2025年2月20日木曜日

仏道は親孝行

 

 

布薩の日に、某教会で、機関紙『佼成』の勉強会(法座)に参加する機会がありました。

ちなみに、布薩の日とは、過去に書いています。

 

今回の機関紙『佼成』のお勉強とは、会長先生の『親孝行と仏道』というご法話についてでした。また、某教会のRKK教団では「親孝行」「先祖供養」「菩薩行」の3つを生活実践の柱としています。


そしてその勉強会で、「親孝行」こそ仏道そのものだと教えていただきました。「親孝行」とは、生まれつき授かっている仏心、仏性をよりよくはたらかせ、磨き、本来の輝きそのままに生きることにほかならないと教えていただきました。

 

講師の教会長さんは、教務員時代、四国の辺鄙な港に行った時、ある人から、あなたは布教で前しか見ていない、あなたを心配して祈っているご両親を思ったことがありますか…と言われれ、込み上げてくる涙が止まらなかったとおしゃっていました。


また、会長先生のお供で、佼成霊園から杉並本部(大聖堂)へ歩く修行の時に、会長先生へ、『なぜ初代会長の開祖さまから会長を継承したのですか?』、と質問しました。すると、一言『親孝行です』…とおしゃったそうです。


そういえば、お釈迦さまは、亡くなるときに北枕にしたといいます。その場所での北は、お釈迦さまの親のお墓がある方向で、親を置き去りにして出家した親不孝をいつも気にして、足を北に向けることができないほど親を思っていたからなのです。


また、日蓮も身延山での修行時、山頂で毎日、生まれ故郷(千葉県天津小湊)に向かって合掌されていたとのことです。その合掌されていた山頂が、これにちなんで思親閣となったとか…


とにかく、会長先生もお釈迦さまも日蓮も、みな親孝行なのです。つまり仏道は、親孝行がメインの要素なのですね・・・(^o^)

2025年2月19日水曜日

心田を耕す

 

まずはじめに、本コンテンツは、ご著書 『心田を耕す』の感想文ではなく、勉強会の『心田を耕す』です(^^;;

 

ちなみに、ご著書『心田を耕す』の著者は、佼成会の開祖さまではなく、現会長先生です。

 

先日の午前中、ママからのお届けものを、某教会へ持って行きました。

 

そこで、たまたま『心田を耕す』の最終章の勉強会があり、ついでに有難く参加させていただきました(^^;;

 

普通の田んぼに種を植えるには、その前に田んぼを耕します。


心の田んぼも信仰の種を植えるには、同じように、心の田んぼを耕さないとならないのです。


心の田んぼを耕すには、以下の3つが必要とのことでした。

  1. 朝夕にお経を読む
  2. 手取り・お導き・法座に参加する
  3. 法華経を勉強する

これ、某教会では、3つの基本信行と言うらしいです。

 

1のお経は、法華経の抜粋を読誦し、2の手取り・お導き・法座は、法華経を人に薦める行いで、3の法華経を勉強するは、まぁそのままです(^^;

 

しかし、この3つで耕したら、を植える必要がないのではとか…、そもそもこの場合の稲ってなんなんだろうか・・・とか。

 

まぁとにかく、基本は大事、これから心の田んぼを耕して参りましょう(^o^)

 

2025年2月18日火曜日

自分こそ悪者ではないか

 


とある小誌からの抜粋

『自分こそ悪者ではないか』

自分こそ正しいと主張しあうところに対立が起きるのであって、 自分が悪いとなれば、自他一体・一如となり、そこは無対立の世界となります。 それが宗教の智慧であり、平和を築く絶対の力であります。

 

なるほど、なるほど、なるほど・・・

私の場合は、自分こそアタマが悪者ではないか…なのかもしれない・・・スマン(^^;;

 

とにかく、目には目、歯には歯では、争いはなくならない、それでは、永遠に恨みは連鎖してしまいます・・・どこかで断ち切らないと!

 

それにしても、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は、争いの絶えないどうしようもない宗教ですね! 

 

世界中が仏教にならなければ、真の平和は訪れないのではないのか・・・と思います(^o^)


2025年2月17日月曜日

「下坐に生きる」の紹介文

旧燈明日記からの引用です。

下坐に生きる By 神渡良平の紹介文です。

 

隔離病棟のドアをあけると、そこには、痩せこけた一人の青年がいた。

その青年は、開放性の結核にかかっており、余命10日といわれていました。

青年の生い立ちは、それは、それは、悲しいものでした。

生まれる前に父は蒸発、母は青年を産み落として亡くなりました。

その後、親戚や学校から邪魔者扱いにされながら育ち、14歳で家を飛び出し、賽銭泥棒等で生活をしていましたが、警察に捕まり、少年院へ送られました。その後、結核になり、今ここに、人間不信のまま辛い辛い人生の幕を閉じようとしていたのです。

あまりに不憫な青年を、なんとか、救ってあげたいと院長から頼まれ、私はドアをあけました。

私 :「おい!どうでぇい。」
青年:「...」(無応答、しばらく間をおいて...)
私 :「折角、見舞い来たんじゃねぇか。なんとか言えよ!」
青年:「うるせえ!」
私 : 言葉は乱暴だけど、しかし、一瞬の青年の寂しい表情を見逃さなかった...。
私 :「おい、こっち向けよ、今日は一晩看病させてもらうからな」
青年:「チェッ、もの好きな奴やな」

生い立ち等の話しをしながら、青年は、次第に心を許しはじめた...。

私 :「折角来たんだ。足でもさすろうか」
私 : さすった足は、枯れ木のような細い足で、骨の形がみえるようだ...。
青年:「おっさんの手は、やわらかいなぁ」
私 :「何言っとるんじゃ。男の手が柔らかいはずがあるかい」
青年:「うんにゃ、柔らかいぞ...、おっさん、あのな!」
私 :「なんじゃ」
青年:「笑っちゃ、いかんぞ」
私 :「笑うもんか、早く言え、もったいぶるな」
青年:「あのなー、一度で言いから、『お父っつぁん』って...呼んでいいかい」
私 :「ああ、いいよ、わしでよかったら、返事するぞ」
青年:「じゃぁ、言うぞ」

しかし、青年は言いかけて、激しく咳き込み、血痰を吐いた、私は、背中をさすりながら...。

私は泣いた、それほどまでに、こいつは『お父っつぁん』と言いたいのか...。

私 :「なぁ、今日は止めとけ、体に悪よ」
青年: 苦しい息のとぎれとぎれに、とうとう言った。「お父っつぁん!」
私 :「おう、ここにいるぞ」

青年の閉じた瞳から涙がこぼれた、どれだけこの言葉が言いたかったことか...。

青年は大声を上げて泣いた。18年間、この言葉を言いたかったのだ...。

 

この本の100分の1でも、感動が伝われば、幸いです。


2025年2月16日日曜日

法華経の中の法華経の正体

 


法華経を読誦していると、その中に有り難いほど沢山の『法華経』が出てきます。

 

如来の滅後に四衆の為に是の法華経を説かんと...(法師品第十)

妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に信敬して...(提婆達多品第十二)

億憶万劫より。不可議に至って、時に及し、是の法華経を聞くこと得。(常不軽菩薩第二十)

四法を成就せば如来の滅後に置いて当に是の法華経を得べし。(普賢菩薩勧発品第二十八)

 

などなど...で、よく考えると法華経は仏滅後400~600年後に編集されたといわれています。


つまり、法華経に出てくる『法華経』は、論理的に法華経ではないということになります。


では、法華経に出てくる法華経でない『法華経』の正体とは、一体なんなのでしょうか...。


この答は、いろいろ考えたり、参考資料を見ましたが、今の私のレベルでは、【謎】です。


しかし、 佼成会の開祖さまが、真理そのものって言っていたような…(^^;;;


ただ、なんとなく思うのは、他の宗教(キリスト教など)や他の宗派(浄土宗など)の経典も実は、 『法華経』の正体と同じものから出ているんじゃないかと推測しています...。


まぁ、『法華経』の正体が分からんと(以下略)。分かったら更新 アップします(^-^;)

2025年2月15日土曜日

お釈迦さまがお亡くなりになった日


今日は2月15日、お釈迦さまが亡くなった涅槃会です。

 

釈尊は、29歳で出家され修行し、35歳でお悟りを開かれ(成道)、80歳で入滅する(亡くなる)までの45年間、仏法の布教伝道に邁進しました。
仏伝では、初転法輪前後と入滅直前あたりは、順を追って分かるのですが、それ以外の事柄は、2500年前のことなのでわかりません。


しかし、天台大師や後世の学者が、ほぼすべての経典を読破し、成道直後に華厳経、つぎに阿含経、方等経、般若経と説かれ、涅槃の8年前から法華経が説かれ、最後に、涅槃経を入滅直前の一日一夜の説法とのことと解明されました。


さて、入滅の涅槃ですが、直前に2つのエピソードがありました。


一つ目は、ほとんど絶望と思われていた釈尊が、幸い小康を得られた時に、熱心な信者のチュンダが、ご供養した食事の茸に中毒され、ご容体がにわかに悪化し、それを知ったチュンダは、物凄く後悔しました。
しかし、釈尊は『チュンダの供養した食事が、私の最期を早めたからといって、何も悔やむことはありません。
私が成道する前に、スジャータという娘が食事を供養してくれましたが、今入滅しようという際のこの食事も、それと同じように大きな功徳があるのです。』とおおせられ、チュンダの心を救ったとのことです。


2つ目は、いよいよ寿命が尽きることをお悟りになった釈尊のもとへ、スッパダという異教の行者が『真の悟りに至る道』の教えを請いに来ました。
釈尊の弟子達は、ご臨終に近い釈尊をわずらわしてはならぬと思い、断ると、その押し問答を聞かれた釈尊は、『道を聞きに来た人を拒んではなりません。』と八正道をお説きになったそうです。
そして、スッパダは、そのお言葉に目がさめたようになり、釈尊の最後の弟子になりました。


そして、クシナガラという町の沙羅の木の間に床を用意され、頭を北にし、
右脇を下にした形で、お亡くなりになりました(享年80才)。最後のお言葉は、


すべての現象は、移り行くものです。怠らず努力することですよ!

 

とのことでした。


ここに人類始まって以来の最高の聖者は、まことに大いなる死を迎えたのでありました。
それは、日本暦に直して2月15日の夜半とのことでした。
ちなみに、仏教界ではこの日に涅槃会を毎年とり行っています。


ちなにみ、なぜ北枕にしたのかというと、一説では、足を自分の生まれた国の方向へ向けないためとのことです。
これは、大いなる放棄より、父母に対しての親不孝を、釈尊はいつも気にしていたとのことです。


2025年2月14日金曜日

生まれてきて良かった

 

前に、京王線の準急に乗っていた時でした。すると何か聞こえます。


二才ぐらいの小さな女の子が、一人でぺちゃくちゃなにか言っているのです。


車内なので、うるさい子だなと内心思いながらいると……。

 

『生まれてきて良かった』『生まれてきて良かった』と連呼し始めたのです。

 

すると、今までうるさいなと思っていた感情が消え、その子がすごく愛しく思えてきたのです。

 

そして、なぜか、涙が込み上げてきて・・・

 

親にとって、子供から『生まれてきて良かった』と思われることは、最高の親孝行ではないでしょうか。

 

ごく日常の中、ふとした感動、ありがとう。

2025年2月13日木曜日

苦労は幸せのもと

よく、「苦は楽の種」といいます。
これ、人間だけでなく、魚や樹木にも言えるみたいですね。

 

先日、おもしろい話を聞きました。
アユを関西から東京にもっていこうといろいろな方法をこころみましたが、どうしてもうまくいきません。
ところが、あるとき水槽の中に棒を入れて、ときどきかき回しながら運んだら、アユはすこぶる元気だったとのことです。


また、そういえば、前にも、おもしろい話を聞きました。
植樹で最良の条件でなくて、主役の苗木と脇役の苗木「まぜるまぜるまぜる」で植えると、相互に協力したり、我慢し合いながら育っていくとのことでした。
つまり、最良の条件を用意してやると逆に苗木が育たないとのことでした。


人は、家庭でも仕事でも学校でも、いろいろな苦労があるからこそ、頑張れるし、成長ができるし、結果的に幸せになれる・・・


そう、まさに「苦は楽の種」で『苦労は幸せのもと』だったんですね!

 

2025年2月12日水曜日

不惜身命(ふしゃくしんみょう)

 


『不惜身命(ふしゃくしんみょう)』は、法華経の勧持品第十三に出てくる言葉です。意味は、「身命をなげうっても惜しくはない」という精神のことです。

 

では、「身命をなげうっても惜しくはない」精神とは、すべての人の真の幸せのためには、自分の生命さえも惜しくないという徹底した境地です。

 

といいますと、たぶん、反感や抵抗感をもたれた方がいると思います。生命が何より尊いものだと・・・。

 

しかし、これは、生命の受け止め方が自分本体だと思うからで、仏法で云う生命とは、仏性のことであり、永遠の命です。自分の生命さえも惜しくないという生きかたこそが、実は、ほんとうに生きるということなのです。


と、某法華経解説本に書いてありました。今、噛み締めていまーす(^-^;)


2025年2月11日火曜日

人生にむだはない

 

 今の心境にぴったりのメッセージがありましたので引用しておきます。


人生にむだはない

私たちが人生で体験することには一つのむだもありません。

お釈迦さまが「人生は苦である」と教えられているように、私たちの人生には苦がつきものです。けれども私たちは不幸や苦しみに見舞われると、「なぜ自分だけがこんなに苦しい目に遭わなくてはならないのか」と恨(うら)みごとを言い、嘆くのが常です。しかし、その苦しみを通らないと人生の本当の喜びは得られないのです。いや、苦しみを乗り越える、そのことの中に真の楽があるといってもいいのです。

人は自分が実際に経営に失敗して苦しみ、病気で苦しんでみてこそ、同じ苦しみを持つ人に、それを乗り越える道、そして乗り越えたときの喜びを、自信をもって説くことができます。

苦しみにぶつかったときに、「仏さまが、この苦しみを通して同じ苦しみにある人たちを救う力を与えてくださるのだ」と受け止められるようになると、力が内からわき上がってきます。その力が道を開いていくのです。

「無用の用こそ大切」といいます。人生でぶつかるさまざまな苦しみ、むだな回り道と思えることも、すべて将来に生きていくのです。


庭野日敬著『開祖随感』より

 

『人生でぶつかるさまざまな苦しみ、むだな回り道と思えることも、すべて将来に生きていくのです。』

 

そうあって欲しい…

 

ちなみに、『無用の用』とは、一見意味のないように感じるものが、実は重要な役割を担っているという意味です。

2025年2月10日月曜日

ミスチルGiftと法華経


昔、ミスチルファンだった時に、一番好きな曲がこの「Gift」です。

なぜ好きかというと、法華経そのものなんですね!これが!!

まずは、以下の詩で、「一番光っているもの」を、意味的に『仏性』に置き代えて読んでみてください。

一番きれいな色ってなんだろう?
一番ひかってるものってなんだろう?
僕は探していた 最高のGIFTを
君が喜んだ姿をイメージしながら

『本当の自分』を見つけたいって言うけど
『生まれた意味』を知りたいって言うけど
僕の両手がそれを渡す時
ふと謎が解けるといいな 受け取ってくれるかな

長い間 君に渡したくて
強く握り締めていたから
もうグジャグジャになって 色は変わり果て
お世辞にもきれいとは言えないけど

「白か黒で答えろ」という
難題を突きつけられ
ぶち当たった壁の前で
僕らはまた迷っている 迷ってるけど
白と黒のその間に
無限の色が広がってる
君に似合う色探して やさしい名前をつけたなら
ほら 一番きれいな色
今 君に贈るよ

地平線の先に辿り着いても
新しい地平線が広がるだけ
「もうやめにしようか?」 自分の胸に聞くと
「まだ歩き続けたい」と返事が聞こえたよ
知らぬ間に増えていった荷物も
まだなんとか背負っていけるから
君の分まで持つよ だからそばにいてよ
それだけで心は軽くなる

果てしない旅路の果てに
『選ばれる者』とは誰?
たとえ僕じゃなくたって
それでもまた走っていく 走っていくよ
降り注ぐ日差しがあって
だからこそ日陰もあって
そのすべてが意味を持って
互いを讃えているのなら
もうどんな場所にいても
光を感じれるよ

今 君に贈るよ 気に入るかなぁ? 受け取ってよ
君とだから探せたよ 僕の方こそありがとう

一番きれいな色ってなんだろう?
一番ひかってるものってなんだろう?
僕は抱きしめる   君がくれたGIFTを

いつまでも胸の奥で
ほら光ってるんだよ
光り続けるんだよ

まずは解説

『本当の自分』を見つけたい、『生まれた意味』を知りたいって、あんた、法華経のテーマそのものではないですか!
 
グジャグジャになって色は変わり果ては、仏性が曇っているけど、磨けば輝き出すぞ!
 
君の荷物を背負っても君がそばにいれば心は軽くなるは、まさに布施奉仕だな〜
 
そして、以下の引用
降り注ぐ日差しがあって
だからこそ日陰もあって
そのすべてが意味を持って
互いを讃えているのなら
もうどんな場所にいても
光を感じれるよ


自分も陰で支えてくれる人も全て意味を持ってお互いを讃えているのなら、お互いに仏性を感じられる。

 

最後に、以下のの引用

君とだから探せたよ 僕の方こそありがとう

一番きれいな色ってなんだろう?
一番ひかってるものってなんだろう?
僕は抱きしめる   君がくれたGIFTを

いつまでも胸の奥で
ほら光ってるんだよ
光り続けるんだよ

君と一緒に探せた仏性を、君も自分もいつまでも胸の奥で光り続けるんだよ・・・

 

 



2025年2月9日日曜日

四安楽行とは


妙法蓮華経安楽行品第十四に出てくる身口意誓願(しんくいせいがん)の四安楽行(しあんらくぎょう)です!
 

身安楽行

いつも柔和忍辱をたもち、権力や邪法や勝負事には近寄らず、性的なことには最善の注意を払う、などなど。

口安楽行

悪口や見下すような言葉、批判、また、あの人は好きだとか嫌いだとか、などなど。

意安楽行

嫉妬の心を持たないようにしたり、人を軽んじたり、失望させたり、えこひいきなどをしない、などなど。
 

誓願安楽行

すべての人をこの法華経によって幸せにしたいと誓願すること、などなど。


四安楽行を完全に行って、この教えを広める者の功徳については、以下のようにお説きになりました。


  • 一切心配事がなくなる。
  • 一切苦痛がなくなる。
  • 徳が自然と顔に現れて、人相がよくなる。
  • 生活にこまることがなくなる。
  • 大勢の人から崇め慕われる。
  • 神からも守護される。
  • いつでも、どこでも、だれにでも、心が自在になれる。
  • 大きな智慧であらゆる迷いの暗黒を打ち破ってしまうでしょう。

 

これは、もう四安楽行を実践するしかないですね(^o^)

2025年2月8日土曜日

親の切ない思い



自分の赤ちゃんが重度のアトピーで、痒いので掻いて血だらけになっていたとしたら...。 そう自分ではなく、自分ではどうすることもできない、小さな赤ちゃんが...です。

 

つい先日、盲目のエッセイストのお話しを聞かせてもらいました。 このエッセイスト(麻由子)は、四歳のときに失明して、それ以後、母親と二人三脚で今日に至りました。 母親は、麻由子に生きがいを与えるべく、絵本を読んできかせたり、点字を先にマスターして教えてあげたりしました。

 

四歳の娘が失明してしまったことにたいする、どうすることもできない親の切ない思い...。 その切ない思いを力に変えて、麻由子は大学院まで入り、英語やフランス語まで点字をマスターしてしまったのです。麻由子にとって感謝しきれない、最高のお母さんでした。

 

そして、麻由子にとって、いま一番うれしいのは、本人の何倍も努力したであろう母が以下のようにいってくれたことでした。

 
「麻由子を育てることで、二度も三度も人生を楽しめた。
        だからあなたに感謝しているのよ」

 

アトピーの赤ちゃんのお母さんにも同じような結果になることを願っております。

 

『苦は楽の種』といいます。もしかしたら、神さまから、苦を克服したその先に楽しみが待っているよ…というメッセージなのかもしれません...。



2025年2月7日金曜日

原因は、外ではなく、実は内だった


失敗したり、嫌なことがあると、普通、人は、外に原因を求めます。

そして、それらしき原因をみつけ、取り除こうとします。

でも、なかなか上手く行きません・・・


そうなんです。それは、真の原因じゃないからなのです。

真の原因は、実は外ではなく内で、自分自身だと云う事に気がつくと、解決の道がひらけるかも知れないのです。

By picochanjiiji (^^;;


追記

とにかく、普段からメモする習慣をつけて、ミスや失敗をしたら、欠かさずメモする。そして、空き時間に、メモをまとめて、頭に刻みつける。同じミスを犯さないようにと・・・

とにかく、原因である自分を変えるしかないのです。

2025年2月6日木曜日

関心は実は愛だった・・・


私がブログを毎日更新し続けるのは、なんなんだろうと思っていたら、どうやら正体がわかってきました。

 

その正体は、愛不足です・・・たぶん(^^;;

 

マザーテレサが『愛の反対は無関心である』と確か言っていたと思うのだけれど・・・

そうすると、 愛の反対の反対は関心であるということになる。

よって、関心は愛とイコールなんだとわかる(^^;;;


皆さん、まだこのブログに無関心なので、もっと関心を持ってもらいたい、つまり、愛不足・・・(^^;;


夫婦であればパートナーを、親子であれば親子同士、仕事であればお客さまや同僚に対して関心をもつこと!

 

そして、関心をもってくれることが分かると、嬉しくなりこちらも関心を持ち、こんどは相手が嬉しくなり、プラスのスパイラルになっていくのです。


早く、プラスのスパイラルなるように頑張ってブログ更新をしていきたいと思います(^o^)



2025年2月5日水曜日

家庭のオアシスとは



以前、旧燈明日記にアップしたものだけど、こちらにもアップしとく(^^;;


もう子供は、3人とも三十過ぎで、子育てに関係ないんだけれど、可愛い可愛いお孫ちゃんのピコちゃんができたので、昔、子育てのインストラクターの講演で聞いた内容をアップしときます。


子供の躾で、『人さまや世間の迷惑になることはしてはいけない』と言うより、『人さまや世間のためになる人になりなさい』と言う方がかなり良いとのことです。

言われると、あーそうか! って感じですが、つい『人さまや世間の迷惑になることはしてはいけない』と躾てしまう・・・。(無意識の日本人意識)


また、子育てには、オアシスが必要とのことでした。

  • オアシスのオは、『おはよう』という素直な心
  • オアシスのアは、『ありがとう』という感謝の心
  • オアシスのシは、『親切』という思いやる心
  • オアシスのスは、『すみません』という反省する心

このように躾ると家庭がオアシスなる・・・なるほど上手いこと言う。


あと、呼ばれたら『ハイ』と返事するように躾しますが、この『ハイ』は、実は人を拝む『拝』とのことで、呼ばれたら『ハイ』と返事をするのは、呼んだ人を拝むことだったのですね。

 

以上、家庭のオアシスでした(^o^)

それにしても、オアシスの例えはスゴイですね!

法華経の実践と言っても過言ではない…

 

追記

「子育ての4つの離さず」もメモしときます。

  • 赤ちゃんの時は、肌身離さず。
  • 幼稚園の時は、手を離さず。
  • 小学校の時は、目を離さず。
  • 中学校の時は、心を離さず。

以上、「子育ての4つの離さず」でした(^o^)


なんたって家庭が第一です。上記を実行して、幸せな家庭を築い参りましょう(^o^)


2025年2月4日火曜日

戒名当番と云う修行

 

戒名当番とは、私が入会しているRKK教団(立正佼成会)の修行の一つです。

 

修行内容を簡単に云ってしまうと、戒名を筆で習字するわけです。

 

修行が進んだ人の場合には、本当に戒名をつけることもあります。

 

私のレベルでは、まだまだ、すでにある戒名を筆で習字練習するわけです。


戒名は、ご存知の通り、亡くなった人につける名前です。
ですので、普通の習字より集中して練習します。


上手く書こうとするとなぜか上手く書けず、無心で1文字1文字に魂を入れる気で書くと、力強い字が書ける感じです。

 

私は、佼成会会員としては、まだまだ未熟なので、もしかしたら、この修行の本質がわかっていないのかも知れませんが、戒名当番をご紹介いさせていただきました。

 

最後に私が字について思う格言があります。


頭が良い人で、字の下手な人はいますが、字が上手くて、頭の悪い人はいない!


です。


なんか、当たっていると思いませんか?


ちなみに、私は、字の下手さでは、誰にも負けません。
しかし、次男の字を見た時に、はじめて敗北を感じました・・・遺伝や・・・(^o^)

 

2025年2月3日月曜日

生まれそして生きる意味

また、生きる意味がわからなくなってきました・・・

 

昔、引用した「 生まれそして生きる意味 」の文章がPCに残っていましたので、ご紹介いたします。尚、引用元がネット検索しても見つかりませんでした。

 

赤ちゃんは、掌を握り締めて生まれ、掌を広げて産声を上げるそうです。

 

では、なぜ赤ちゃんは、掌を握り締めて生まれ、掌を広げて産声を上げるのでしょうか・・・

 

赤ちゃんは、この世に生まれてくる時に、たくさんの夢と希望を、握り締めて生まれてくるんです。

 

そして、生まれた時に、この世界に、みんな解き放ってしまうんだそうです。

 

生まれた喜びと、夢と希望を手放してしまった悲しみで、産声を上げるのだそうです。

 

では、なぜ、人は生きていくのでしょうか・・・

 

それは、生まれた時に手放した夢と希望をもう一度、手に入れるために、苦しくても、悲しくても、生きていくのだそうです。

 

夢や希望を、手にした時の喜びを、もう一度知るために・・・辛くても、苦しくても、希望の光だけは、見失わない事と、信じています・・・

 

そっかー!生きる意味は、夢や希望を取り戻すためか〜!! 


ちょっと白々しいけど頑張る(^o^)

2025年2月2日日曜日

ダラニ(陀羅尼)って……


木鉦(もくしょう)

 ほぼ毎日、法華経の抜粋を読誦するのですが、その中に陀羅尼があります。


陀羅尼とは、法華経26番(品)と28番(品)に出てくる呪文です。

 


もともとは、サンスクリット語の発音でいろいろな神の名前を云っているそうですが、日本人には呪文に聞こえます。


ご利益は、『あらゆる悪をとどめ、あらゆる善をすすめる』とのことです。

たとえば、こんな感じです。

 

あに まに まね ままね しれ しゃりて しゃみや しゃびたい せんて もくて もくたび しゃび あいしゃび そうび しゃび・・・・・・

 

本当は、これに、木鉦(もくしょう)でリズムをつけて読誦しますが、木鉦のリズムが不規則で習得するのが凄く難しく、普段は、木鉦なしで読誦します。

 

ということで、陀羅尼を簡単に説明させて頂きました。 


今度、本部の木鉦研修で陀羅尼木鉦をマスターしたいと思う今日この頃です(^-^;)

2025年2月1日土曜日

我を捨ててこそ自由あり

 


前に、家内から一枚のコピーを読みなさいと渡されました。
そこには、『我を捨ててこそ自由あり』のタイトルで以下のような内容でした。

 

自由・不自由は、つまるところ現象の上にあるのではなく、心の中にあるのです。
:
:
タゴール(インドの大詩人。東洋人として初のノーベル賞受賞者)はこう言っています。

「人間の自由は、苦痛を救われることにあるのではなく、その苦痛を愉悦の一要素に変えるところにある」



どうしたら、苦痛を愉悦に変えることができるか、道はただ一つ、できうる限り”我”を忘れることです。

仕事に打ち込む働き人も、愛し子の世話をする母親も、その瞬間において我を放棄しているからこそ、苦の中に喜びを感じているのです。

まことに、真の自由とは我を捨てるところにこそあるのです。

 

昨今、隊長からお前の頭は我だらけで、言ったこと(指導)が入るスペースがちょびっとしかない、「我を捨てろ」と言われたばかりでした。
明日から、仕事に打ち込んで、長年間培った我を消滅させたいと思います。できるかな…(^^;;