶべきものごとを学び、向上して帰ります、という精神的な意味合いが含まれるのです。
また、何かの対戦で、負けると「参った」、「参りました」と言います。
これは、悔しがったり、文句を言ったりせず、謙虚に相手の強さを認め、敬意を表す言葉です。
つまり、尊いものや強いものに近づこうと誓願するのが「参」と言うことなのです。
ということで、「行って参ります」は、イコール自己向上を意味し、仏教的には、自らの魂を磨くことなのですね。
「行ってきます」は、まさにそのままですが、「行って参ります」は、行って魂を磨いてくるのです!





