『法華経というのは、因縁を光りが発するように悟ること』・・・。
『法華経の見方とは、いまある「縁」によってこそ、生かされて生きることを感じ取っていくこと』・・・。
仏教の教えというものは、詮じ詰めれば、天地すべてのものに支えられているという実相、目に見えないものにも生かされているという実相を、われわれにわからせるためのものなのです。
開祖さまに倣いて
- 実際の有様。実際の事情。
- 仏教すべてのものの、生滅変化する仮のすがたの奥にある真実のすがた。
余計にわからん(^^;;
『法華経というのは、因縁を光りが発するように悟ること』・・・。
『法華経の見方とは、いまある「縁」によってこそ、生かされて生きることを感じ取っていくこと』・・・。
仏教の教えというものは、詮じ詰めれば、天地すべてのものに支えられているという実相、目に見えないものにも生かされているという実相を、われわれにわからせるためのものなのです。
開祖さまに倣いて
余計にわからん(^^;;
約2500年前の12月8日、明けの明星を見ながら、お釈迦さまは、お悟りを開きました。
そのお悟りは、人間はもとより、あらゆる動物も植物もみんな仏と同じように尊い、光り輝く存在に見えてきたのです。
本来、光っているものを、光っていると見ることのできる眼を持つこと、それが仏になること。
とにかく、自分も相手もみんな仏性をもっていて、それに気がつくこと……そこから幸せが始まる。
その仏性とは、すべての人を幸せにしたいと願う性質なのだと思います。
本質においては金色に光り輝くような美しい世界なのに、心のレンズにいっぱい汚れがついているために、それを通して見る世界が汚れてみえるだけのことです。
開祖さまに倣いて
ですから、心の汚れをすっかり拭いさってしまえば、この世はこのままで寂光土にかわるのであって、法華経の教えの神髄はこのところにあるといってもいいでしょう。
だから、心の汚れを落としましょう(^o^)
仏教の戒律は、これを破れば、神さまや仏さまの罰(ばち)が当たるとか、社会的制裁が加えられるとかでなく・・・
自分自身が損なわれること、自分自身の向上が妨げられること、だからこのように生活をしたほうがいいですよ。
という、『慈悲のすすめ』なのです。
仏教は、何も強制をしないのです。何も束縛をしないのです。正しい道が指し示されているだけなのです。
よくなろうと思う人は、その道に従って精進すれば、まちがえなくよくなるのです。
ちなみに、『慈悲のすすめ』の慈とは、人を幸せにしてあげたいという心で、悲とは、人の苦しみを取り除いてあげたいという心です。
普通の人が、お経を聞く機会は、おそらくお葬式ぐらいでしょうか・・・
浄土真宗、天台宗、真言宗などのお経は、まさにお葬式にマッチした長唄みたいなお経ですね。確かに、亡くなった人を浄土に送るのにふさわしい感じのお経です。
しかし、本来、お経はそのようなもでなく、生きているうちに実践するべきものなのです。
お経は、お釈迦さまが2500前にすべての人を幸せにするために説かれた実践教訓なのです。
そんな実践教訓の代表が法華経で、法華経を読んだり、書いたり、理解したり、そして、内容を実践する。これで幸せになれるのですね。たぶん。
お経には『無礙(むげ)』という言葉がよく登場します。
『無礙』とは、妨げるものがない、すなわち自由自在という意味です。
ということで、
『まさに願わくは衆生と共に、大衆を統理(とうり)して一切無礙ならん』チン!
ちなみに、「ならん」は、現代では「ならない」ことですが、古文では「なるらん」から変化したもので「なるだろう」 という逆の意味合いになるとのことです。
だから、「一切無礙ならん」は「一切自由自在になるだろう」ですか・・・
しかし、漢字2文字で言われてもなぁ・・・、なかなか実践できないよなぁ・・・
そんなあなたに、わかりやすい六波羅蜜があります!
法華経の前経である無量義経十功徳品に逆説に解説してあるのです!
ガツガツ、ツンツン、カッカ、ズルズル、フラフラ、ブツブツ・・・わかりやすい(^o^)
某雑誌に以下の『幸せになれる3つの入り口』が載っていました。
1は、過去の悪かったことも、良かったことも、すべて受け入れると気持ちがすごく安らかになり、幸せへの一つ目の入り口になります。
2は、現在の自分を取り巻いている状況をすべて受け入れ、それに感謝するということです。これも、幸せへの二つ目の入り口になります。
3は、1と2を踏まえて、人さまから感謝される存在になる…これこそが、人間にとって最高の、この上ない幸せであるといえます。
ということで、これからは、どんな状況におかれても、過去も現在もすべて受け入れ、人さまから感謝されるように精進していきたいと思います!
「優しい言葉をかける」といっても、単に口先だけの言葉では相手を動かすことはできません。
心から相手を思い、幸せにしてあげたいという気持ちからほとばしり出た言葉であるとき、その言葉が相手の琴線にふれ、その人生を一変させるほどの力をもつのです。
『ほとばしり出た言葉』、ですね……。
それは、仏教三大行事の一つ、『成道会』が、今日、12月8日です。
そう、お釈迦さまが、おさとりを開いた日です!
そう、これこそが、どんな困難も克服することのできる智慧と慈悲の仏教誕生の瞬間でありました。
悟りに至るまでは、修行といっても苦行では悟りはえられぬことに気づいたお釈迦さまは、ある日ブッダガヤという町のはずれの菩提樹の下で、静かに坐禅を組み、ついに12月8日の未明、空に美しく輝く明けの明星をご覧になり、お釈迦さま、こうおっしゃられました。
「奇なるかな奇なるかな、一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す、ただ妄想執着あるがゆえに証得せず」
そう、ついに真理をお悟りなったのです。そして仏教が誕生した日でもありました。
「不思議なことに、不思議なことに、一切の生きとし生けるものはすべて、佛の智慧と徳相を具えているではないか、ただ、煩悩に覆われていてなかなか気がつかない・・・。」
つまり、すべての人は、煩悩を取り除くと仏になれる・・・、本来はすべて仏なので、みな平等・・・。
ちなみに、お釈迦さまが生まれた日を「降誕会 4月8日」と言い、回りの不幸をいろいろ見て、すべての人を幸せにしたいと願われ、29才で出家し、35才で真理を悟り(成道会)、72才ぐらいからすべての人を幸せにする極意(法華経)を説きはじめ、80才でご逝去(涅槃会 2月15日)されました。
お釈迦さまは、自分を何度も殺そうとした提婆達多(だいばだった)を憎まず、逆によき友(善智識)とおしゃっていました。
これは、自分にとって、いやな人、いやなことが、実は自分を成長させていただけるチャンスなのだという教えなのです。
このように人生は、いいことも、いくないことも、すべて自分を生かすことだと自覚ができれば、すでにもう幸せなのです。この教団の経典は、「法華経」です。
「法華経」は、実は、難信難解です。
その難信難解の「法華経」のエッセンスを以下の「3つの心構え」と「3つの実践」で分かりやすく一般人までに落としてくれたのが某教団の方々なのです。
特に「3つの実践」は、現会長先生が自ら3年間毎日実践し、これこそ現代の法華経実践とだ確信したものだそうです。
私も同感だと思うこの頃です(^o^)
仏教の基本は「世の中のすべてのものごとは、『因』と『縁』の出合いによって存在する」という縁起の教えです。
法華経は、これを一歩進めて「常にまわりの人をよい因・よい縁と見る」という「善因善果」で、すべての人が百パーセント救われるという縁起観なのです。
「法華経ですべての人が百パーセント救われる」というのは、出合うことすべてを幸せの因と見ることで、人は皆幸せになるために生まれてきていると信じること。
「〜信じること。」って、あんた・・・(^^;;
どの宗教も、幸せになることが目的の一つだと思います。
しかし、宗教がもとで争いが起こることもありますね。
争いの宗教は、『感情の宗教』なのです。
『感情の宗教』には、2つの欠陥があります。
それは、感情である『これは好き』、『これは嫌い』、という2つの欠陥です。
では、『理性の宗教』とは、どういうものでしょうか?
ハイ、それは、仏教です。
仏教は、感情的にこれを拝めとか信ぜよとか教えられたものではありません。
仏教は、因果の法則を説かれたもので、誰でも理性で理解ができるものなのです。
そう、仏教は
です!
しかし、一神教は争いばかりですね…
一神教の各々が、それぞれ絶対的に正しいと思っているから他を許せず争いになる。
世界を救えるのは、やはり、仏教しかないですね…(^o^)
普通、結婚は相性の良い人とするものです。
しかし、実際は、相性が良いと単に勘違いした、あるいは、騙されたケースが多いようですね。
ですので、結婚生活をつづけていると、『無性に腹が立つ』ことがありますね(たぶん相手も同様でしょう・・・)。
これは、感情なので理性では、なかなか抑えきれません。
しかし、そこをなんとか乗り越えるところが、宗教を行ずる信仰者ではないでしょうか・・・。
法華経では、お釈迦様が、自分を何度も殺そうとしたダイバダッタでさえも、良い友達としているのです。
逆にいうと、自分にとって都合が悪い相手ほど自分を成長させてくださる有り難い友としてみるのが仏教(法華経)なのですね。
ちなみに、『無性に腹が立つ』の無性は、仏性がない状態のことらしい。
仏性のないもの。悟りを開く素質のないもの
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%84%A1%E6%80%A7_%28%E3%82%80%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%29/
すべての人には仏性があるはずなのに、「怒り」や「絶望」は仏性を覆い隠すのですね。
だから、逆の「喜び」や「希望」をいつでももてる自分になりたいですね!
今日は、とあるところで、法話を聞いて来ました。
その法話で、心に残ったものがありました。
それと同じものが、ネットにありましたので、引用しときます。
信仰は お豆腐のようになることです。
豆腐は煮られてもよし
焼かれてもよし 揚げられてもよし
生で冷奴で ご飯の菜によし
湯豆腐で一杯 酒のさかなによし
柔らかくて 老人 病人の お気に入り
子供や 若い者からも 好かれる
男によし 女によし
貧乏人によし 金持ちによし
平民的であって 気品もあり
上流へも好かれる
行儀よく切って 吸い物となり
精進料理によし
握りつぶして味噌汁の身となり
家庭料理に向く
四時 春夏秋冬 いつでも使われ
安価であって ご馳走の一つに数えられ
山間に都会に…….何処でも歓迎せられる
::
味がないようで 味があり
平凡に見えて 非凡。
https://woo-site.com/article300/2/
煮られてもよし、焼かれてもよし、揚げられてもよし、生でよし
味がないようで味があり、平凡に見えて非凡
私も、豆腐のようになりたい(^o^)
今日、月に2度の整体の日で、治療を受けてきました。
治療の部屋にカレンダーがあり、そのカレンダーに『食べ物は、感謝して頂けば、胃腸の病気になることはない』という格言が書いてありました。
いやー、過敏性腸症候群は精神的なものが原因で、会社でのストレスだと思っていましたが、整腸剤を飲んで腹巻きをすれば、ある程度よくなるし、もしかしたら、食べ物に感謝をしていなかったのかなぁ・・・と思えてきました。
それとは別に以下も感謝ですね。
とにかく、『すべてに感謝の気持ち』を持って生きていけば、健康で良い人生が送れそうですね(^o^)