2024年11月13日水曜日

薬草の譬え(法華七喩あらまし)

薬草の譬え

妙法蓮華経薬草諭品第五に出てくる譬え話しです。

物語

この地上には、いろいろさまざまな草木が生い茂っています。その草木は、大きさにも大・中・小があり、性質もすがた形も、千差万別です。 しかし、すべての草木に共通していることは、ひたすら雨のうるおいを欲し求めていることです。 そして、雨は、どこにでも、どの草木にも、同じように平等に降りそそぎます。ところが、それを受ける草木の方では、その大小や種類の相違によって受け取り方が違ってきます。

仏の教えと衆生との関係もこれと同様であることを知らなければなりません・・・。

解説

この譬えは、差別相と平等相について述べています。

人々の天分や性質は、一人ひとり違います。生い立ちも、健康も、環境も、職業も、それぞれ違います。 そういう様々な条件の違いがあるため、人々が等しくもっている仏性は、まったく平等であるにもかかわらず、真理の雨の受け方にさまざまな違いが生じてくるのです・・・。(差別相)

しかし、いくら受け方が違っても、それぞれの人が真理の雨を受けて、天分の性質のままに成長し、それぞれの花を咲かせ、それぞれの実を結ぶという点において、全く平等なのです・・・。(平等相)

つまり、人間は、それぞれにすがたは違って(差別相)いても、それぞれに成長していくところは、全く同じ(平等相)で、この事を認識することにより、自分もほんとうに生かし、他の人もほんとうに生かす正しい生き方ができるわけです。


 

長者窮子の譬え(法華七喩あらまし)

長者窮子の譬え

妙法蓮華経信解品第四に出てくる譬え話しです。

物語

幼い時に父(長者)の屋敷をさまよいい出て、ゆくえも知らず50年・・・、放浪しながら他国で貧乏な暮らしを続けいた、一人の貧しい子(窮子)がいました。

そして、放浪で知らないまま本国へもどり、偶然、父とは知らず父の立派な屋敷の前で再会しました。 父親は、すぐ我が子だと気づきましたが、窮子は気づかず、立派な父に畏れをなしてしまい、屋敷から立ち去りました。

しかし、父親は、使用人へ窮子と同じような貧しい恰好をさせて近づきさせ、屋敷で働くように仕向けました。 そして、窮子は、屋敷で働くようになりました。

父親は、始めお便所掃除などの汚れ仕事から徐々に財産の管理などの重要な仕事へと段階的に導きました。 窮子も、始めの卑屈な心から次第に菩薩のような心へと段階的に変化していったのです・・・。

そして、父親は臨終間じかに、大勢の人の前で、この窮子は私の実の子ですと真相を明らかにしました。 窮子は、昔の極貧の境遇と、それに甘んじていた志の低さにくらべ、父の莫大な財産を得た身の広やかな思いは、生まれてはじめて味あう喜びでありました・・・。

解説

もちろん、父親(長者)はお釈迦さまの喩えで、そして、窮子はわれわれ凡夫の喩えです。 お釈迦さまは、われわれ凡夫が、志の低いところから徐々に高い所に導いて、最後にはすべての人が、最高の境地で達することができるのです。と説かれました。

そして、父親(長者)の言うことを信じ、理解して、窮子は父親(長者)の後を継ぎ、最高の境地を手に入れたのです・・・。


三車火宅の譬え(法華七喩あらまし)

三車火宅の譬え

妙法蓮華経譬諭品第三に出てくる譬え話しです。

物語

ある国のある町に、大きな長者がいました。 その家やしきは広大なものでしたけども、門はごく狭いのが一つしかありませんでした。 しかも、家は大変荒れはてていました。

ある日、その家が突然火事になりました。 家の中には、長者の子供達が大勢いて、夢中で遊びたわむれていて、火事に全く気づきません。 長者は、大声で知らせますが、全く聞こえてくれません。 その時、長者は、ふと子供達が車を欲しがっていたことを思い出しました。

そして、火事のことではなく、つぎのように呼び掛けたのです・・・。

『おまえ達の好きな、羊のひく車(羊車)や、鹿のひく車(鹿車)や、牛のひく車(牛車)が門の外にあるぞ、早く行ってとりなさい!』

すると子供達は、その言葉を聞いて正気にもどり、われ先にと燃えさかる家から出て助かることができました。 長者が、子供達が助かって安心していると、子供達は、口々に約束の車をせがみます。 すると、長者は、子供達が欲しがっていた車ではなく、大きな白牛のひく大変豪華な車(大白牛車)をみんなにひとしく与えたのでありました・・・。

解説

父の長者は、いうまでもなくお釈迦さまです。 子供たちは、われわれ凡夫です。 荒れはてた家は、現実の人間社会です。 火事は、われわれの煩悩をさしています。

われわれ凡夫は、物質、肉体などにとらわれて、なかなか苦しみからのがれられません。 そこで、お釈迦さまは、いろいろな教えをお説きになりました。 まずは、声聞(羊車)で、とにかくお教えを聞きなさい。 つぎに、縁覚(鹿車)で、とにかくお教えを体験しなさい。 最後に、菩薩(牛車)で、とにかくお教えで沢山の人をお救いしなさい。 などなどです。

そして、この3つ(三乗)の教えを実践して、人格を高めて歩んでいけば・・・、ある一つの真理(大白牛車)にたどり着くのです・・・。

良医の譬え(法華七喩あらまし)

良医の譬え

妙法蓮華経如来寿量品第十六に出てくる譬え話しです。

物語

ある所にどんな病気でも治す名医がいました。 また、その医師にはたくさんの子供がありました。 ある時、用があって、他国へ出かけました。

その留守中に子供達は、したい放題の生活をして、間違って毒薬を飲んで、地べたにころげ回って、苦しがっていました。 そこへ、突然、父が帰って、その状態を見て、良く効く薬を作り、子供達へ与えました。

何人かの子供は、その薬を飲んで治りましたが、ほとんどの子供達は、飲みませんでした。 なぜかというと、本心を失っている子供達には、その薬が良い薬と思えなかったのです。そこで、父は、何とか子供達に薬を飲まそうと、ある方法を考え、子供達に告げました。

『私は年をとって、体が弱り、あまりさきが長くない。それなのにまた用があって他国へ出かけなければならないのだ』と良薬を置いて、旅たって行きました。 そして、旅先から使いをやって『父上は、お亡くなりになりました』と告げさせたのです。

それを聞いた子供達は、大変驚き、悲しみましたが、逆に本心を失っている子供は、ハッと目を覚ましたのです。そして、良薬を飲み、毒による病は治りました。 そして、そこに父が旅先から帰ってきて子供達のまえに姿を表したのです。

解説

この譬えは、仏の神髄を説いたものです。どこが、神髄なんだって声がきこえますが・・・。

まず、医師はお釈迦さまで、子供達は私達衆生です。そして、良薬は法華経です。 お釈迦さまは、序品から寿量品まで『生身の釈迦』が、実は、『法身の釈迦』でもあるのだ・・・と、手を変え品を変え述べているのです。

そして、『生身の釈迦』が入滅するのは、私達衆生を教化するための方便で、本当は滅度したのではなく、『法身の釈迦』として、いつでもどこにでも、私達衆生のために法(法華経)を説いているのだと、明らかにされたのです。

つまり、仏の神髄は、『法身の釈迦』としての、いつでもどこにでも、私達衆生のために法を説いている『永遠の命』だったわけです。

そして、その法とは、すべての人が正しい生活(法華経の実践)をしていけば、世界が大調和し、すべての人が幸せになれるということらしい。

だから、まず始めに自ら正しい生活を実践し、そして、あなたにも実践していただいて、みんなで幸せになりましょう・・・ということが、法華経の教えなのです。

 

髪中の譬え(法華七喩あらまし)

髪中の譬え

妙法蓮華経安楽行品第十四に出てくる譬え話しです。

物語

非常に強いある国の王が、命令に従わない多くの小国を次々と討伐しました。その戦いで手柄があった武将には、領地や衣服や宝石などを褒美として与えましたが、自分の髪に結ってあった明珠の飾りだけは、与えませんでした。

なぜならば、それはたった一つしかない最上の宝なので、もしむやみにこれを与えたら、王の一族が驚き怪しむだろうと考えたからです。

しかし、くらべもののないようなすごい手柄を立てた者がいたら、おしげもなく髪に結ってあった明珠のを与えるでしょう。

解説

この譬えは、法華経が難信難解なので、機根ない人に無闇に説いては行けませんよ。しかし、機根ができれば、おしげもなく法華経を説きなさい。ということの譬えです。

つまり、仏は、禅定と智慧で法の国を治める王です。菩薩達が、衆生を教化して仏道に入ると、 無漏(迷いがなくなる)や根力(精進の力)や涅槃(煩悩を滅する)などを褒美として与えます、 そして、菩薩達が仏法にたいする迷いをなくし、しかも信心が固くて大丈夫だと見極めたら、はじめて法華経を説くのです。


衣裏繋珠の譬え(法華七喩あらまし)

衣裏繋珠の譬え

妙法蓮華経五百弟子受記品第八に出てくる譬え話しです。

物語

貧乏な『ある人』が『友人』の家に訪問し、ごちそうになり、酒に酔って眠ってしまいました。 ところが、その『友人』は、急に用事で旅立つことになりました。 寝ていた『ある人』を起こすのも気の毒と思い、また、貧乏から脱出できるようにと着物の裏の襟に『宝石』を縫い付けてから旅立ちました。

やがて、目を覚ました『ある人』は、『友人』がいなくなっているので、その家を立ち去り、相変わらず貧乏な生活を何年も続けていました。

ずいぶんたってから、『友人』は、『ある人』にバッタリ出会いました。 『友人』は、哀れな『ある人』を見て、「なんとバカなことだ、着物の裏の襟の宝石を売れば、素晴らしい生活ができるのだよ」といいました。

解説

貧乏な『ある人』は、我々凡夫です。『友人』とは、お釈迦様です。着物の裏の襟の『宝石』は、人の心の奥の仏性です。

要は、すべの人は、仏性(宝石)を持っているが、なかなか気づくことができず、苦の人生をさ迷うってしまう。救われるには、その仏性に気づき、仏と同じ命を生きていることに気づけばよいのだと・・・。


 

化城宝処の譬え(法華七喩あらまし)

化城宝処の譬え

妙法蓮華経化城諭品第七に出てくる譬え話しです。

物語

長くけわしい非常に困難な道を、宝物を探し求めて旅をしている一行がありました。一行の中には、もう疲れてしまったり、この道は恐ろしくて行く気にならなと言い出しました。そこで、リーダーは、ひとつの大きな城を幻としてあらわしたのです。

一行は、その城で休息して疲れをすっかり癒し、そして、それを見計ってリーダーは、その幻の城を消してしまい、さぁ、本当の宝物のある場所はもうすぐですよと一行をはげまし、そこへ導きつづけたのでした・・・。

解説

「長くけわしい非常に困難な道」とは、われわれ人生の旅路です。人生での出来事に疲れてしまったり、迷いが生じた時に、とりあえず、迷いを除いて、心に安心を得るようにみちびいてあげるのです(化城のこと)。つまり、「目の前に現れる現象は、仮の現われに過ぎないので、それにふりまわされるな」ということです。

そして、捜し求めている宝物とは、「創造」と「調和」のことで、何を「創造」するかというと、「調和」した平和な世界ということです。これこそが、捜し求めていたこの上のない宝物だったのです・・・。


2024年11月12日火曜日

鬼子母と十羅刹女

鬼子母(きしも)

子煩悩な鬼女でしたが、王舎城(おうしゃじょう)の町に来ては、人の子をとって食べてしまいます。釈尊は鬼子母の子をお隠しになり、 半狂乱になった鬼子母へ、『あなたに食べられた子の親の身になってごらん』と諭しました。すると鬼子母は、非をさとり、仏教に帰依して、安産と幼子の守り神になろうと誓願し、鬼子母神となりました。

藍婆(らんば)

世間をさまよいあるく鬼女。

び藍婆(びらんば)

藍婆より藍婆の完全藍婆?

曲歯(こくし)

まがった歯の羅刹女。

華歯(けし)

花の歯(?)をもった羅刹女。

黒歯(けし)

黒い歯をもった羅刹女。

多髪(たはつ)

髪の毛の多い羅刹女。

無厭足(むえんぞく)

厭き満足することのない羅刹女。

持瓔珞(じようらく)

首飾りをもった羅刹女。

こう諦(こうたい)

屋根にのぼって死人の霊魂を呼び戻す鬼女。

奪一切衆生精気(だついっさいしゅじょうしょうけ)

すべての生物の精気を吸い取ってしまう鬼女。

2024年11月11日月曜日

法華経登場の菩薩たち


弥勒菩薩

慈悲を象徴する菩薩です。お釈迦さまと同じ時代に実在したらしい・・・。

文殊菩薩

智慧を象徴する菩薩です。こちらは、架空の菩薩です。このような菩薩を『法身の菩薩』といいます。

普賢菩薩

行徳を象徴する菩薩です。こちらも、架空の菩薩です。六牙の白象王に乗って現れます。六牙とは、六波羅蜜を表し、白象王に乗ってとは、徹底した実践を表します。

上行(じょうぎょう)菩薩(四大菩薩)

従地涌出品で大地から涌出して法華経流布を申し出た菩薩。

無辺行(むへんぎょう)(四大菩薩)

従地涌出品で大地から涌出して法華経流布を申し出た菩薩。

浄行(じょうぎょう)菩薩(四大菩薩)

従地涌出品で大地から涌出して法華経流布を申し出た菩薩。

安立行(あんりゅうぎょう)菩薩(四大菩薩)

従地涌出品で大地から涌出して法華経流布を申し出た菩薩。

常不軽菩薩

常不軽菩薩品で登場する菩薩で、すべての人の仏性を礼拝する菩薩です。

妙音菩薩

理想の国からやって来た、なぜかウルトラマンのイメージがする菩薩です。

観世音菩薩

苦しい時に、お願いをなんでも叶えてくれる菩薩・・・、いえいえ、自分がそのような菩薩になれるようにとの見本の菩薩。

薬王菩薩

以下のように凄い菩薩です。
薬王菩薩の前世で「香油を飲み、また香油を身体に塗ってしみこませ、如来の前で宝衣に自ら火をつけて、こうして自身を灯明として法華経を供養しました。」



2024年11月10日日曜日

釈尊十大弟子

以下は、法華経を読誦していると、よく登場してくる釈尊のお弟子達で、十大弟子と呼ばれています。

  • 舎利弗しゃりほつ(智恵第一) 
  • 目連もくれん(神通第一)
  • 摩訶迦葉まかかしょう(頭陀ずだ第一)
  • 須菩提しゅぼだい(解空げくう第一)
  • 富楼那弥多羅尼子ふるなみたらにし(説法第一)
  • 摩訶迦旃延まかかせんねん(論義第一)
  • 阿那律あなりつ(天眼てんげん第一)
  • 優波離うぱり(持律じりつ第一)
  • 羅睺羅らごら(密行みつぎょう第一)
  • 阿難あなん(多聞たもん第一)

2024年11月9日土曜日

法華経の神髄

法華経をいろいろ勉強してまいりましたが、おぼろげながら、その神髄が見えてきました。

それは、ズバリ! 『因縁果報(縁起)』と『正しい生活』です。

要は、正しい生活をして(因)、良い(縁)が沢山出来、人生苦が消滅(果)して、幸せ(報)なる。

そして、正しいとは、真理(法)にそった、とういうことです。

人は、良因を積むことで、宇宙の調和と共振し、いつでもどこにでも、法身の釈迦を見ること、感じることが出来るようになる。

すべての人の魂は、永遠の命で、何度も何度も生まれ変わっては、良因を積むことにより、その縁起で仏になっていくことができる。

つまり、仏になっていくこと、言い換えれば法華経の実践こそが、宇宙の調和であり、世界平和実現の礎になる。とまぁ、法華経の神髄とは、こんなところですか、たぶん。

2024年11月8日金曜日

法華経ブログって、いいことが書いてある!

 2008年当時、確かに法華経研究が趣味だった気がするのですが、今読むと、結構いいことが書いてある(^^;

しかし、ブログ内のアンカーがことごくアクセス不可になっているので、なんとか直していきたいと思う今日この頃です。


2016年7月8日金曜日

真の菩薩行

『とある人』が、『とある先生』のお供で、インドに行きました。 『とある先生』は、大変忙しく、また、大変偉い方なので、 日本では、話すご縁などありませんでした。
しかし、今回のご縁で2時間、さしでお話しする機会を得たのです。 『ある人』は、大変有り難いご縁を得たので、緊張と感激のあまり喉が乾き、 傍にあった生水を誤って飲んでしまったのです。
そう、インドは、ご存知の通り、生水は不衛生です。 その晩、当然のごとく、「なんとか赤痢」に掛かって、死ぬような苦しみを味わいました。 すると、『ある先生』は、自分がこのようになった時のために用意した点滴をくれたのでした。 尚、点滴は3本用意してきましたが、すでに2本は、同じような症状の同行者に与え、最後の1本を くれたのでした。
点滴を打ったら、『とある人』は、今までの苦しみがうそのように回復しました。 すると、こんどは、『とある先生』の様子がおかしいことに気づきました。 そう、『とある先生』も、実は、「なんとか赤痢」にかかっていたのです。 しかも、『とある人』に点滴を与えた時に、すでに「なんとか赤痢」にかかっていたのを 『とある先生』は、ご自分で知っていたようなのです・・・。
真の菩薩行とは、自分がどんな状態でも、目の前の苦しんでいる人を助けずにはいられない、そして、助ける。そのような行いらしい・・・。
その後、『とある先生』は、恩に着せることなく、そして、『とある人』は身を持って、真の菩薩行を間近で見ることが出来たのです。

2016年7月6日水曜日

あぁ有り難い

障害を持って生まれてきたある一人の青年がいました。 青年は、学生時代に障害のことでイジメにあったり、機能回復の手術を何回も受けたりと、 困難な人生を歩んできました。
そんな青年の母は、お見舞えに来た人達などに、ことある毎に『有り難い有り難い』と言っていました。 しかし、青年は、何がそんなに『有り難い』のかいつも疑問に思っていました。
そんな中、母のご縁で、とあるボランティアに参加することになったのです。 はじめは、母の手前、我慢して、何でオレがと・・・参加していたのですが・・・。
しばらくして、ボランティア人達とも打解けて仲間になり、そして、その仲間のやさしさにふれた時に、 はじめて、心の底から『あぁ有り難い』と思える感動が湧き上がってきたのです・・・。
そして、それは、お母さんやご先祖さまから受け継いだ感謝の気持ちだったのかも知れません。

2016年7月2日土曜日

「正」しいとは?

昨日、法華経の勉強会がありました。その時、正しいの「正」は、一(真理)が止まると書きます』と説明がありました。そこで、すかさず、一は真理とイコールですかと質問をしてみました。
すると、『一般的には、「一」には真理という意味はありません、しかし、法華経観では、すべての人は一つの乗り物(一乗)に乗っているいう真理があり、そこから「一」イコール「真理」となる』と説明がありました。
つまり、正しいとは、真理が止まること、言い換えれば、真理がある状態らしい・・・。
正しいHTML、正しいかな使い、正しい論理、正しい・・・は、真理がやどる・・・。

2016年6月29日水曜日

『辛』と『幸』

今日は、午前中に某出版社の社長さんの講演会へ行きました。
講演では、記者出身の社長さんが、記者時代に取材現場の感動を如何に文章(記事)で表現することが難しいかというお話しをしていました。
確かに、感動を文章で表現するのは、超難しいです。
で、社長さんが言うには、結局、如何に自分がその感動で高まるかが、キーポイントになるそうです。
あと、特に心に残ったお話しで、仏法では、『一切皆苦』という教えがあります。つまり、生きることは、すべて苦しみという教えです。 そして、苦しみであるがゆえに、生きるのが『辛』いわけです。
また、その『辛』さの原因を見極め、結果的には善い行いをしていくと『辛』という字に真理(一)が宿り『幸』になるとの事でした。なるほど、うまい。

2016年6月23日木曜日

法華経的人生の目的

あなたの人生の目的はなんですか?

なんて、突然言われてもこまっちゃう・・・。とか、そんなこと考えたこともない・・・、と思った人がほとんどだと思います。そこで、そんな人のために、今日、法華経の講習会で教わった、法華経的人生の目的をご紹介致します。
法華経的人生の目的
人間の本質は、仏性であることを自覚し、自分と他人を分けて自己中心に考える「我」の心を取り除きながら、いのちの大本である「一つの大きな輝くいのち」と常に一体感を味わえる境地(成仏)にまで、絶えず向上の道を歩むこと。
まぁ、こんな感じです。『いのちの大本である「一つの大きな輝くいのち」』がつっこみどころかもしれませんが、とにかく、法華経的には、すべての人は「一つの大きな輝くいのち」に生かされていると説かれています。
わかりやすく言うと、魂的には、実は全人類皆兄弟姉妹で、だからこそ、仲良く助け合って生きて、皆さん全員幸せになりましょう ってことらしい。(まだ、修行中なのではっきり言えない・・・)
で、まとめですが、ちょっとテーマが大きすぎて、まとまりませんが、次回の機会にと・・・ということで、よろしくお願い致します。

2016年6月22日水曜日

バスの時刻表

あるバス停におじいさんとおばあさんがいました。
なにやら、おじいさんは時刻表をぶっ叩いて怒っています。
『もうとっくにバスが来ている時間なのに、なんで来ないんだぁ!こんな時刻表などいるもんか!捨てちまえ!』

すると、連れ合いのおばあさんが言いました。
『おじいさんや、その時刻表がないと、バスがどれだけ遅れたかわかりませんよ・・・』

現実の社会は、このバスと同じように、決して時刻表通りにはいきません。しかし、時刻表があるからこそ遅れているのがわかるのです。
そう、お釈迦さまの教えは、バスの時刻表のようなものです。
人生は、時間通りに来ないバスのようなものだからこそ、つねに時刻表(お釈迦さまの教え)と照らし合わせて、その差を埋めるべくことに価値があるのです。
そして、その価値こそ、『生きがい』と呼べるものだと思います・・・。

2016年6月20日月曜日

神通力

まぁ、現代では超能力のことですが、お釈迦さまの時代は神通力と呼ばれていました。で、お釈迦さまをはじめ十大弟子の人達は皆、神通力の能力を持っていたとされています。
これは、凡人は、どうしたら神通力を会得できるのかと考えてしまいますが、実は、神通力を会得するのが目的でなく、仏道の修行をしていれば自然に会得してしまうものだそうです。そして、ブッダ教団の幹部は、結果的にMr.マリックのような人の集まりになりました・・・。
しかし、この幹部連中を見ていて、オレも神通力が欲しいと願っていた者がいました。そう、お釈迦さまの従弟の提婆達多です。
この人、お釈迦さまと同じように優秀な人でしたが、あらゆる面で一歩お釈迦さまに及びません。で、しだいにお釈迦さまに悪意を持つようになり、いろいろとお釈迦さまの命を狙います。神通力も十大弟子の一人をそそのかし、会得してしまいます。もともと優秀な人ですので、次第に実力者になっていきますが、もろもろの悪行がたたり、最後には生きながら地獄へ落ちたと言われています。
なんか、まとまりませんが、とりあえず、提婆達多品第十二の予告でした。

私も、仏道(法華経)を修行していますので、そろそろ神通力が欲しいなぁ・・・って言ってみるテスト。
あっ、そう言えば、スプーン曲げは出来るんですよ! Mr.マリックの真似したら出来てしまったのです。凄い!
で、まとめですが、正しい行い(修行)をしていくと自然に神通力が会得できるらしい・・・、とにかく正 しい行いです!

2016年6月19日日曜日

悩んだ人ほど、真理はすぐ傍に・・・

『とある先生』のお供で『とある人』が海外へ行きました。
『とある人』は、そこで、日本語交じりの英語で何かいろいろ回りの外人さんに話し掛けている日本人を見かけました。どうやら海外で迷子なって凄く動転している模様です。迷子の人は、『ある人』が日本人あるとすぐわかったので、地獄で仏のごとく、助けを求めてきました。
で、手がかりは、Sの付く看板があるホテルに泊まっているとのことで、さっそく、Sの付く看板があるホテルを探しましたが、これだけの手がかりでは、まったく、分かりません。そこで、地図でSの付くホテル探しをしていたらシルトンホテルがあり、それを発音すると『おー、その名前のホテルだ!』と迷子の人は言いました。
そして、なんとそのシルトンホテルは、今立って居る斜め後ろのビルではありませんか!
悩みに悩んで、探しに探していたら、いつの間にか探していたホテルのすぐ前に居たのです。しかし、居ても気づかずに・・・。

このことを『とある人』は、『とある先生』に報告すると、『とある先生』は、以下のようにおっしゃいました。
『人助けが出来てよかったですね。悩みに悩んだ人ほど・・・真理のすぐ傍にいるものです・・・。』