2016年4月10日日曜日

慈悲と智慧

まずは、おさらいです。
  • 慈悲の慈とは、慈しみ与え幸福にしてあげること。
  • 慈悲の悲とは、悲しみを取り除いてあげること。
  • 智慧の智とは、すべての物事の違いを見分ける力。
  • 智慧の慧とは、すべての物事の共通を見いだす力。
そして、弥勒菩薩は慈悲の象徴の菩薩で、文殊菩薩は智慧の象徴の菩薩です。
『疑問に思った弥勒菩薩が文殊菩薩に教え請いました。』
ということは、『慈悲』が『智慧』に呼びかけたということになります。
『慈悲』の呼びかけに応じて『智慧』が発動するのです。

菩薩行とは、相手を救ってあげたいという、やむにやまれぬ慈悲の心です。
ところが、慈悲だけではダメで、そこには智慧がともなわないといけません。
慈悲と智慧がそろってはじめて、正しい導きができるのです。

2016年4月9日土曜日

三昧とは

普通、三昧とは、遊び三昧とか温泉三昧とかで、楽しいことをずーっとやっている意味で使われます。
また、無念無想になる行のように思う人もいるかも知れません。

しかし、仏教でいう三昧とは、そのようなものではなく、一切の雑念を断ち切り、<善き思い>と<正しい教え>に<全精神を集中>し、
その一念が長い間切れ目なくつづいている状態を言うのです。
瞑想とか思索と違うところは、『<善き思い>と<正しい教え>に<全精神を集中>』というところです。

<善き思い>とは、徳のことです。
<正しい教え>とは、法のことです。

そして、<全精神を集中>とは、表面の心だけでなく、潜在意識までも、徳と法をしみこませることなです。
徳と法が沢山しみ込んだ人格こそ、仏教徒の目指すところなのです。

とにかく、三昧とは、一切の雑念を断ち切り『<善き思い>と<正しい教え>に<全精神を集中>』することなのです!

2016年4月7日木曜日

法華経の教え

法華経の教えとは
悟ればこの身がすなわち仏であり、みんなが悟ればすなわちこの世が寂光土であるという教えです。
仏はわれわれの心のなかにある、極楽はわれわれの日常生活のなかにあるという教えなのです。
『新釈 法華三部経十巻』(著:庭野日敬) より


ごく身近な心の中と日常生活の中にあるとは、まさにその通り、素晴らしい気づきだ!

2016年4月6日水曜日

仏の十号

法華経には、釈尊を始めとして沢山の仏さまが登場します。
過去の日月燈明仏等や弟子達の未来仏、そして他の惑星の仏さま達……。

登場するたびに、仏の十号という尊称で紹介されます
  1. 如来(にょらい)- 真如(ほぼ真理と同じ)から来た人
  2. 応供(おうぐ)- 供養を受けるに相応しい人
  3. 正偏知(しょうへんち)- 正しい智慧を具えた人
  4. 明行足(みょうぎょうそく)- 智慧(明)と実践(行)が満ち足りている人
  5. 善逝(ぜんぜい)- 迷いを完全にのぞきさってしまった人
  6. 世間解(せけんげ)- 世間をはっきり見分けることができる人
  7. 無上士(むじょうじ)- この上もないりっぱな人
  8. 調御丈夫(じょうごじょうぶ)- どんな人でも教えに導くことが出来る人
  9. 天人師(てんにんし)- 天上界と人間界の大導師の人
  10. 仏世尊(ぶつせそん)- 悟ったことにより世の中で尊重される人
ということで、仏の十号でした。

2016年4月5日火曜日

四顛倒(してんどう)

顛倒とは、物事を逆さまに見ること、すなわち真相を見誤ることです。
普通の人(凡夫)には4つの顛倒があると、仏教では云われています。
  • 常顛倒 - 本来は無常(変化)であるのに、常(変化しない)と考える。
  • 楽顛倒 - もともとは苦であるものを、一時的な現象だけで楽と考える。
  • 淨顛倒 - 不浄なるものを、表面だけを見て淨と考える。
  • 我顛倒 - 世の中は助け合って成り立っているものを、自分の力だけだと考える。

人は追い込まれると、まさに四顛倒になりますね。
余裕をもって四顛倒にならないようにいきましょう。

2016年4月3日日曜日

『劫』という時間の長さ

お経には、『劫(こう)』という時間の単位がよく登場します。
では、『劫』という時間の長さはどれぐらいでしょうか?
お釈迦さまは以下の様に、おっしゃたそうです。

『たとえば、広さ40里もある石の山があって、その頂きを100年に一度ずつ柔らかい衣の袖で撫でることによって、
石の山がすこしずつ磨れてゆき、すっかり磨れてしまうまでの年数よりも、劫というのはもっと長い時間である』

いや~どんだけ、長いんや~。
ちなみに、1里は約3.9キロメートルです。

2016年4月1日金曜日

さとりの境地

さとりの境地をまとめてみました。
  1. 1.なん法 - 仏法にふれて暖かく傍にいたいと思う境地。
  2. 2.頂法 - 仏法の尊さはやや認識できたけど、あやふやな境地。
  3. 3.忍法 - 仏法の尊さがはっきり認識できた境地。
  4. 4.世第一法 - 仏法が世の教えの中で第一であると確固たる境地。
  5. 5.須陀おん果 - 仏道の流れに乗った信仰状態の境地。
  6. 6.斯陀ごん果 - まだ迷いのある凡夫へ戻る可能性のある信仰状態の境地。
  7. 7.阿那ごん果 - もう凡夫へ戻る可能性のない信仰状態の境地。
  8. 8.阿羅かん果 - まよいのない境地、声聞の最高の境地。
  9. 9.辟支仏 - 縁覚ともいい、生活体験によって仏の道を会得している状態の境地。
  10. 10.第一地:歓喜地 - 二空の理を会得して大歓喜している境地。
  11. 11.第二地:離垢地 - 煩悩(垢)からすっかり離れた境地。
  12. 12.第三地:発光地 - 人格から光を発する境地。
  13. 13.第四地:焔慧地 - 焔(ほのう)のような智慧をもった境地。
  14. 14.第五地:極難勝地 - 言う事、なす事がすべて仏道と一致してくる境地。
  15. 15.第六地:現前地 - すべての人が平等であると現実に目の前に見えてくる境地。
  16. 16.第七地:遠行地 - 声聞・縁覚のさとりから遠く離れて、仏に近くなった境地。
  17. 17.第八地:不動地 - 仏の境界に達する資格が不動になった境地。
  18. 18.第九地:善慧地 - どんな人でもかならず救えることが出来るようになった境地。
  19. 19.第十地:法雲地 - 大雲が空を覆うように仏法でありとあらゆる人を救う境地。
1から4は、仏教入門の人の境地
5から8は、いわゆる声聞といわれる人の境地
9は、いわゆる縁覚といわれる人の境地
10から19は菩薩といわれる人の境地
う~ん、私は、4~5の中間ぐらいかな、まだまだ、先は長い……。

2016年3月31日木曜日

仏教で云う『真理』とは?

普通、『真理』とは、いつでも、どこでも変わりのない法則が真理です。
仏教では、その真理を『空』とも呼び。真理に合うとは、大調和のある世界を創造する一因をなすことが、 真理に合ったということなのです。たぶん。

2016年3月29日火曜日

仏教で云う『中道』とは?

普通、中道とは、物事の中程の道と思われています。
しかし、釈尊は、最初に説法された初転法輪で以下のように仰いました。
『比丘たちよ。この世には近づいてはならぬ2つの極端がある。
如来は、この2つの極端を捨て、中道を悟ったのである。』
この『中道』とは、『極端を離れたほどよい道』というあいまいなものではなく、ただ一つしかない真理に合った道を云うのです。
仏道修行によって『我執』を捨て、八つの正しい道(八正道)を歩むことを心がけていますと、 しだいしだいに、考え方や行いが真理に合うようになってくるのです。
では、真理に合うとは、『仏教で云う『真理』とは?』を参照願います。

2016年3月27日日曜日

仏教で云う『我執』とは?

普通、『我執』とは、我に執着することで、すべて自己中心に考え「自分のために・・・」と考える気持ちです。
釈尊は、お悟りを開かれた時につぎのように仰いました。
『奇なるかな。奇なるかな。一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す。
ただ妄想・執着あるを以ってのゆえに証得せず。』
つまり、我々の心に、この我執が充満しているかぎり、すべてのものを生かす真理が入り込む余地がないのです(証得せず)。 逆に、『我執』を捨てた『無我』の境地になると、真理の光が何の障害もなく心の底に差込み、染み込んでくるのです。
したがって、いくら仏教を学んでも行じても、『我執』を捨てなければ、救いも幸せも生ずるはずがないのです。
では、どうしたら『我執』を捨てることができるかというと、仏教徒の人は、朝夕の読経供養がいいらしいです。 では、一般の人は、どうするの・・・仏教徒になるしか・・・。

2016年3月26日土曜日

仏教で云う『空(クウ)』とは?

色即是空とか空即是色といった言葉をよく目にします。 この空(クウ)は、一般的な意味は空『カラッポ』という意味です。 しかし、仏教で云う空とは、全く反対の『実体』と云うことなのです。
空の原語である梵語のシャーニャは、『脹らむもの』と云う意味だそうです。 『脹らむもの』とは、エネルギーの象徴です。 生きて、動いて、働いて、ものごとを作り出すエネルギー、それが空の真の意味なのです。
『実体』と『エネルギー』は一見矛盾すると思いますが、現代物理学では、究極の物質(実体)はエネルギーだそうです。 だから、矛盾していないのです。
究極の物質が『空』であると云う事は、容易にこの宇宙の実体が『空』であるということにたどり着きます。 また、人間も宇宙の生成物の一つである以上、『空』なのです。
したがって、人間の本質は、生きて、動いて、働いて、ものごとを作り出すエネルギーで、すべての人間は、同じ『空』なのです。
つまり、人間は、何かを創造することが本質で、すべての人間は、平等に空に生かされている兄弟姉妹なのです。 だからこそ、大調和のある世界を兄弟姉妹で創造することが、『空』の最終形態なのかなと思う次第です。
と、私の今のレベルでの空の理解でした。"違うぞ!"、という方、ご指導よろしくお願いいたします。

2016年3月24日木曜日

法華経(仏教)を解き明かす『3』という謎の数とは?

法華経を読んでいると、なにかと3つが組みになっているキーワードに遭遇します。
智慧系慈悲系行徳系
文殊菩薩弥勒菩薩普賢菩薩
多宝如来釈迦如来阿弥陀如来
法
仏
僧
法身
応身報身
如来の室
如来の衣如来の座
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静
声聞
縁覚
菩薩
四諦
十二因縁
六波羅蜜
小乗
大乗
一乗
無量義経
法華経
懺悔経
縁起の法永遠の命法の実践
呼ばれたら返事、ハイ!朝の挨拶、おはよう!脱いだ靴は、そろえるよ!
法布施財布施身布施
敬供養利供養行供養
自分が変れば相手が変るまずは人様すべては自分
そして、それらのイメージが自然と、智慧系、慈悲系、行徳系に分類されるのです。 また、法華経の前半を智慧系が、中程を慈悲系が、後半が行徳系のくだりになっているのです。
どうも、この3つの系が一体化されたものを釈尊は、悟られたのかなぁと思う次第です。 まだ、未消化気味の内容の文章ですが、これからも考察していきたいと思う次第です。

2016年3月22日火曜日

初転法輪

初転法輪とは、今から約2500年前、釈尊がお悟りを開いた後に、以下の5人へ、はじめて鹿野苑(インドのベナレス)で説法をされたこと云います。
ちなにみ、初転とは、はじめて転がすことで、法輪とは、法の車輪を転がすことです。(古代インドでは、りっぱな王には、巨大な車輪が授けられた。)
  • 嬌陳如(きょうじんにょ)
  • 跋提(ばつだい)
  • 婆沙波(ばしゃば)
  • 摩訶那摩(まかなま)
  • 阿説示(あせつじ)
第一声は以下でした。
『比丘たちよ。この世には近づいてはならぬ2つの極端がある。
如来は、この2つの極端を捨て、中道を悟ったのである』
そのあと、四諦と八正道の教えが説かれたとのことです。
また、仏、法、僧がはじめてそろった、つまり、仏教が誕生した記念すべきイベントが初転法輪なのです。

2016年3月21日月曜日

開経偈

開経偈とは、『お経文として読誦するのでは無く、法華経を拝読するときにお唱えする讃文(讃歌)であります。』ということで、以下を唱えます。
無上甚深微妙の法は百千万劫にも遭いたてまつること難し。
我今見聞し受持することを得たり、願わくは如来の第一義を解せん。
至極の大乗思議すべからず、見聞触知皆菩提に近づく。
能詮は報身、所詮は法身、色相の文学は即ち是れ応身なり。
無量の功徳皆この経に集まれり。是の故に自在に冥に薫じ密に益す、
有智無智罪を滅し善を生ず、若は信、若は謗共に仏道を成ず。
三世の諸仏甚深の妙典なり、生生世世値遇し頂戴せん。 
要約すると、「法華経に巡り会えることは凄く難しく。しかし、私は今、法華経と出会い、心に刻み、できれば、法華経の神髄を理解したい。」、つまり、「遭い難き法華経に出会えて、法華経の神髄を必ずつかませていただきたい!」ということです。
そして、法華経の神髄とは、「無常の法」であり、お互いに生かしあい(諸法無我)、絶えず変化している(諸行無常)ことを悟り、宇宙全体のありようを、一つの大きないのちと観じられる・・・。

2016年3月20日日曜日

三帰依文

三帰依文とは、仏教徒なら毎日お経を上げる前に必ず唱える例の決まり文句です。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、 
大道を体解して、無上意を発さん。 

自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、 
深く経蔵に入って、智慧海のごとくならん。 

自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、 
大衆を統理して、一切無げならん。 
意味は、「仏(仏さま)・法(真理)・僧(仏の仲間)を全身全霊で信じきり、拝みきって、心のよいどころに致します。」ということらしい。

では、なぜいきなり、三帰依文かというと・・・。
それは、先日、三身一体でお話した「応身・法身・報身」が、もしかしたら、「仏・法・僧」のことではないか・・・と、ふと思ったのです。っていうか、報身がイマイチ理解できなくて、そこに「仏・法・僧」の「僧」が、飛び込んできたのです。つまり・・・
  • 応身 = 仏
  • 法身 = 法
  • 報身 = 僧
ということで、報身とは、法華経を行ずる我々自身だということに気づかせて頂きました。
そして、他人からいわれるのでなく、自ら「仏・法・僧」を全身全霊で信じきり、拝みきる・・・。私は、いつになったら、その境地になれるのでしょうか・・・。

2016年3月18日金曜日

三身一体(法身・応身・報身)

三位一体では、ありません、こちらは、キリスト教でのお祈りの言葉で「父と子と聖霊の名のもとに・・・」であり、父とは神であり、子とはイエスのことであり、聖霊とは信仰の証のことです。
さて、三身一体とは、以下のように仏教での三身の仏のことをいい、そして、三身だけど実は一体なのだという教えです。
  • 法身 - 法華経では、多宝如来として表されている究極的な真理(仏さまの本体)をいいます。
  • 応身 - 究極的な真理を衆生にお示しになるために、人としてこの世に生まれた釈迦如来をいいます。
  • 報身 - 浄土宗でいう阿弥陀如来などのことで、修行の報いによって仏になられた信仰の証をいいます。
そう、三位一体とほぼ一緒と言おうか、これは、もう同じでしょう・・・。やはり、仏教もキリスト教も根本では、同じ説を信じます。

2016年3月17日木曜日

四弘誓願(しぐせいがん)

先の「法華経 従地涌出品 第十五」で、他の世界からやって来た菩薩達が、仏の滅後に娑婆世界にとどまってこの法華経を広めたいと申し出たのを、きっぱりとお釈迦さまは、お断りになったとたん、突然地面の中から涌き出した四大菩薩(上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩)等は、どのような意味があるのでしょうか。
実は、この四大菩薩は、菩薩としての四つの大誓願を代表しておられるのです。これを四弘誓願といいます。
  • 安立行(衆生無辺誓願度)- 衆生の数は無辺であろうとも、すべてもれなくお救いしようという誓願。
  • 浄行(煩悩無数誓願断)- 煩悩の数は無数であろうとも、かならずすべてを断ち切ろうという誓願。
  • 無辺行(法門無尽誓願学)- 仏の教えは無尽であろうとも、かならず学びつくそうという誓願。
  • 上行(仏道無上誓願成) - 仏の道は無上であろうとも、かならず成就しようという誓願。
まず、娑婆世界の地から涌き出したということは、娑婆世界の住民であるわれわれが、自らこの世界を法華経(正しい教え)によって、平和をつくりださねばならない、という力強い意味があります。
また、菩薩の名前に「行」が付いているのは、まさに「この世界を法華経(正しい教え)によって平和を作りださねばならない」という「行」そのものなのです。そして、その「行」は、四弘誓願の実践とイコールらしい。

2016年3月15日火曜日

衣座室(えざしつ)の三軌

以前、法華経の勉強会に行って、法師品第十を主に勉強してきました。で、心に残った『衣座室(えざしつ)の三軌』をお分けいたします。
これは、法華経を説く時の三つの心構え(ルール)です。
如来の室に入り如来の衣を著如来の座に坐して、爾して乃し四衆の為に広く斯の経を説くべし。如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是れなり。如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり。如来の座とは一切法空是れなり。是の中に安住して、然して後に不懈怠の心を以て、諸の菩薩及び四衆の為に、広く是の法華経を説くべし。
  • 如来の室(大慈悲心是れなり)
    大きな喜びをあたえ、大きな苦しみをも取り除いてあげようとする心。
  • 如来の衣(柔和忍辱の心是れなり)
    やさしくおだやかで、種々の侮辱や苦しみを耐え忍び、心を動かさないこと。
  • 如来の座(一切法空是れなり)
    すべての人は、仏の子(同根同胞)であり、すべての教えは、平等に受け止められ、生きるエネルギーになる。
ちなみに、「四衆」とは僧、尼、信男、信女の仏教信者をいいます。


とある教団で、とある開祖さまが、ナンバー2の人を担いだグループから邪険にされた時代がありました。
しかし、とある開祖さまは、そのグループをまったく咎めなかったのです。
のちに、とある開祖さまが、この時の心境をインタビューされたとき、以下のようにおっしゃいました。
そのグループの人達は、私の可愛い子供達(仏の子)ですからね。出来の悪い子供ほど可愛いものです。
開祖さまは、まさに、『衣座室の三軌』を実践したといえるでしょう・・・。すごい。

2016年3月14日月曜日

智慧とは・・・

  • 智慧の智とは、すべての物事の違いを見分ける力。
  • 智慧の慧とは、すべての物事の共通を見いだす力。
  • 救いとは、心のやすらぎと生きる希望を与えられたとき。
  • 有難いとは、有る事が難しいこと。
  • 仏性とは、すべての人がもっているもの。

2016年3月13日日曜日

慈悲の心とは・・・

慈悲の慈とは、梵語のマイトレーヤの訳で「最高の友情」という意味があるそうです。で、そこから転じて、「与楽の心」だと定義されています。(たぶん、法華経に・・・)
慈悲の悲とは、梵語のカルナーの訳で「苦しんでいる人の声をきいて共感してあげる」という意味があるそうです。で、そこから転じて、「抜苦の心」だと定義されています。(同じく、法華経に・・・)
また、法華経では、すべての人が平等であると説いていますが、人生にはいろいろと苦と楽にアンバランスが生じ、不平等が生じます。
そして、不平等が生じたときに、ほとんど無意識にその不平等を均して平等に返そうとする気持ち、どうしてもそれをぜすにはいられなくなる気持ちを・・・、慈悲の心というらしい・・・。