とある小誌より
口で「同心」を唱えるだけでは、一つの心になれるものではありません。
共通の願いを持って、苦楽を共にしてこそ同心が育っていくのです。
共通の願いを持って、苦楽を共にする・・・まさに夫婦ですね!
結婚して40年、しかし、よく我慢している・・・もちろん奥さんの方が(^^;;;
私の方は、優しい優しい奥さんで、幸せや〜
また今年、可愛い可愛いお孫ちゃんもできて、幸せや〜
とある小誌より
口で「同心」を唱えるだけでは、一つの心になれるものではありません。
共通の願いを持って、苦楽を共にしてこそ同心が育っていくのです。
共通の願いを持って、苦楽を共にする・・・まさに夫婦ですね!
結婚して40年、しかし、よく我慢している・・・もちろん奥さんの方が(^^;;;
私の方は、優しい優しい奥さんで、幸せや〜
また今年、可愛い可愛いお孫ちゃんもできて、幸せや〜
菩薩行の根本は、人間を礼拝することである。人間を礼拝するとは、あらゆる人間の中にある仏性を認めることである。
仏性を認めないでその人を救おうというのは、形式だけの空虚な行いに過ぎない。
その人の中に必ず実在する仏性を拝み出すところに、真の済度はあるのだ。
菩薩にとっていちばんたいせつなのは、いうまでもなく愛他・利他の精神であり、その精神から発した実践行動であります。
その実践行動を<布施>というのです。
逆にいうと、愛他・利他の精神から発した実践行動が布施であり、それが菩薩行と言われるのか(^o^)
・・・「人間は、いくらでも幸せになってもいい。幸せになったら、その功徳をみんなにお分けすればいいんです。そうすれば、もっと幸せが増えるから」・・・
それは毎日の生活のなかで、小さな幸せ、小さな喜びを発見し、その喜んでいる心をそのまま口に出してみることから始まります。
どんな小さな喜びでも、それを言葉に表し、人に伝えてみることで、驚くほどまわりをあたたかく、幸せに変えていきます。
すると自分自身が、仏さまの説かれる法をより深く実感できるようになるのです。
確かに、そんな感じがします。
小さな喜び、伝えて行きます(^o^)
「願って」生まれてきた心境になれたとき、人生の苦しみ、悲しみが、解決すべき問題から、仏さまの慈悲の導きに変わったのです。
あなたは、ソウルメイトを信じますか?
赤ちゃんは、お空から、親を選んで生まれてくるといいます。
私もお空から、親を選んで、願って、生まれてきたのかも・・・
そう思うと、人生の苦しみや悲しみを、実は自分が望んでいた(^^;
『開祖さまに倣いて』より引用です。
仏さまは、お慈悲によって私たちに難題をもたらしてくださいます。
それは、法の認識を深めさせるためのお慈悲であり、幸せな心境に導くためなのです。
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私が真理に沿っていけば、救いという果報は仏さまが出してくださるのです。
それが、根こそぎ救われる法華経の真理の世界です。
そこに「信仰」があるのです。
なんだよ、難題は、仏さまのお慈悲だったのか・・・。
だったら、お慈悲なんかいらないよって凡夫の私は思うけど・・・。
でも、真理に沿っていけば、よさそうだなぁ、よしよし。
『開祖さまに倣いて』より引用です。
そのとき、その場、その人にふさわしいく真実へ導いてくれる縁、それが「方便」です。
人生に起こることすべてが方便であるとすれば、それをすべて生かそうと努力することが、仏さまの願いの通りに生きることであり、真理へつながる道なのです。
本当に仏さまの願いを理解したとき、目の前にあった問題を超えていくことができるのです。
上記を何回も何回も読むと、わかる気がしてきた・・・(^^;;;
『開祖さまに倣いて』より引用です。
すべての出来事は、自分本来の仏性を輝かせるために必要で、まわりは自分が仏になるための、有り難い「縁」ばかりなのです。
それがなければ、自分の仏性を輝かせることができない、大切なのは「はからい」なのです。
すべてを仏さまの慈悲だと信じることです。
仏さまのお慈悲を信じることによってこそ、仏さまの本願を受けとめることができるようになるのです。
ちなみに、「仏さまの本願」とは法華経如来寿量品で以下のように述べられています。
毎に自ら是の念を作す 何を以ってか衆生をして 無上道に入り 速やかに仏身を成就することを得せしめんと
つまり、どうしたら早く仏と同じ心境にさせることができるのか・・・。
その願いをかなえることが、「仏さまの本願」なのです。
ということで、すべての出来事は、自分を成長させる(仏と同じ心境になる)大切なおはからいと受け止めて頑張れば、いいみたいですね!
『開祖さまに倣いて』より引用です。
私たちは人さまの悩みを聞かせて頂くときに、ややもすると、その人の心の内を聞く前に悩みの原因が見えてしまうことがあります。
するとすぐにでも悩みを解決してあげたくて、「こうしたら」「ああしたら」と、それまでの経験をもとに、その原因を取り除くためのアドバイスをしてしまいます。
それは相手を思う気持ちであり、また、常識的には正しいことかもしれません。
けれども、いくら正しいこと、変えるべくことであっても、それを先に持ち出してしまうと、相手の心を開くことはできません。
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いま目の前にいる人の心を開くには、相手の思いをそのまま共感していくことです。
自分の思いを本当に受け入れてもらったと思えたとき、人の心は開くものです。
すると、今度はどんな言葉も受け入れてくれるようになるのです。
『相手の思いをそのまま共感していくこと』わかりました。
その智慧で見ると、嬉しいことや辛いことの中にも仏さまの慈悲のはたらきをみつけることができ、それを乗り越える実践で、幸せになれると説かれているのが、法華経かな(^o^)
ちなみに、実相をネット検索すると
幸せというのはどこかにあるものを追い求めて得られるのでなく、いま自分がいるその場所で見つけ出すもの、気づくものです。
問題を否定したり、直そうとするのではなく、そのままを喜ぶこと、それが「本質的な救われ」です。
何も変わったことがないのが功徳である場合が多いのです。その功徳を感じとるのが、真の信仰者というものです
幸せとは、その場で見つけ出すもの、何も変わったことがないのが功徳と感じ取る・・・確かに(^o^)
『法華経というのは、因縁を光りが発するように悟ること』・・・。
『法華経の見方とは、いまある「縁」によってこそ、生かされて生きることを感じ取っていくこと』・・・。
仏教の教えというものは、詮じ詰めれば、天地すべてのものに支えられているという実相、目に見えないものにも生かされているという実相を、われわれにわからせるためのものなのです。
開祖さまに倣いて
余計にわからん(^^;;
約2500年前の12月8日、明けの明星を見ながら、お釈迦さまは、お悟りを開きました。
そのお悟りは、人間はもとより、あらゆる動物も植物もみんな仏と同じように尊い、光り輝く存在に見えてきたのです。
本来、光っているものを、光っていると見ることのできる眼を持つこと、それが仏になること。
とにかく、自分も相手もみんな仏性をもっていて、それに気がつくこと……そこから幸せが始まる。
その仏性とは、すべての人を幸せにしたいと願う性質なのだと思います。
本質においては金色に光り輝くような美しい世界なのに、心のレンズにいっぱい汚れがついているために、それを通して見る世界が汚れてみえるだけのことです。
開祖さまに倣いて
ですから、心の汚れをすっかり拭いさってしまえば、この世はこのままで寂光土にかわるのであって、法華経の教えの神髄はこのところにあるといってもいいでしょう。
だから、心の汚れを落としましょう(^o^)
仏教の戒律は、これを破れば、神さまや仏さまの罰(ばち)が当たるとか、社会的制裁が加えられるとかでなく・・・
自分自身が損なわれること、自分自身の向上が妨げられること、だからこのように生活をしたほうがいいですよ。
という、『慈悲のすすめ』なのです。
仏教は、何も強制をしないのです。何も束縛をしないのです。正しい道が指し示されているだけなのです。
よくなろうと思う人は、その道に従って精進すれば、まちがえなくよくなるのです。
ちなみに、『慈悲のすすめ』の慈とは、人を幸せにしてあげたいという心で、悲とは、人の苦しみを取り除いてあげたいという心です。
普通の人が、お経を聞く機会は、おそらくお葬式ぐらいでしょうか・・・
浄土真宗、天台宗、真言宗などのお経は、まさにお葬式にマッチした長唄みたいなお経ですね。確かに、亡くなった人を浄土に送るのにふさわしい感じのお経です。
しかし、本来、お経はそのようなもでなく、生きているうちに実践するべきものなのです。
お経は、お釈迦さまが2500前にすべての人を幸せにするために説かれた実践教訓なのです。
そんな実践教訓の代表が法華経で、法華経を読んだり、書いたり、理解したり、そして、内容を実践する。これで幸せになれるのですね。たぶん。
お経には『無礙(むげ)』という言葉がよく登場します。
『無礙』とは、妨げるものがない、すなわち自由自在という意味です。
ということで、
『まさに願わくは衆生と共に、大衆を統理(とうり)して一切無礙ならん』チン!
ちなみに、「ならん」は、現代では「ならない」のことですが、古文では「なるらん」から変化したもので「なるだろう」 という逆の意味合いになるとのことです。
だから、「一切無礙ならん」は「一切自由自在になるだろう」ですか・・・
菩薩行は、法華経に六波羅蜜の実践と書いてあります。
しかし、漢字2文字で言われてもなぁ・・・、なかなか実践できないよなぁ・・・
そんなあなたに、わかりやすい六波羅蜜があります!
法華経の前経である無量義経十功徳品に逆説に解説してあるのです!
ガツガツ、ツンツン、カッカ、ズルズル、フラフラ、ブツブツ・・・わかりやすい(^o^)
某雑誌に以下の『幸せになれる3つの入り口』が載っていました。
1は、過去の悪かったことも、良かったことも、すべて受け入れると気持ちがすごく安らかになり、幸せへの一つ目の入り口になります。
2は、現在の自分を取り巻いている状況をすべて受け入れ、それに感謝するということです。これも、幸せへの二つ目の入り口になります。
3は、1と2を踏まえて、人さまから感謝される存在になる…これこそが、人間にとって最高の、この上ない幸せであるといえます。
ということで、これからは、どんな状況におかれても、過去も現在もすべて受け入れ、人さまから感謝されるように精進していきたいと思います!
「優しい言葉をかける」といっても、単に口先だけの言葉では相手を動かすことはできません。
心から相手を思い、幸せにしてあげたいという気持ちからほとばしり出た言葉であるとき、その言葉が相手の琴線にふれ、その人生を一変させるほどの力をもつのです。
『ほとばしり出た言葉』、ですね……。
それは、仏教三大行事の一つ、『成道会』が、今日、12月8日です。
そう、お釈迦さまが、おさとりを開いた日です!
そう、これこそが、どんな困難も克服することのできる智慧と慈悲の仏教誕生の瞬間でありました。
悟りに至るまでは、修行といっても苦行では悟りはえられぬことに気づいたお釈迦さまは、ある日ブッダガヤという町のはずれの菩提樹の下で、静かに坐禅を組み、ついに12月8日の未明、空に美しく輝く明けの明星をご覧になり、お釈迦さま、こうおっしゃられました。
「奇なるかな奇なるかな、一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す、ただ妄想執着あるがゆえに証得せず」
そう、ついに真理をお悟りなったのです。そして仏教が誕生した日でもありました。
「不思議なことに、不思議なことに、一切の生きとし生けるものはすべて、佛の智慧と徳相を具えているではないか、ただ、煩悩に覆われていてなかなか気がつかない・・・。」
つまり、すべての人は、煩悩を取り除くと仏になれる・・・、本来はすべて仏なので、みな平等・・・。
ちなみに、お釈迦さまが生まれた日を「降誕会 4月8日」と言い、回りの不幸をいろいろ見て、すべての人を幸せにしたいと願われ、29才で出家し、35才で真理を悟り(成道会)、72才ぐらいからすべての人を幸せにする極意(法華経)を説きはじめ、80才でご逝去(涅槃会 2月15日)されました。
お釈迦さまは、自分を何度も殺そうとした提婆達多(だいばだった)を憎まず、逆によき友(善智識)とおしゃっていました。
これは、自分にとって、いやな人、いやなことが、実は自分を成長させていただけるチャンスなのだという教えなのです。
このように人生は、いいことも、いくないことも、すべて自分を生かすことだと自覚ができれば、すでにもう幸せなのです。