2016年6月4日土曜日

あらやしき(阿頼耶識)を清める

最近、仕事のプレッシャーなのか精神的に不安定で、夢の中でも結構叫んでいるらしい・・・。
となりで寝ているママが驚いて、私を起こしてくれるのです・・・顔面ピンタとかで(^^;。

こういう時は、法華経読誦(ご供養)が効きますね。特に陀羅尼(26番、28番)がいいようです。
ここのところ、毎日の法華経読誦が復活しました。確かに精神が安定してきました。
法華経読誦が、なぜ精神安定に効くかというと・・・私が思うには以下の感じです。

潜在意識や無意識のことを仏教では、あらやしき(阿頼耶識)といいます。
この阿頼耶識に仕事のプレッシャーなどがインプットされるみたいです。

しかし、阿頼耶識は、意識的には制御できない無意識の領域なのです。
また、法華経には良い事が沢山書かれています。

つまり、良い事が沢山書かれている法華経を、毎日毎日繰り返し読むことによって、潜在意識に刻み込まれ、プレッシャーの意識などを追放して、阿頼耶識を清めることができるみたいです。

当分、阿頼耶識を清めて参ります。
ついでにママの阿頼耶識も清めてあげるって言ったら、あなただけには言われたくないと、強い拒絶を受けました(^^;

2016年6月1日水曜日

釈提桓因(しゃくだいかんいん)とは

法華経序品第ーに以下のくだりがでてきます。
爾の時に釈提桓因、其の眷属二万の天子と倶なり。
釈提桓因とは、帝釈天の別名で、娑婆世界のうえにある天上界の主とされていました。
その帝釈天の眷属には、以下の天子がいました。
  • 名月天子(月の神)
  • 普香天子(星の神)
  • 宝光天子(日の神)
  • 持国天(四大天王の一人:東方を護る)
  • 多聞天(四大天王の一人:北方を護る。別名:毘沙門天ともいう)
  • 増長天(四大天王の一人:南方を護る)
  • 広目天(四大天王の一人:西方を護る)
実は、これらの神々は、仏教ではなくバラモン教(古代インドの宗教)の神なのです。
釈迦は、これらの神々を排除することなく、仏法護持の神々としたのです。

2016年5月23日月曜日

終日竟夜(ひねもすよもすがら)とは?

法華経譬喩品第三に以下のくだりが出てきます。
世尊、我昔よりこのかた、終日竟夜毎に自らを剋責しき。
終日竟夜は、「ひねもすよもすがら」と読み、「昼も夜も常に」という意味だそうです。

2016年5月21日土曜日

「みょう牛(ご)の尾を愛するが如し」とは?

法華経譬喩品第二に以下のくだりが出てきます。
みょう牛(ご)の尾を愛するが如し
みょう牛(ご)というのは、ヤクのことで、毛の長い(特に尾が)種類の牛です。
この牛は、この尾を大変大切にしていますが、それが元で殺されたそうです。(人間はその尾をとるために殺す)

ということで、上記は、自分にとってはたいした役に立たぬものに心をとらわれ、かえってそのもののために不幸を招くことの譬えで用いられました。

2016年5月18日水曜日

高原穿鑿の譬え

法華経法師品第十に「高原穿鑿(せんしゃく)の譬え」というくだりがあります。
薬王。譬如有人。渇乏須水。於彼高原。穿鑿求之。猶見乾土。知水尚遠。施功不已。
転見湿土。遂漸至泥。其心決定。知水必近。菩薩亦復如是。
水のない高原に井戸を掘るのは、現実の苦しみから逃れようという救いをもとめる努力の譬えです。
掘り初めのうちは、絶望感を感じますが、しだいに水気をたっぷり含んだ土にぶつかるのです。
この土こそ、真実の教え「法華経」なのです。
その「法華経」を得て、さらに掘りつづけていくことが、「菩薩行」にほかなりません。

2016年5月17日火曜日

願生(がんしょう)

法師品第十で以下のくだりがあります。
衆生を哀愍し願って此の間に生れ、広く妙法華経を演べ分別するなり。
衆生を救おうという願いと慈悲心によって生まれ変わってくること。これを願生(がんしょう)という。

人間とは、もともと人の意味でなく、人と人の間のことで世間という意味です。
そして、「此の間に生れ」とは、「世間に生まれる」ということであり、「人間に生ずる」ということです。
菩薩行とは、衆生を救おうと広く妙法華経を演べ分別すること。

ということで、人は、自覚はないのだけれど、菩薩行をするために願って生まれてくるらしい。

2016年5月7日土曜日

唯我れ一人のみ。能く救護を為す。

法華経譬喩品に以下の一節(偈)があります。
今此の三界は。皆是れ我が有なり。其の中の衆生は。悉く吾が子なり。而も今此の処は。諸の患難多し。唯我れ一人のみ。能く救護を為す。
意訳:
この三界はみんなわたしのものだからです。
その中にいる衆生はすべてわたしの子だからです。
しかも、この三界にはもろもろの苦しみ悩みが満ち満ちているのです。
どうして、わたしがこの苦の世界に飛び込んでいって、わが子を救わずにいられましょう。
しかも、みんなを救うことのできるのは、たった一人、わたししかいないのですよ。

解説:
「みんなを救うことのできるのは、たった一人、わたししかいないのですよ。」のフレーズは、
普通の人が言えば、超傲慢ですが、釈尊が言ったということは、宇宙の真理ということです。
つまり、みんなを救えるのは、唯一、宇宙の真理だけであると・・・。

逆に云うと、宇宙の真理に沿って生きていけば、みんな救われるということです。
では、宇宙の真理とはなにか?

私が思うには、「正しい行いをしていくと幸せになる」です。
もうちょっと詳しく言うと
「正しい行いを続けていくと、善い縁が沢山できて、善い結果が生じ、世界が大調和し、みんなが幸せになる」
だから、毎日読誦する『唯我れ一人のみ。能く救護を為す。』の偈は、心に勇気を与えてくるのかなと思う次第です。

ちなみに、三界とは、凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を3つに分けたものです。
つまり、「この世」は、「三界」に含まれるのかな。

2016年5月5日木曜日

三帰依文とは

三帰依文とは、仏教徒なら毎日お経を上げる前に必ず唱える例の決まり文句です。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
深く経蔵に入って、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
大衆を統理して、一切無げならん。
実は、「まさに」からのくだりは、日本の江戸時代末期の仏教学者が、『法句経(ほっくきょう)』『華厳経(けごんきょう)』『法華経(ほけきょう)』の経文の一部を組み合わてまとめたものだそうです。

オリジナルは
自ら仏に帰依したてまつる。
自ら法に帰依したてまつる。
自ら僧に帰依したてまつる。
で、これを3回唱えるらしい。
この三帰依は、仏教初期(約2500年前)の時に教団へ入る不動の心構えとされていました。

とりあえず、前に書いた三帰依の記事2つ。

実は、毎日唱えているのだけれど、いいかげんに覚えていて、経本を見てないと正確に言えないのです。
だから、ネットに公開して覚えようとしています(自分)。

2016年5月3日火曜日

一大事の因縁とは

法華経方便品に以下の一節が出てきます。
諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なるを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。
衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。
舎利弗、是れを諸仏は唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうとなづく。
要約すると、仏さま(諸仏)は、我々(衆生)の良心(仏性・仏知見)を「開き」「示し」「悟らせ」「正しい道に入らしめる」ため、この世に出現したとのことです。

逆にいうと、我々は、仏道とご縁になることにより、良心(仏性)に目覚め、正しい行いをしていくことが、結果的に幸せになれることであり、それが生きがいなのだと・・・。

2016年4月28日木曜日

三世・三界・三世間・三世界

まぎらわしいので、整理しときます。

  • 三世とは、「過去世」「現世」「来世」

  • 三界とは、「欲界」「色界」「無色界」

  • 三世間とは、「五蘊」「仮名」「国土」

ちなみに、三世界とは、仏教用語ではないみたいです。

2016年4月22日金曜日

仏の三十二相

以下は、いわゆる、仏の三十二相です。
無量義経の徳行品に出てきます。

釈尊の完全な人格への賛嘆を示しているとされています。
仏像は、まさにそのような形になっていますね。

  1. 額にある月のような渦毛
  2. 項(うなじ)に日の光あり
  3. 渦巻く頭髪は紺青色
  4. 頭上は高く盛り上がっている
  5. 澄み切った鏡のような清らかな眼
  6. その眼は上下にまじろぎ
  7. 紺色の眉はのびのびとし
  8. 口や頬は正しく整い
  9. 唇は赤い花のよう
  10. 舌もおなじく
  11. 歯は、雪のように白く
  12. 40本きちんとそろって
  13. 額は広く
  14. 鼻長く
  15. 顔全体がひろびろとして晴れやかで
  16. 胸には卍が表れ
  17. 上部は獅子の胸のように張って
  18. 手も足も柔らかで
  19. そして車の輪ような紋ある
  20. 脇の下と掌に細い線が揃っていて
  21. それが内外ともにまとまっている
  22. 上腕はながく
  23. 下腕もながく
  24. 指はまっすぐで細く
  25. 皮膚はキメ細やかで柔らかく
  26. 毛はすべて右のほうに渦巻いている
  27. 踝はよく現れて形がいい
  28. 膝も同様
  29. 陰部は隠れていて見えず
  30. 筋は細く
  31. 骨はがっしりしていて
  32. 脚は鹿のようにすらりとしている

補足:
額にある月のような渦毛のことを白毫相(びゃくごうそう)といい、非常に徳の優れたしるし。
項(うなじ)に日の光ありは、後光ともいい、非常に徳の優れたしるし(もしかしてオーラ?)。
卍(万字)は、仏教のしるし。四方が円満に揃っている意味。

2016年4月13日水曜日

サッダルマ・プンダリーカ・スートラ

法華経こと『妙法蓮華経』は、サンスクリット(梵語)でサッダルマ・プンダリーカ・スートラといいます。

  • サッダルマとは、サット(正しい)とダルマ(法)が合わさったもので、そのまま正法を訳した人ともいますが、鳩摩羅什は『妙法』と訳しました。
  • プンダリーカとは、白い蓮の華で、そのまま『蓮華』と訳されました。
  • スートラとは、通し糸で、漢字での縦糸を表す『経』と訳されました。

妙法蓮華経の『従地涌出品 第十五』に以下の偈があります。
『善く菩薩の道を学して、世間の法に染まざること蓮華の水の在るが如し』
つまり、法華経は、正しい法を学して、それに沿っていれば、泥水にも染まらず、いつも清らかな白い蓮華のようにいられる…という意味になると思います。

2016年4月12日火曜日

阿鼻地獄(あびじごく)と阿迦尼タ天(あかにたてん)

法華経の序品に、無量義を説いた後、三昧に入っていたお釈迦さまが、『眉間の白毫相(びゃくごうそう)より光を放ち、その光が、下は阿鼻地獄(あびじごく)、上は阿迦尼タ天(あかにたてん)に至る』というクダリがあります。

  • 阿鼻地獄は無間地獄ともいい、人間のあり方における最低の状態(地獄界)です。
  • 阿迦尼タ天は有頂天ともいい、人間のあり方における最高の状態(天上界)です。

つまり、光は『仏の智慧』の象徴で、それが、どのような状態の人間にでも行き届きました。
そして、このことがどいうことか、疑問に思った弥勒菩薩が文殊菩薩に教えを請いました。
そう、法華経のはじまりです。つづく…。

2016年4月10日日曜日

慈悲と智慧

まずは、おさらいです。
  • 慈悲の慈とは、慈しみ与え幸福にしてあげること。
  • 慈悲の悲とは、悲しみを取り除いてあげること。
  • 智慧の智とは、すべての物事の違いを見分ける力。
  • 智慧の慧とは、すべての物事の共通を見いだす力。
そして、弥勒菩薩は慈悲の象徴の菩薩で、文殊菩薩は智慧の象徴の菩薩です。
『疑問に思った弥勒菩薩が文殊菩薩に教え請いました。』
ということは、『慈悲』が『智慧』に呼びかけたということになります。
『慈悲』の呼びかけに応じて『智慧』が発動するのです。

菩薩行とは、相手を救ってあげたいという、やむにやまれぬ慈悲の心です。
ところが、慈悲だけではダメで、そこには智慧がともなわないといけません。
慈悲と智慧がそろってはじめて、正しい導きができるのです。

2016年4月9日土曜日

三昧とは

普通、三昧とは、遊び三昧とか温泉三昧とかで、楽しいことをずーっとやっている意味で使われます。
また、無念無想になる行のように思う人もいるかも知れません。

しかし、仏教でいう三昧とは、そのようなものではなく、一切の雑念を断ち切り、<善き思い>と<正しい教え>に<全精神を集中>し、
その一念が長い間切れ目なくつづいている状態を言うのです。
瞑想とか思索と違うところは、『<善き思い>と<正しい教え>に<全精神を集中>』というところです。

<善き思い>とは、徳のことです。
<正しい教え>とは、法のことです。

そして、<全精神を集中>とは、表面の心だけでなく、潜在意識までも、徳と法をしみこませることなです。
徳と法が沢山しみ込んだ人格こそ、仏教徒の目指すところなのです。

とにかく、三昧とは、一切の雑念を断ち切り『<善き思い>と<正しい教え>に<全精神を集中>』することなのです!

2016年4月7日木曜日

法華経の教え

法華経の教えとは
悟ればこの身がすなわち仏であり、みんなが悟ればすなわちこの世が寂光土であるという教えです。
仏はわれわれの心のなかにある、極楽はわれわれの日常生活のなかにあるという教えなのです。
『新釈 法華三部経十巻』(著:庭野日敬) より


ごく身近な心の中と日常生活の中にあるとは、まさにその通り、素晴らしい気づきだ!

2016年4月6日水曜日

仏の十号

法華経には、釈尊を始めとして沢山の仏さまが登場します。
過去の日月燈明仏等や弟子達の未来仏、そして他の惑星の仏さま達……。

登場するたびに、仏の十号という尊称で紹介されます
  1. 如来(にょらい)- 真如(ほぼ真理と同じ)から来た人
  2. 応供(おうぐ)- 供養を受けるに相応しい人
  3. 正偏知(しょうへんち)- 正しい智慧を具えた人
  4. 明行足(みょうぎょうそく)- 智慧(明)と実践(行)が満ち足りている人
  5. 善逝(ぜんぜい)- 迷いを完全にのぞきさってしまった人
  6. 世間解(せけんげ)- 世間をはっきり見分けることができる人
  7. 無上士(むじょうじ)- この上もないりっぱな人
  8. 調御丈夫(じょうごじょうぶ)- どんな人でも教えに導くことが出来る人
  9. 天人師(てんにんし)- 天上界と人間界の大導師の人
  10. 仏世尊(ぶつせそん)- 悟ったことにより世の中で尊重される人
ということで、仏の十号でした。

2016年4月5日火曜日

四顛倒(してんどう)

顛倒とは、物事を逆さまに見ること、すなわち真相を見誤ることです。
普通の人(凡夫)には4つの顛倒があると、仏教では云われています。
  • 常顛倒 - 本来は無常(変化)であるのに、常(変化しない)と考える。
  • 楽顛倒 - もともとは苦であるものを、一時的な現象だけで楽と考える。
  • 淨顛倒 - 不浄なるものを、表面だけを見て淨と考える。
  • 我顛倒 - 世の中は助け合って成り立っているものを、自分の力だけだと考える。

人は追い込まれると、まさに四顛倒になりますね。
余裕をもって四顛倒にならないようにいきましょう。

2016年4月3日日曜日

『劫』という時間の長さ

お経には、『劫(こう)』という時間の単位がよく登場します。
では、『劫』という時間の長さはどれぐらいでしょうか?
お釈迦さまは以下の様に、おっしゃたそうです。

『たとえば、広さ40里もある石の山があって、その頂きを100年に一度ずつ柔らかい衣の袖で撫でることによって、
石の山がすこしずつ磨れてゆき、すっかり磨れてしまうまでの年数よりも、劫というのはもっと長い時間である』

いや~どんだけ、長いんや~。
ちなみに、1里は約3.9キロメートルです。

2016年4月1日金曜日

さとりの境地

さとりの境地をまとめてみました。
  1. 1.なん法 - 仏法にふれて暖かく傍にいたいと思う境地。
  2. 2.頂法 - 仏法の尊さはやや認識できたけど、あやふやな境地。
  3. 3.忍法 - 仏法の尊さがはっきり認識できた境地。
  4. 4.世第一法 - 仏法が世の教えの中で第一であると確固たる境地。
  5. 5.須陀おん果 - 仏道の流れに乗った信仰状態の境地。
  6. 6.斯陀ごん果 - まだ迷いのある凡夫へ戻る可能性のある信仰状態の境地。
  7. 7.阿那ごん果 - もう凡夫へ戻る可能性のない信仰状態の境地。
  8. 8.阿羅かん果 - まよいのない境地、声聞の最高の境地。
  9. 9.辟支仏 - 縁覚ともいい、生活体験によって仏の道を会得している状態の境地。
  10. 10.第一地:歓喜地 - 二空の理を会得して大歓喜している境地。
  11. 11.第二地:離垢地 - 煩悩(垢)からすっかり離れた境地。
  12. 12.第三地:発光地 - 人格から光を発する境地。
  13. 13.第四地:焔慧地 - 焔(ほのう)のような智慧をもった境地。
  14. 14.第五地:極難勝地 - 言う事、なす事がすべて仏道と一致してくる境地。
  15. 15.第六地:現前地 - すべての人が平等であると現実に目の前に見えてくる境地。
  16. 16.第七地:遠行地 - 声聞・縁覚のさとりから遠く離れて、仏に近くなった境地。
  17. 17.第八地:不動地 - 仏の境界に達する資格が不動になった境地。
  18. 18.第九地:善慧地 - どんな人でもかならず救えることが出来るようになった境地。
  19. 19.第十地:法雲地 - 大雲が空を覆うように仏法でありとあらゆる人を救う境地。
1から4は、仏教入門の人の境地
5から8は、いわゆる声聞といわれる人の境地
9は、いわゆる縁覚といわれる人の境地
10から19は菩薩といわれる人の境地
う~ん、私は、4~5の中間ぐらいかな、まだまだ、先は長い……。