今回、釈尊の一生を見てきたわけですが、ここに僭越ながら、仏教素人の私の感想(ある意味悟り)を述べてみたいと思います。
仏教はご存知の通り、八万四千の法門があり、経典は約1700種あると言われています。また、宗派も沢山あるわけです。
これは、釈尊の時代には、教えを書物にする習慣(技術?)がなく、随宜説法の内容を口づてに伝えられました。
それを釈尊が入滅したのち、弟子達が思い思いに本にまとめたものが、経典となったのです。
したがって、すべての経典の内容は、ほぼ間違いなく釈尊の教えだと思うのですが、それにしても多過ぎます。
そこで、教えの真髄中の真髄を私なりに推察すると、お悟りと初転法輪のときの2つのメッセージに帰するのかなと思うのです。
一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す。ただ妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず。
如来は、この2つの極端を捨て、中道を悟ったのである。
まず語句を解釈します。
『如来の智慧と徳相』とは、如来は仏様の別名で、智慧と徳相とは、性質です。したがって、仏性となります。
『妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず』は、何に対しての妄想・執着かというと自分自身のからだということです。
上記を踏まえて意訳しますと。
すべての人は、仏性を持っている。仮の現れである自分のからだが、自分自身であるという妄想をもっていて。
かつ、それに執着しているために、自分自身が『永遠の命』である仏性を持っていることを証れ得ないでいるのだ。
苦行と怠けの2つの極端を捨て、真理に合った道を悟ったのである。そして、八正道を実践すると自然と真理に合って来るのです。
とりあえず、これから先は、まだ、悟りえず・・・・・・。
しかし、これだけは、確かなようです。そう、幸せになるための『正しい行い』です!
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