衆生を哀愍し願って此の間に生れ、広く妙法華経を演べ分別するなり。
衆生を救おうという願いと慈悲心によって生まれ変わってくること。これを願生(がんしょう)という。
人間とは、もともと人の意味でなく、人と人の間のことで世間という意味です。
そして、「此の間に生れ」とは、「世間に生まれる」ということであり、「人間に生ずる」ということです。
菩薩行とは、衆生を救おうと広く妙法華経を演べ分別すること。
ということで、人は、自覚はないのだけれど、菩薩行をするために願って生まれてくるらしい。
衆生を哀愍し願って此の間に生れ、広く妙法華経を演べ分別するなり。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
深く経蔵に入って、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
大衆を統理して、一切無げならん。
自ら仏に帰依したてまつる。
自ら法に帰依したてまつる。
自ら僧に帰依したてまつる。
今此の三界は。皆是れ我が有なり。其の中の衆生は。悉く吾が子なり。而も今此の処は。諸の患難多し。唯我れ一人のみ。能く救護を為す。
「正しい行いを続けていくと、善い縁が沢山できて、善い結果が生じ、世界が大調和し、みんなが幸せになる」
諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なるを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。
衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
舎利弗、是れを諸仏は唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうとなづく。
まぎらわしいので、整理しときます。
* 前世:過去
* 現世:現在
* 来世:未来
* 欲界:淫欲と食欲に支配され、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人の六道が住む世界
* 色界:欲望は離れているが物質的条件にとらわれた世界
* 無色界:物質的なものから完全に離れた精神的条件だけをもつ世界
* 仮名(けみょう):生命のあるもの、衆生世間とも呼ばれる
* 国土(こくど):山河大地など、住んでいる場所を指す
* 五蘊(ごうん):人間(心や身体)や世界を構成している構成要素
* 第一世界:資本主義先進国
* 第二世界:社会主義諸国
* 第三世界:いずれにも属さない発展途上国の総称
- 額にある月のような渦毛
- 項(うなじ)に日の光あり
- 渦巻く頭髪は紺青色
- 頭上は高く盛り上がっている
- 澄み切った鏡のような清らかな眼
- その眼は上下にまじろぎ
- 紺色の眉はのびのびとし
- 口や頬は正しく整い
- 唇は赤い花のよう
- 舌もおなじく
- 歯は、雪のように白く
- 40本きちんとそろって
- 額は広く
- 鼻長く
- 顔全体がひろびろとして晴れやかで
- 胸には卍が表れ
- 上部は獅子の胸のように張って
- 手も足も柔らかで
- そして車の輪ような紋ある
- 脇の下と掌に細い線が揃っていて
- それが内外ともにまとまっている
- 上腕はながく
- 下腕もながく
- 指はまっすぐで細く
- 皮膚はキメ細やかで柔らかく
- 毛はすべて右のほうに渦巻いている
- 踝はよく現れて形がいい
- 膝も同様
- 陰部は隠れていて見えず
- 筋は細く
- 骨はがっしりしていて
- 脚は鹿のようにすらりとしている
額にある月のような渦毛のことを白毫相(びゃくごうそう)といい、非常に徳の優れたしるし。
項(うなじ)に日の光ありは、後光ともいい、非常に徳の優れたしるし(もしかしてオーラ?)。
卍(万字)は、仏教のしるし。四方が円満に揃っている意味。
『善く菩薩の道を学して、世間の法に染まざること蓮華の水の在るが如し』
阿鼻地獄は無間地獄ともいい、人間のあり方における最低の状態(地獄界)です。
阿迦尼タ天は有頂天ともいい、人間のあり方における最高の状態(天上界)です。
つまり、光は『仏の智慧』の象徴で、それが、どのような状態の人間にでも行き届きました。
法華経の教えとは
悟ればこの身がすなわち仏であり、みんなが悟ればすなわちこの世が寂光土であるという教えです。
仏はわれわれの心のなかにある、極楽はわれわれの日常生活のなかにあるという教えなのです。
『新釈 法華三部経十巻』(著:庭野日敬) より
悟れば、ごく身近な心の中と、日常生活の中にあるとは、まさにその通りだと思います。素晴らしい気づきですね!
顛倒とは、物事を逆さまに見ること、すなわち真相を見誤ることです。
普通の人(凡夫)には4つの顛倒があると、仏教では云われています。
人は追い込まれると、まさに四顛倒になりますね。
余裕をもって四顛倒にならないようにいきましょう。
お経には、『劫(こう)』という時間の単位がよく登場します。
では、『劫』という時間の長さはどれぐらいでしょうか?
お釈迦さまは、以下の様な旨を、おっしゃたそうです。
『たとえば、一辺が40里の大きさの超巨大な石の山があって、その頂きを100年に一度ずつ柔らかい衣の袖で撫でることによって、 石の山がすこしずつ磨れてゆき、すっかり磨れてしまうまでの年数よりも、劫というのはもっと長い時間である』
いや~どんだけ、長いんや~。
ちなみに、1里は約3.9キロメートルです。
普通、中道とは、物事の中程の道と思われています。
しかし、釈尊は、最初に説法された初転法輪で以下のように仰いました。
『比丘たちよ。この世には近づいてはならぬ2つの極端がある。如来は、この2つの極端を捨て、中道を悟ったのである。』
この『中道』とは、『極端を離れたほどよい道』というあいまいなものではなく、ただ一つしかない真理に合った道を云うのです。
では、真理に合うとは、『仏教で云う『真理』とは?』を参照願います。
人間の本質は、仏性であることを自覚し、自分と他人を分けて自己中心に考える「我」の心を取り除きながら、いのちの大本である「一つの大きな輝くいのち」と常に一体感を味わえる境地(成仏)にまで、絶えず向上の道を歩むこと。
まぁ、こんな感じです。『いのちの大本である「一つの大きな輝くいのち」』がつっこみどころかもしれませんが、とにかく、法華経的には、すべての人は「一つの大きな輝くいのち」に生かされていると説かれています。
普通、『我執』とは、我に執着することで、すべて自己中心に考え「自分のために・・・」と考える気持ちです。
釈尊は、お悟りを開かれた時につぎのように仰いました。
『奇なるかな。奇なるかな。一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す。ただ妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず。』
つまり、我々の心に、この我執が充満しているかぎり、すべてのものを生かす真理が入り込む余地がないのです(証得せず)。
逆に、『我執』を捨てた『無我』の境地になると、真理の光が何の障害もなく心の底に差込み、染み込んでくるのです。
したがって、いくら仏教を学んでも行じても、『我執』を捨てなければ、救いも幸せも生ずるはずがないのです。