五種法師(ごしゅほうし)とは、法華経に対する修行者のあり方を示すもので、「法華経」の法師品に説かれています。
- 法華経を受持し。
- 法華経を読んで。
- 法華経を誦じて。
- 法華経を解説し。
- 法華経を書写す。
法華経を信じきり(受持)、毎日毎日読んで読んで(読)、暗記して(誦)、みなさんに教えてあげる(解説)。
また、インターネットを使って法華経の教えを公開する(書写)。
まだまだですが、私も頑張ります・・・誰にともなく(^^;
私のお仕事は施設警備員で立哨もあります。 ここ数日、雨が降っていました。
雨の中の立哨は、結構堪えますが、「雨の中、ご苦労様」とか「お風邪を引かないように」等の温かい労いの言葉を頂くことがあり、凄く有り難いです。
仕事とはいえ、雨と寒さの中の立哨は、凄く大変です。
でも、その大変さを顔に出したら、警備員失格ですね。
つねに、良い挨拶と良い姿勢。そして、良い身だしなみを心がけ…。
自己改革を続けなければ、警備員の社会的地位は底辺のままです。
休日に自家用車を買い物等で乗り回すと、交通誘導の警備員さんを沢山見掛けます。
半分以上の警備員さんは、だらしがない格好をしていますね。
平気で警備服のままタバコを吸っていたり…。
警備の仕事は、意識を高く持てば、素晴らしい仕事です。
底辺の仕事などと言われないように頑張りましょう!(誰にともなく…)
ちなみに、「雨にも負けず、風にも負けず」の詩は、宮沢賢治の没後に発見された遺作のメモであり、その最後に「南無無邊行菩薩/南無上行菩薩/南無多宝如來/南無妙法蓮華経/南無釈迦牟尼佛/南無浄行菩薩/南無安立行菩薩」という題目が記されていたという。
この詩は、明らかに法華経20番の常不軽菩薩とイメージが重なります。
私も、常不軽菩薩のように、仏性を拝む修行をしているのかもしれません。
私も、デクノボーと呼ばれ…そういう者に私はなりたい(^^;
あなたは、何処かへ出かける時、「行ってきます」と言いますか?
それとも、「行って参ります」と言いますか?
この2つ、同じ意味で使われますが、実は、大きな違いがあるのです。それは、「参」が入るか、入らないか、ということです。
「参」には、さまざまな出会いの中で、人間として少しでも尊ぶべきものごとを学び、向上して帰ります、という精神的な意味合いが含まれるのです。
また、何かの対戦で、負けると「参った」、「参りました」と言います。
これは、悔しがったり、文句を言ったりせず、謙虚に相手の強さを認め、敬意を表す言葉です。
つまり、尊いものや強いものに近づこうと誓願するのが「参」と言うことなのです。
ということで、「行って参ります」は、イコール自己向上を意味し、仏教的には、自らの魂を磨くことなのですね。
「行ってきます」は、まさにそのままですが、「行って参ります」は、行って魂を磨いてくるのです!
本ブログの一番のコンテンツ、「法華経のあらまし」を一つのスレッドにまとめてみました。
お釈迦さまがお説きになったお経は、約1700種あると云われていますが・・・。実は、直筆のものは無いそうです。
この沢山のお経は、お釈迦さまの弟子達が、お釈迦さまが亡くなってから、編集したもので、法華経も仏滅後400~600年後に編集されました。
その後、インドに留学していた鳩摩羅什が中国に持ち帰り翻訳し、天台大師に引き継がれます。また、同時期に日本にも伝わり聖徳太子が「十七条の憲法」を法華経をもとに作ったとされています。
その後、奈良朝の終わり頃、最澄が天台宗を日本にも起こし・・・。鎌倉時代に法華経のエース、日蓮が登場し、法華経を元に日蓮宗を起こします。
まぁ、簡単ですがこんなところです。尚、鳩摩羅什、天台大師、聖徳太子、最澄、日蓮は、仏教界では、今の大谷翔平級の人達です。
では、上記を踏まえて、各品毎のあらましにつづきます。
「もろもろの仏が悟った智慧は、深遠で大変難しく、舎利弗をはじめとする皆さんには到底理解することができません。もし、お話ししても、皆さんの頭が混乱するだけなので、説くのはやめましょう。」
しかし、舎利弗は余計に聞きたくなり、再度、説いてくださいとお願いしましたが、やはり、駄目で、三度目でやっと、それほど云うならと説法をお話し始めました。(これが有名な三止三請です。)
すると、今までお釈迦さまの教えを聞いて、自分はもう悟っていると思っている弟子達五千人が、いまさら新たな教えなど聞き耳もちませんとその場を退場していきました。
すると、お釈迦さまは、その弟子達を止めもせず、あらためて、舎利弗へこの教えを聞くに相応しい人だけ残りましたと説法をお話し始めました。
しかし、この品では、肝心の法華経については、至らず、さわりで、因果の法則(十如是)や方便についてお話しになりました。
十如是は、相、性、体、力、作、因、縁、果、報、がすべて等しいことであるとする法門で、諸法実相とも云います、あとで詳しく説明を致します。
また、方便は、正しい手段のことで、それぞれの人に、その時、その場所により、無数の教えを今まで説いてきましたが、実は、ある一つの教え(真理)がすべて元になっていて、そこに気づき、理解できれは、舎利弗をはじめとする皆さんも、仏になれますよ・・・。
と、云う事で、方便品は終わり、『譬諭品 第三』へ続いていきます・・・。
方便品で、お釈迦さまから、つぎのようなお言葉を承った舎利弗は・・・。
『無数の方便で、それぞれの人にふさわしい、適切な道によって教えが説かれ、そして、ある一つの真理を会得すれば、舎利弗をはじめとするすべての皆さんも仏になることが出来ますよ。』
これを聞いて、自分も仏になれるのだと大変喜びました。そこで、舎利弗は「ある一つの真理」とはどんなものでしょうかと、お釈迦さまへおうかがいしました。すると、お釈迦さまは、『三車火宅の譬え』をお話し始めたのです。
『三車火宅の譬え』をお話し終えたお釈迦さまは、今まで無数の方便の尊い教えを説いてきましたが、実はそれは、ただ唯一の一番尊い真理を説いていたのです・・・。
ということで、法華経の神髄は、まだ、語られず、信解品へ続くことになります。
信解品 第四で、摩訶迦葉らから『長者窮子の譬え』を聞いた、お釈迦さまは、「よろしい、よく分かってくれました。しかし、如来は、もっともっと計り知れないほどの功徳があるのです。如来は、一切の教えを知り、それを自由自在に支配するものです。そして、すべてのものごとの真相を明らかに究め尽くして、多くの衆生にたいして、その一切を知るものの智慧を示されるのであります・・・。」と、続いて『薬草の譬え』をお説きになりました。
この品は、『信解品 第四』で、仏の教えについて理解した内容を『長者窮子の譬え』にして申し上げた、慧命須菩提、摩訶迦旃延、摩訶迦葉、摩訶目ケン連らが、『薬草諭品 第五』で『薬草の譬え』を聞き、ますます、教えを深め、そして、そのことに対して、お釈迦様が、仏法を理解したこと認め、あなた方も仏になれますよと、授記されます。
授記とは保証のことで、保証にはいつも条件があり、それは、これからも行学二道の研修に励み、多くの人々を仏道に導いた後・・・、ということです。つまり、これからが大事で、理解した仏法を実践してくださいってことです。
はるかなる大昔に、大通智勝如来という仏さまがおられました。この仏さまには、出家するまえに16人の子供がいました。16人の子供は、みな父上を見習って法華経を説くために仏さまになりました。そして、16番目の仏さまが娑婆国担当の釈迦牟尼仏でありました。
釈迦牟尼仏ことお釈迦さまは、過去世に法華経の教えによって教化した衆生たちこそ、いまの弟子たち及び未来世の信者(現在の我々)に他ならないことを、明らかにしました。
真に悟りを得る道は2つあるものでは、ありません。ただ一つ法華経の教えがあるのみです。しかし、五官の欲にとらわれて、みずから苦しみを招いている人もいますので、そういう人達のために、とりあえず、迷いを除いて、心に安心を得るようにみちびいてあげるのです、と。このことを譬え話で説明いたしましょうと『化城宝処の譬え』を説かれ始めます・・・。
この品は、お釈迦さまが富楼那(フルナ)をはじめとする5百人の弟子(阿羅漢)に成仏の保証(受記)されます。
阿羅漢たちは、受記されるにいたった悟ったことを『衣裏繋珠の譬え』にして、申し上げました。
この譬え話が終わると、「お釈迦さまも、この友人のようなお方です。まだ菩薩であられたころ、私たちに、『だれしも仏性が具わっているのだから、修行して仏の悟りをひらくように』と教えてくださってのですが、私たちの心は眠りこけていて、そのことを知らず、ただ煩悩を除くことだけで、それが最上の悟りだと思い込んでおりました。
今、ここに、お釈迦さまは私どもの目をさまさせてくださいました。と心からお礼を申し上げるのでした・・・。
序品第一から前回の法師品第十までは、第一幕で、この品から、第二幕の始まりになります。
第一幕の舞台は、王舎城(おうしゃじょう)の霊鷲山(りょうじゅうせん)でしたが、この第二幕からは、霊鷲山の上空にいきなりなってしまいます。
どういうことかと言うと、大地から東京タワーのような塔がいきなり湧き出して来て、中から『お釈迦さまの説く法華経は、すべて真実です』という大きな声が聞こえてきました。
不思議に思った大楽説菩薩は、お釈迦さまに、中には何方がいるのですかとお尋ねすると、『如来の全身である多宝如来です』とお答えになりました。
そして、多宝如来が塔の中にお釈迦さまを招き入れ、一つの椅子に2人並んでお座りになりました。すると弟子達もその近くまで行きたいと思うと同時に、それを察知したお釈迦さまが、神通力で弟子達を虚空(上空)へ引き上げられました。
と、こんな感じで大スペクタルが展開していきます。これから先は、とうぶん虚空が舞台になります。
で、結局、この品はどういうことかと言うと、大地が人の比喩で、塔が仏性の比喩で、多宝如来が真理の比喩で、要は、法華経を授受すると、人は皆、本来持っている仏性が塔のように現れ、その中に真理が宿っている・・・。ということらしい・・・.。
そして、お釈迦さまがお説きになった法華経が、多宝如来によって真理であると証明されました。しかし、根拠がイマイチ謎ですが・・・。
文殊菩薩から教化された竜女が、即座に悟りを得ますが、舎利弗はそんなことがあるはず無いと信じません・・・、でも結果的には信じざるをえなくなります。
しかし、竜女はそのままでは、成仏出来ず、男性に変身して成仏するのです。法華経では、『変成男子』とあります。また、梵本では、『女性の生殖器が消え、男性の生殖器が生じる』とあるそうです。
なんで、女性のまま成仏ができないのか・・・謎だ。ブッダの時代は、よほど女性の地位が低い時代だったのかなぁ・・・。
とにかく、ブッダの時代は、女性のまま成仏するなど、とんでもないと思われていた時代だったようです。現代でもまだ、なごりはありますよね・・・。
そして、すべての人を平等に救う教えの法華経だからこそ、女性までもが成仏できるというのはごく当然のことなのです。どんなに女性蔑視の時代にも・・・。つまり、法華経こそが、女性の味方の経典なのです。(ここにもってこれて良かった・・・。)
この品には、いかなる困難にも耐えて忍んで、『法華経』を勧め、受持することが述べられています。
はじめに、お釈迦さまへ薬王菩薩と大楽説菩薩をはじめ、先に授記された8千人の比丘たちが、お釈迦さまが入滅されても、この『法華経』を受持し、学び、人々のために説き広めましょうと申し述べました。
つぎに、お釈迦さまは、突然ですが、叔母(摩訶波闍波提比丘尼)と妻(耶輸陀羅比丘尼)を授記します。先に堤婆達多品で竜女を授記していますが、これは、身近な者や教養の高い人ほど『法華経』を受持するのが難しいことを表しています。
で、この品のポイントですが、法華経が、正しいがゆえに迫害や謗り辱めを受けやすく、それを忍辱の鎧を着て忍び、この教えを説き広めるという一大事のために、あらゆる困難に耐えましょう。ということらしい・・・。
すべての人をこの法華経によって幸せにしたいと誓願すること、などなど。
そして、次の従地涌出品第十五から如来寿量品第十六で法華経の神髄が述べられます。ご期待ください!
他の世界からやって来た菩薩達が、仏の滅後に娑婆世界にとどまって、この教えを説き広めたいと表明します。
しかし、お釈迦さま、そのお申し出を次のようにお断りになりました。
「尊き志をもつ菩薩達よ。その必要はないのです。なぜなら娑婆世界には、あなた方の数をはるかに凌ぐ六萬恒河沙の菩薩がおり、その一人一人の菩薩にも六萬恒河沙の眷族がおり、彼らこそがこの地において法華経を護り、教えを広める使命を持つからなのです。」
この言葉が終わるやいなや大地は激しく振動して裂け、そこから計り知れない数の菩薩達が現れました。その姿はみなお釈迦さまと同様に三十二相という尊い人相をそなえ、全身は金色に輝き、光を放っていました。
この菩薩たちは、娑婆世界の下の虚空に住んでいたのですが、お釈迦さまのお説になったお言葉に応じて大地から湧き出してみもとに参ったのです。
その中に四人の大導師がおられました。その名を上行(じょうぎょう)菩薩・無辺行(むへんぎょう)菩薩・浄行(じょうぎょう)菩薩・安立行(あんりゅうぎょう)菩薩といいました。(四弘誓願を参照のこと)
で、この光景をみていた古参の弥勒菩薩等は、どうも納得がいきません。お釈迦さまは、どうやって短い間にこれだけの沢山の菩薩達を教化されたのか・・・。
と云う感じで、その疑問は、そのまま法華経の神髄を解き明かすキーワードとして、「如来寿量品 第十六」へ引き続くことになります・・・。
従地涌出品での疑問:『お釈迦さまは、どうやって短い間にこれだけの沢山の菩薩達を教化されたのか?』
答えのポイントは、輪廻です。答えは、良医の譬えの解説を参照願います。
そう、『すべての人の魂は、永遠の命で、何度も何度も生まれ変わっては、良因を積むことにより、その縁起で仏になっていくことができる。』
これが、法華経を毎日読誦して感じた、今のレベルでの私の法華経感です。
とにかく、仏は『永遠の命』こと『仏寿無量』で、これを信じきることが出来るか出来ないかが、法華経を理解するキーになるようです。
この17番から28番までが、流通分と云われ、法華経を実践すれば、大変素晴らしい功徳のあることが説かれています。
この分別功徳品では、とにかく『仏寿無量(永遠の命)』を信解すれば、ものすごく大きな功徳があると説かれています。
たとえば、以下の感じです。
80万億那由他劫という長い長い間、五波羅蜜(六波羅蜜から智慧を除く)を行じてえる功徳は、大変なものですが、しかしそれでも、『仏寿無量』をほんの一念にでも信解することよって得られる功徳とくらべると、その百千万億分一にも及ばないそうです。つまり、『仏寿無量』の信解の方が百千万億倍も功徳があるのです。
ホントかよって感じですが、もしホントなら、『仏寿無量』『仏寿無量』『仏寿無量』・・・。
この品も分別功徳品と同じく、法華経には、ものすごく大きな功徳のあることが説かれています。
たとえば、法華経の伝言ゲームで、50番目の人が一偈でも信解したならば、その功徳は、宇宙のあらゆる生あるものに物質的&精神的に布施した功徳より大きいと・・・。
また、ホントかよって感じですが、『仏寿無量』『仏寿無量』『仏寿無量』・・・。
信じることから始まるらしい・・・。
この品も分別功徳品と同じく、法華経には、ものすごく大きな功徳のあることが説かれています。
もし信仰心の深い男女が、法華経を信じ、読誦し、解説し、書写したとしましょう。その人は、以下のような功徳を得ることが出来るのです。
その功徳をもって、すべての感覚・知覚器官の作用を美しく。清らかなものにするでありましょう・・・と。
またまた、ホントかよって感じですが、『仏寿無量』『仏寿無量』『仏寿無量』・・・。
信じることから始まるらしい・・・。
仏の教えが形式化、そして、形骸化された時代に一人の菩薩がいました。その菩薩は、会う人ごとに、会う人ごとに、『私は、あなたを敬います。けっして軽んじません。なぜなら、あなたは、必ず仏になられる方であるからです。』と言って賛嘆するのでした。
ところが、大勢の中にはそんなことを言われて腹を立て、石や瓦を投げつける者がいました。
すると、菩薩は走って逃げ、遠くのほうからまた同じセリフ『私は、あなたを敬います。けっして軽んじません。なぜなら、あなたは、必ず仏になられる方であるからです。』と、大声で唱えるのでした。
そして、菩薩は一生の間、この行を続けたのです。すると、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)が清浄となって、虚空の中からひびいてくる声を聞くように法華経を自得したのです。
すると、寿命が2百万億那由他歳になり、広く人々のためにその法華経の教えを説きました。
で、解説です。この常不軽菩薩品では以下の3つがポイントです。
あぁ、雨にも負けず風にも負けず、私は、常不軽菩薩でありたい・・・。
これが、『如来の十大神力』と云われています。
そして、この『如来の十大神力』を踏まえ、法華経の総まとめの句がつぎに示されます。
『如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘蔵の蔵・如来の一切の甚深の事・皆此の経に於て宣示顕説す。』
とにかく、如来の一切の『正法』『衆生救済力』『秘密の教え』『修行の実践方法』が、すべてこの法華経に注ぎ込んでいると宣言しているのです・・・。あぁ、なんて有り難い、合掌。
釈尊は、法座より起き上がり、菩薩達の頭を撫ぜながら、この法華経の広宣流布を託します。と述べられ、とりあえず、この品で法華経は、ひとまず終わりを迎えます。
では、後の薬王菩薩本事品から普賢菩薩勧発品までは、何かというと、
一編一編が一つの短編ストーリーになっていて法華経実践の大切さを説いています。まぁ、法華経の駄目押しですかね・・・。
『あに まに まね ままね しれ しゃりて しゃみや しゃびたい せんて もくて もくたび しゃび あいしゃび そうび しゃび・・・・・・』
薬王菩薩と薬上菩薩の前世のお話で、王様の父を教化するお話です・・・。
・・・そのとき釈尊は、もろもろの大衆に薬王菩薩と薬上菩薩の前世のお話を語り始めました。
はるかはるかな遠い大昔に、雲雷音宿王華如来という仏さまと妙荘巌王という王さまがいました。
王さまの夫人は、淨徳と言い、また、淨蔵(前世の薬王)と淨眼(前世の薬上)と言う2人の王子がいました。
淨蔵と淨眼は、六波羅蜜を行じ、仏教を信仰しておりました。
しかし、王さまの父は、邪教を信仰しており、2人はなんとか正しい教えの仏教へ改宗してもらいたいと思っていました。
そこで、2人は母に相談しました。すると母は、父へびっくりするような信仰の証しの奇跡をみせれば、改宗できるでしょうとアドバイスをされました。
2人は母のアドバイス通りにいろいろな奇跡を父の前で演じ、父の妙荘巌王を改宗させました、とさ・・・。
で、本品のポイントは、身近な家族の教化の難しさと、指導的立場の人(王様等)の教化の難しさで、それらの人を教化するには、法華経を頭で理解してもらうだけでなく、自ら身を持って示さなければならないということです。
ちなみに、妙荘巌王本事品(みょうそうごんのう ほんじほん)の本事とは、仏弟子が前世に行った事のストーリーです。
最後の最後に大菩薩団を引き連れて娑婆世界に釈尊の説法を聞きに来た大物菩薩の普賢菩薩と釈尊(お釈迦さま)の問答です。
はじめに、普賢菩薩はお釈迦さま(釈尊)へ『仏滅後、どうしたら法華経の真の功徳を得ることができるのでしょうか』とお尋ねになりました。
すると、お釈迦さまは普賢菩薩へ、以下の『四法成就』、を実践すれば、真の功徳を得ることができましょう・・・と、お答えになりました。
それをうかがった普賢菩薩は、感激して次のように申し上げました、
『法華経行者がどこにいても、六牙(六波羅蜜の象徴)の白象王(実践の象徴)にのって応援し守護したいと思います!』
と、お釈迦さまの許可をえて、法華経行者を守護するために陀羅尼(神呪)を説きました。
『あたんだい たんだはだい たんだはて たんだくしゃれ たんだしゅだれ しゅだれ しゅだれはち ぼっだはせんね さるばだらに・・・・・・』
お釈迦さまは、満足そうにうなずかれ、今度は具体的な功徳についてのべられました。
法華経をいろいろ勉強してまいりましたが、おぼろげながら、その神髄が見えてきました。
それは、ズバリ! 『因縁果報(縁起)』と『正しい生活』です。
要は、正しい生活をして(因)、良い(縁)が沢山出来、人生苦が消滅(果)して、幸せ(報)なる。
そして、正しいとは、真理(法)にそった、とういうことです。
人は、良因を積むことで、宇宙の調和と共振し、いつでもどこにでも、法身の釈迦を見ること、感じることが出来るようになる。
すべての人の魂は、永遠の命で、何度も何度も生まれ変わっては、良因を積むことにより、その縁起で仏になっていくことができる。
つまり、仏になっていくこと、言い換えれば法華経の実践こそが、宇宙の調和であり、世界平和実現の礎になる。とまぁ、法華経の神髄とは、こんなところですか、たぶん。
法華経には沢山のギャラリーが登場します。それは、人間(比丘衆)だけでなく、如来、菩薩、神様、非人等などで、 結果的に生きとし生けるものすべてが登場するのです。
逆に云うと、法華経は、生きとし生けるものすべてを救うお経なのです。
慈悲を象徴する菩薩です。お釈迦さまと同じ時代に実在したらしい・・・。
智慧を象徴する菩薩です。こちらは、架空の菩薩です。このような菩薩を『法身の菩薩』といいます。
行徳を象徴する菩薩です。こちらも、架空の菩薩です。六牙の白象王に乗って現れます。六牙とは、六波羅蜜を表し、白象王に乗ってとは、徹底した実践を表します。
従地涌出品で大地から涌出して法華経流布を申し出た菩薩。
従地涌出品で大地から涌出して法華経流布を申し出た菩薩。
従地涌出品で大地から涌出して法華経流布を申し出た菩薩。
従地涌出品で大地から涌出して法華経流布を申し出た菩薩。
常不軽菩薩品で登場する菩薩で、すべての人の仏性を礼拝する菩薩です。
理想の国からやって来た、なぜかウルトラマンのイメージがする菩薩です。
苦しい時に、お願いをなんでも叶えてくれる菩薩・・・、いえいえ、自分がそのような菩薩になれるようにとの見本の菩薩。
以下のように凄い菩薩です。
薬王菩薩の前世で「香油を飲み、また香油を身体に塗ってしみこませ、如来の前で宝衣に自ら火をつけて、こうして自身を灯明として法華経を供養しました。」
釈尊教団の二大柱の一人、智慧第一と言われていました。
空についてよく理解していた、解空第一と言われていました。
教えの解説が得意で、論議第一と言われていました。
釈尊教団の最長老で、頭陀第一と言われていました。(頭陀とは、貧著なく簡素に暮らすこと)
釈尊教団の二大柱の一人、神通力第一と言われていました。
弥多羅尼子という母親が大変すぐれた人だったので、弥多羅尼子富楼那(息子なので男)と呼ばれていました。 後世『富楼那の弁をふるう』といわれる通り、説法第一と言われていました。
「多聞第一」といわれ、当時、いまでは考えられないほどの男尊女卑の時代に比丘尼教団を作ってしまった人です。 どうしてかと言うと、女の人が沢山慕ってくるほどの美男子だったようです。釈尊の従弟
「密行第一」といわれ、人の見ていないところでも常に慈悲のある正しい行いをし、また、高い境地にいながらも、 決してそれを表に出すことなく陰徳を積んだとされています。釈尊の実子。
「天眼第一」といわれ、失明してから、永遠の真理を見る智慧の眼を明るくひらいた。釈尊の従兄。
「持律第一」といわれ、戒律に精通し、様々な事件を調停した。
事火外道という一種の原始宗教の一派で、500人の弟子がいました。
優楼頻螺迦葉の弟。
同じく優楼頻螺迦葉の弟で、世に三迦葉といわれる兄弟です。
大上座の一人で、勇猛端正第一といわれていました。
舎利弗の末弟で、坐禅することを好み、坐禅第一といわれていました。
無病小欲第一といわれ、160歳で入寂したと言われています。
議論がじょうずで、問答第一といわれていました。
釈尊の異母弟で、釈尊の継母で摩訶波闍波提比丘尼の実子。
容貌は、釈尊と瓜二つだといわれていました。
初転法輪の五比丘の一人、『衣裏繋珠の譬え』を説く。
初転法輪の五比丘の一人。
初転法輪の五比丘の一人。
初転法輪の五比丘の一人。
初転法輪の五比丘の一人、舎利弗と摩訶目ケン連を導く。
釈尊の母、釈尊を出産後、7日後にお亡くなりになりました。
釈尊の継母。
釈尊の妻。
釈尊こと悉達多(しつだった)の従兄弟であり、永遠のライバル。前世では、悉達多の師匠だったりする。
また、阿難(アナン)の兄。
釈尊の命を狙い、仏典では悪人の代表として有名。
空中を飛び歩く鬼神。
帝釈天に仕えて音楽を奏している神。
つねに帝釈天と戦っている鬼神。
竜を餌とする鳥の王の鬼神。
天上界で音楽を奏している神。
地竜で、蛇のような鬼神。
暴力的な鬼類。
悪臭を発する腐敗鬼。
人間の死体を食う鬼類。
動物の生き血や生肉を食らう鬼類。
前世で悪業を積み、貪欲が強く、飢渇に苦しんでいる鬼類。
子煩悩な鬼女でしたが、王舎城(おうしゃじょう)の町に来ては、人の子をとって食べてしまいます。釈尊は鬼子母の子をお隠しになり、 半狂乱になった鬼子母へ、『あなたに食べられた子の親の身になってごらん』と諭しました。すると鬼子母は、非をさとり、仏教に帰依して、安産と幼子の守り神になろうと誓願し、鬼子母神となりました。
世間をさまよいあるく鬼女。
藍婆より藍婆の完全藍婆?
まがった歯の羅刹女。
花の歯(?)をもった羅刹女。
黒い歯をもった羅刹女。
髪の毛の多い羅刹女。
厭き満足することのない羅刹女。
首飾りをもった羅刹女。
屋根にのぼって死人の霊魂を呼び戻す鬼女。
すべての生物の精気を吸い取ってしまう鬼女。
法華七喩(ほっけしちゆ)とは、法華経に説かれる7つの譬え話です。
妙法蓮華経譬諭品第三に出てくる譬え話しです。
ある国のある町に、大きな長者がいました。 その家やしきは広大なものでしたけども、門はごく狭いのが一つしかありませんでした。 しかも、家は大変荒れはてていました。
ある日、その家が突然火事になりました。 家の中には、長者の子供達が大勢いて、夢中で遊びたわむれていて、火事に全く気づきません。 長者は、大声で知らせますが、全く聞こえてくれません。 その時、長者は、ふと子供達が車を欲しがっていたことを思い出しました。
そして、火事のことではなく、つぎのように呼び掛けたのです・・・。
『おまえ達の好きな、羊のひく車(羊車)や、鹿のひく車(鹿車)や、牛のひく車(牛車)が門の外にあるぞ、早く行ってとりなさい!』
すると子供達は、その言葉を聞いて正気にもどり、われ先にと燃えさかる家から出て助かることができました。 長者が、子供達が助かって安心していると、子供達は、口々に約束の車をせがみます。 すると、長者は、子供達が欲しがっていた車ではなく、大きな白牛のひく大変豪華な車(大白牛車)をみんなにひとしく与えたのでありました・・・。
父の長者は、いうまでもなくお釈迦さまです。 子供たちは、われわれ凡夫です。 荒れはてた家は、現実の人間社会です。 火事は、われわれの煩悩をさしています。
われわれ凡夫は、物質、肉体などにとらわれて、なかなか苦しみからのがれられません。 そこで、お釈迦さまは、いろいろな教えをお説きになりました。 まずは、声聞(羊車)で、とにかくお教えを聞きなさい。 つぎに、縁覚(鹿車)で、とにかくお教えを体験しなさい。 最後に、菩薩(牛車)で、とにかくお教えで沢山の人をお救いしなさい。 などなどです。
そして、この3つ(三乗)の教えを実践して、人格を高めて歩んでいけば・・・、ある一つの真理(大白牛車)にたどり着くのです・・・。
妙法蓮華経信解品第四に出てくる譬え話しです。
幼い時に父(長者)の屋敷をさまよいい出て、ゆくえも知らず50年・・・、放浪しながら他国で貧乏な暮らしを続けいた、一人の貧しい子(窮子)がいました。
そして、放浪で知らないまま本国へもどり、偶然、父とは知らず父の立派な屋敷の前で再会しました。 父親は、すぐ我が子だと気づきましたが、窮子は気づかず、立派な父に畏れをなしてしまい、屋敷から立ち去りました。
しかし、父親は、使用人へ窮子と同じような貧しい恰好をさせて近づきさせ、屋敷で働くように仕向けました。 そして、窮子は、屋敷で働くようになりました。
父親は、始めお便所掃除などの汚れ仕事から徐々に財産の管理などの重要な仕事へと段階的に導きました。 窮子も、始めの卑屈な心から次第に菩薩のような心へと段階的に変化していったのです・・・。
そして、父親は臨終間じかに、大勢の人の前で、この窮子は私の実の子ですと真相を明らかにしました。 窮子は、昔の極貧の境遇と、それに甘んじていた志の低さにくらべ、父の莫大な財産を得た身の広やかな思いは、生まれてはじめて味あう喜びでありました・・・。
もちろん、父親(長者)はお釈迦さまの喩えで、そして、窮子はわれわれ凡夫の喩えです。 お釈迦さまは、われわれ凡夫が、志の低いところから徐々に高い所に導いて、最後にはすべての人が、最高の境地で達することができるのです。と説かれました。
そして、父親(長者)の言うことを信じ、理解して、窮子は父親(長者)の後を継ぎ、最高の境地を手に入れたのです・・・。
妙法蓮華経薬草諭品第五に出てくる譬え話しです。
この地上には、いろいろさまざまな草木が生い茂っています。その草木は、大きさにも大・中・小があり、性質もすがた形も、千差万別です。 しかし、すべての草木に共通していることは、ひたすら雨のうるおいを欲し求めていることです。 そして、雨は、どこにでも、どの草木にも、同じように平等に降りそそぎます。ところが、それを受ける草木の方では、その大小や種類の相違によって受け取り方が違ってきます。
仏の教えと衆生との関係もこれと同様であることを知らなければなりません・・・。
この譬えは、差別相と平等相について述べています。
人々の天分や性質は、一人ひとり違います。生い立ちも、健康も、環境も、職業も、それぞれ違います。 そういう様々な条件の違いがあるため、人々が等しくもっている仏性は、まったく平等であるにもかかわらず、真理の雨の受け方にさまざまな違いが生じてくるのです・・・。(差別相)
しかし、いくら受け方が違っても、それぞれの人が真理の雨を受けて、天分の性質のままに成長し、それぞれの花を咲かせ、それぞれの実を結ぶという点において、全く平等なのです・・・。(平等相)
つまり、人間は、それぞれにすがたは違って(差別相)いても、それぞれに成長していくところは、全く同じ(平等相)で、この事を認識することにより、自分もほんとうに生かし、他の人もほんとうに生かす正しい生き方ができるわけです。
妙法蓮華経化城諭品第七に出てくる譬え話しです。
長くけわしい非常に困難な道を、宝物を探し求めて旅をしている一行がありました。一行の中には、もう疲れてしまったり、この道は恐ろしくて行く気にならなと言い出しました。そこで、リーダーは、ひとつの大きな城を幻としてあらわしたのです。
一行は、その城で休息して疲れをすっかり癒し、そして、それを見計ってリーダーは、その幻の城を消してしまい、さぁ、本当の宝物のある場所はもうすぐですよと一行をはげまし、そこへ導きつづけたのでした・・・。
「長くけわしい非常に困難な道」とは、われわれ人生の旅路です。人生での出来事に疲れてしまったり、迷いが生じた時に、とりあえず、迷いを除いて、心に安心を得るようにみちびいてあげるのです(化城のこと)。つまり、「目の前に現れる現象は、仮の現われに過ぎないので、それにふりまわされるな」ということです。
そして、捜し求めている宝物とは、「創造」と「調和」のことで、何を「創造」するかというと、「調和」した平和な世界ということです。これこそが、捜し求めていたこの上のない宝物だったのです・・・。
妙法蓮華経五百弟子受記品第八に出てくる譬え話しです。
貧乏な『ある人』が『友人』の家に訪問し、ごちそうになり、酒に酔って眠ってしまいました。 ところが、その『友人』は、急に用事で旅立つことになりました。 寝ていた『ある人』を起こすのも気の毒と思い、また、貧乏から脱出できるようにと着物の裏の襟に『宝石』を縫い付けてから旅立ちました。
やがて、目を覚ました『ある人』は、『友人』がいなくなっているので、その家を立ち去り、相変わらず貧乏な生活を何年も続けていました。
ずいぶんたってから、『友人』は、『ある人』にバッタリ出会いました。 『友人』は、哀れな『ある人』を見て、「なんとバカなことだ、着物の裏の襟の宝石を売れば、素晴らしい生活ができるのだよ」といいました。
貧乏な『ある人』は、我々凡夫です。『友人』とは、お釈迦様です。着物の裏の襟の『宝石』は、人の心の奥の仏性です。
要は、すべの人は、仏性(宝石)を持っているが、なかなか気づくことができず、苦の人生をさ迷うってしまう。救われるには、その仏性に気づき、仏と同じ命を生きていることに気づけばよいのだと・・・。
妙法蓮華経安楽行品第十四に出てくる譬え話しです。
非常に強いある国の王が、命令に従わない多くの小国を次々と討伐しました。その戦いで手柄があった武将には、領地や衣服や宝石などを褒美として与えましたが、自分の髪に結ってあった明珠の飾りだけは、与えませんでした。
なぜならば、それはたった一つしかない最上の宝なので、もしむやみにこれを与えたら、王の一族が驚き怪しむだろうと考えたからです。
しかし、くらべもののないようなすごい手柄を立てた者がいたら、おしげもなく髪に結ってあった明珠のを与えるでしょう。
この譬えは、法華経が難信難解なので、機根ない人に無闇に説いては行けませんよ。しかし、機根ができれば、おしげもなく法華経を説きなさい。ということの譬えです。
つまり、仏は、禅定と智慧で法の国を治める王です。菩薩達が、衆生を教化して仏道に入ると、 無漏(迷いがなくなる)や根力(精進の力)や涅槃(煩悩を滅する)などを褒美として与えます、 そして、菩薩達が仏法にたいする迷いをなくし、しかも信心が固くて大丈夫だと見極めたら、はじめて法華経を説くのです。
妙法蓮華経如来寿量品第十六に出てくる譬え話しです。
ある所にどんな病気でも治す名医がいました。 また、その医師にはたくさんの子供がありました。 ある時、用があって、他国へ出かけました。
その留守中に子供達は、したい放題の生活をして、間違って毒薬を飲んで、地べたにころげ回って、苦しがっていました。 そこへ、突然、父が帰って、その状態を見て、良く効く薬を作り、子供達へ与えました。
何人かの子供は、その薬を飲んで治りましたが、ほとんどの子供達は、飲みませんでした。 なぜかというと、本心を失っている子供達には、その薬が良い薬と思えなかったのです。そこで、父は、何とか子供達に薬を飲まそうと、ある方法を考え、子供達に告げました。
『私は年をとって、体が弱り、あまりさきが長くない。それなのにまた用があって他国へ出かけなければならないのだ』と良薬を置いて、旅たって行きました。 そして、旅先から使いをやって『父上は、お亡くなりになりました』と告げさせたのです。
それを聞いた子供達は、大変驚き、悲しみましたが、逆に本心を失っている子供は、ハッと目を覚ましたのです。そして、良薬を飲み、毒による病は治りました。 そして、そこに父が旅先から帰ってきて子供達のまえに姿を表したのです。
この譬えは、仏の神髄を説いたものです。どこが、神髄なんだって声がきこえますが・・・。
まず、医師はお釈迦さまで、子供達は私達衆生です。そして、良薬は法華経です。 お釈迦さまは、序品から寿量品まで『生身の釈迦』が、実は、『法身の釈迦』でもあるのだ・・・と、手を変え品を変え述べているのです。
そして、『生身の釈迦』が入滅するのは、私達衆生を教化するための方便で、本当は滅度したのではなく、『法身の釈迦』として、いつでもどこにでも、私達衆生のために法(法華経)を説いているのだと、明らかにされたのです。
つまり、仏の神髄は、『法身の釈迦』としての、いつでもどこにでも、私達衆生のために法を説いている『永遠の命』だったわけです。
そして、その法とは、すべての人が正しい生活(法華経の実践)をしていけば、世界が大調和し、すべての人が幸せになれるということらしい。
だから、まず始めに自ら正しい生活を実践し、そして、あなたにも実践していただいて、みんなで幸せになりましょう・・・ということが、法華経の教えなのです。
「法華経のあらまし」を読む前の予備知識「法華経概説」をシリーズにしました。
一気にお読みください!
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お釈迦さまがお説きになったお経は、約1700種あると云われていますが・・・。実は、直筆のものは無いそうです。
この沢山のお経は、お釈迦さまの弟子達が、お釈迦さまが亡くなってから、編集したもので、法華経も仏滅後400~600年後に編集されました。
その後、インドに留学していた鳩摩羅什が中国に持ち帰り翻訳し、天台大師に引き継がれます。また、同時期に日本にも伝わり聖徳太子が「十七条の憲法」を法華経をもとに作ったとされています。
その後、奈良朝の終わり頃、最澄が天台宗を日本にも起こし・・・。鎌倉時代に法華経のエース、日蓮が登場し、法華経を元に日蓮宗を起こします。
まぁ、簡単ですがこんなところです。尚、鳩摩羅什、天台大師、聖徳太子、最澄、日蓮は、仏教界では、大谷翔平級の人達です。
智慧系 | 慈悲系 | 行徳系 |
---|---|---|
文殊菩薩 | 弥勒菩薩 | 普賢菩薩 |
多宝如来 | 釈迦如来 | 阿弥陀如来 |
法 | 仏 | 僧 |
法身 | 応身 | 報身 |
如来の室 | 如来の衣 | 如来の座 |
諸行無常 | 諸法無我 | 涅槃寂静 |
声聞 | 縁覚 | 菩薩 |
四諦 | 十二因縁 | 六波羅蜜 |
小乗 | 大乗 | 一乗 |
無量義経 | 法華経 | 懺悔経 |
縁起の法 | 永遠の命 | 法の実践 |
呼ばれたら返事、ハイ! | 朝の挨拶、おはよう! | 脱いだ靴は、そろえるよ! |
法布施 | 財布施 | 身布施 |
敬供養 | 利供養 | 行供養 |
自分が変れば相手が変る | まずは人様 | すべては自分 |
悟ればこの身がすなわち仏であり、みんなが悟ればすなわちこの世が寂光土であるという教えです。仏はわれわれの心のなかにある、極楽はわれわれの日常生活のなかにあるという教えなのです。
では、上記を踏まえて、各品毎のあらましにつづきます。
ブログだと投函した順番が逆順になってしまうので、正順で読める様にしました。
法華経あらまし前半1〜24品まで、一気にお読みください!
では、上記を踏まえて、各品毎のあらましにつづきます。
「もろもろの仏が悟った智慧は、深遠で大変難しく、舎利弗をはじめとする皆さんには到底理解することができません。もし、お話ししても、皆さんの頭が混乱するだけなので、説くのはやめましょう。」
しかし、舎利弗は余計に聞きたくなり、再度、説いてくださいとお願いしましたが、やはり、駄目で、三度目でやっと、それほど云うならと説法をお話し始めました。(これが有名な三止三請です。)
すると、今までお釈迦さまの教えを聞いて、自分はもう悟っていると思っている弟子達五千人が、いまさら新たな教えなど聞き耳もちませんとその場を退場していきました。
すると、お釈迦さまは、その弟子達を止めもせず、あらためて、舎利弗へこの教えを聞くに相応しい人だけ残りましたと説法をお話し始めました。
しかし、この品では、肝心の法華経については、至らず、さわりで、因果の法則(十如是)や方便についてお話しになりました。
十如是は、相、性、体、力、作、因、縁、果、報、がすべて等しいことであるとする法門で、諸法実相とも云います、あとで詳しく説明を致します。
また、方便は、正しい手段のことで、それぞれの人に、その時、その場所により、無数の教えを今まで説いてきましたが、実は、ある一つの教え(真理)がすべて元になっていて、そこに気づき、理解できれは、舎利弗をはじめとする皆さんも、仏になれますよ・・・。
と、云う事で、方便品は終わり、『譬諭品 第三』へ続いていきます・・・。
方便品で、お釈迦さまから、つぎのようなお言葉を承った舎利弗は・・・。
『無数の方便で、それぞれの人にふさわしい、適切な道によって教えが説かれ、そして、ある一つの真理を会得すれば、舎利弗をはじめとするすべての皆さんも仏になることが出来ますよ。』
これを聞いて、自分も仏になれるのだと大変喜びました。そこで、舎利弗は「ある一つの真理」とはどんなものでしょうかと、お釈迦さまへおうかがいしました。すると、お釈迦さまは、『三車火宅の譬え』をお話し始めたのです。
『三車火宅の譬え』をお話し終えたお釈迦さまは、今まで無数の方便の尊い教えを説いてきましたが、実はそれは、ただ唯一の一番尊い真理を説いていたのです・・・。
ということで、法華経の神髄は、まだ、語られず、信解品へ続くことになります。
信解品 第四で、摩訶迦葉らから『長者窮子の譬え』を聞いた、お釈迦さまは、「よろしい、よく分かってくれました。しかし、如来は、もっともっと計り知れないほどの功徳があるのです。如来は、一切の教えを知り、それを自由自在に支配するものです。そして、すべてのものごとの真相を明らかに究め尽くして、多くの衆生にたいして、その一切を知るものの智慧を示されるのであります・・・。」と、続いて『薬草の譬え』をお説きになりました。
この品は、『信解品 第四』で、仏の教えについて理解した内容を『長者窮子の譬え』にして申し上げた、慧命須菩提、摩訶迦旃延、摩訶迦葉、摩訶目ケン連らが、『薬草諭品 第五』で『薬草の譬え』を聞き、ますます、教えを深め、そして、そのことに対して、お釈迦様が、仏法を理解したこと認め、あなた方も仏になれますよと、授記されます。
授記とは保証のことで、保証にはいつも条件があり、それは、これからも行学二道の研修に励み、多くの人々を仏道に導いた後・・・、ということです。つまり、これからが大事で、理解した仏法を実践してくださいってことです。
はるかなる大昔に、大通智勝如来という仏さまがおられました。この仏さまには、出家するまえに16人の子供がいました。16人の子供は、みな父上を見習って法華経を説くために仏さまになりました。そして、16番目の仏さまが娑婆国担当の釈迦牟尼仏でありました。
釈迦牟尼仏ことお釈迦さまは、過去世に法華経の教えによって教化した衆生たちこそ、いまの弟子たち及び未来世の信者(現在の我々)に他ならないことを、明らかにしました。
真に悟りを得る道は2つあるものでは、ありません。ただ一つ法華経の教えがあるのみです。しかし、五官の欲にとらわれて、みずから苦しみを招いている人もいますので、そういう人達のために、とりあえず、迷いを除いて、心に安心を得るようにみちびいてあげるのです、と。このことを譬え話で説明いたしましょうと『化城宝処の譬え』を説かれ始めます・・・。
この品は、お釈迦さまが富楼那(フルナ)をはじめとする5百人の弟子(阿羅漢)に成仏の保証(受記)されます。
阿羅漢たちは、受記されるにいたった悟ったことを『衣裏繋珠の譬え』にして、申し上げました。
この譬え話が終わると、「お釈迦さまも、この友人のようなお方です。まだ菩薩であられたころ、私たちに、『だれしも仏性が具わっているのだから、修行して仏の悟りをひらくように』と教えてくださってのですが、私たちの心は眠りこけていて、そのことを知らず、ただ煩悩を除くことだけで、それが最上の悟りだと思い込んでおりました。
今、ここに、お釈迦さまは私どもの目をさまさせてくださいました。と心からお礼を申し上げるのでした・・・。
序品第一から前回の法師品第十までは、第一幕で、この品から、第二幕の始まりになります。
第一幕の舞台は、王舎城(おうしゃじょう)の霊鷲山(りょうじゅうせん)でしたが、この第二幕からは、霊鷲山の上空にいきなりなってしまいます。
どういうことかと言うと、大地から東京タワーのような塔がいきなり湧き出して来て、中から『お釈迦さまの説く法華経は、すべて真実です』という大きな声が聞こえてきました。
不思議に思った大楽説菩薩は、お釈迦さまに、中には何方がいるのですかとお尋ねすると、『如来の全身である多宝如来です』とお答えになりました。
そして、多宝如来が塔の中にお釈迦さまを招き入れ、一つの椅子に2人並んでお座りになりました。すると弟子達もその近くまで行きたいと思うと同時に、それを察知したお釈迦さまが、神通力で弟子達を虚空(上空)へ引き上げられました。
と、こんな感じで大スペクタルが展開していきます。これから先は、とうぶん虚空が舞台になります。
で、結局、この品はどういうことかと言うと、大地が人の比喩で、塔が仏性の比喩で、多宝如来が真理の比喩で、要は、法華経を授受すると、人は皆、本来持っている仏性が塔のように現れ、その中に真理が宿っている・・・。ということらしい・・・.。
そして、お釈迦さまがお説きになった法華経が、多宝如来によって真理であると証明されました。しかし、根拠がイマイチ謎ですが・・・。
文殊菩薩から教化された竜女が、即座に悟りを得ますが、舎利弗はそんなことがあるはず無いと信じません・・・、でも結果的には信じざるをえなくなります。
しかし、竜女はそのままでは、成仏出来ず、男性に変身して成仏するのです。法華経では、『変成男子』とあります。また、梵本では、『女性の生殖器が消え、男性の生殖器が生じる』とあるそうです。
なんで、女性のまま成仏ができないのか・・・謎だ。ブッダの時代は、よほど女性の地位が低い時代だったのかなぁ・・・。
とにかく、ブッダの時代は、女性のまま成仏するなど、とんでもないと思われていた時代だったようです。現代でもまだ、なごりはありますよね・・・。
そして、すべての人を平等に救う教えの法華経だからこそ、女性までもが成仏できるというのはごく当然のことなのです。どんなに女性蔑視の時代にも・・・。つまり、法華経こそが、女性の味方の経典なのです。(ここにもってこれて良かった・・・。)
この品には、いかなる困難にも耐えて忍んで、『法華経』を勧め、受持することが述べられています。
はじめに、お釈迦さまへ薬王菩薩と大楽説菩薩をはじめ、先に授記された8千人の比丘たちが、お釈迦さまが入滅されても、この『法華経』を受持し、学び、人々のために説き広めましょうと申し述べました。
つぎに、お釈迦さまは、突然ですが、叔母(摩訶波闍波提比丘尼)と妻(耶輸陀羅比丘尼)を授記します。先に堤婆達多品で竜女を授記していますが、これは、身近な者や教養の高い人ほど『法華経』を受持するのが難しいことを表しています。
で、この品のポイントですが、法華経が、正しいがゆえに迫害や謗り辱めを受けやすく、それを忍辱の鎧を着て忍び、この教えを説き広めるという一大事のために、あらゆる困難に耐えましょう。ということらしい・・・。
すべての人をこの法華経によって幸せにしたいと誓願すること、などなど。
そして、次の従地涌出品第十五から如来寿量品第十六で法華経の神髄が述べられます。ご期待ください!
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法華経あらまし後半15〜28品まで、一気にお読みください!
他の世界からやって来た菩薩達が、仏の滅後に娑婆世界にとどまって、この教えを説き広めたいと表明します。
しかし、お釈迦さま、そのお申し出を次のようにお断りになりました。
「尊き志をもつ菩薩達よ。その必要はないのです。なぜなら娑婆世界には、あなた方の数をはるかに凌ぐ六萬恒河沙の菩薩がおり、その一人一人の菩薩にも六萬恒河沙の眷族がおり、彼らこそがこの地において法華経を護り、教えを広める使命を持つからなのです。」
この言葉が終わるやいなや大地は激しく振動して裂け、そこから計り知れない数の菩薩達が現れました。その姿はみなお釈迦さまと同様に三十二相という尊い人相をそなえ、全身は金色に輝き、光を放っていました。
この菩薩たちは、娑婆世界の下の虚空に住んでいたのですが、お釈迦さまのお説になったお言葉に応じて大地から湧き出してみもとに参ったのです。
その中に四人の大導師がおられました。その名を上行(じょうぎょう)菩薩・無辺行(むへんぎょう)菩薩・浄行(じょうぎょう)菩薩・安立行(あんりゅうぎょう)菩薩といいました。(四弘誓願を参照のこと)
で、この光景をみていた古参の弥勒菩薩等は、どうも納得がいきません。お釈迦さまは、どうやって短い間にこれだけの沢山の菩薩達を教化されたのか・・・。
と云う感じで、その疑問は、そのまま法華経の神髄を解き明かすキーワードとして、「如来寿量品 第十六」へ引き続くことになります・・・。
従地涌出品での疑問:『お釈迦さまは、どうやって短い間にこれだけの沢山の菩薩達を教化されたのか?』
答えのポイントは、輪廻です。答えは、良医の譬えの解説を参照願います。
そう、『すべての人の魂は、永遠の命で、何度も何度も生まれ変わっては、良因を積むことにより、その縁起で仏になっていくことができる。』
これが、法華経を毎日読誦して感じた、今のレベルでの私の法華経感です。
とにかく、仏は『永遠の命』こと『仏寿無量』で、これを信じきることが出来るか出来ないかが、法華経を理解するキーになるようです。
この品も分別功徳品と同じく、法華経には、ものすごく大きな功徳のあることが説かれています。
たとえば、法華経の伝言ゲームで、50番目の人が一偈でも信解したならば、その功徳は、宇宙のあらゆる生あるものに物質的&精神的に布施した功徳より大きいと・・・。
また、ホントかよって感じですが、『仏寿無量』『仏寿無量』『仏寿無量』・・・。
信じることから始まるらしい・・・。
その功徳をもって、すべての感覚・知覚器官の作用を美しく。清らかなものにするでありましょう・・・と。
またまた、ホントかよって感じですが、『仏寿無量』『仏寿無量』『仏寿無量』・・・。
信じることから始まるらしい・・・。
あぁ、雨にも負けず風にも負けず、私は、常不軽菩薩でありたい・・・。
これが、『如来の十大神力』と云われています。
そして、この『如来の十大神力』を踏まえ、法華経の総まとめの句がつぎに示されます。
『如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘蔵の蔵・如来の一切の甚深の事・皆此の経に於て宣示顕説す。』
とにかく、如来の一切の『正法』『衆生救済力』『秘密の教え』『修行の実践方法』が、すべてこの法華経に注ぎ込んでいると宣言しているのです・・・。あぁ、なんて有り難い、合掌。
釈尊は、法座より起き上がり、菩薩達の頭を撫ぜながら、この法華経の広宣流布を託します。と述べられ、とりあえず、この品で法華経は、ひとまず終わりを迎えます。
では、後の薬王菩薩本事品から普賢菩薩勧発品までは、何かというと、
一編一編が一つの短編ストーリーになっていて法華経実践の大切さを説いています。まぁ、法華経の駄目押しですかね・・・。
『あに まに まね ままね しれ しゃりて しゃみや しゃびたい せんて もくて もくたび しゃび あいしゃび そうび しゃび・・・・・・』
薬王菩薩と薬上菩薩の前世のお話で、王様の父を教化するお話です・・・。
・・・そのとき釈尊は、もろもろの大衆に薬王菩薩と薬上菩薩の前世のお話を語り始めました。
はるかはるかな遠い大昔に、雲雷音宿王華如来という仏さまと妙荘巌王という王さまがいました。
王さまの夫人は、淨徳と言い、また、淨蔵(前世の薬王)と淨眼(前世の薬上)と言う2人の王子がいました。
淨蔵と淨眼は、六波羅蜜を行じ、仏教を信仰しておりました。
しかし、王さまの父は、邪教を信仰しており、2人はなんとか正しい教えの仏教へ改宗してもらいたいと思っていました。
そこで、2人は母に相談しました。すると母は、父へびっくりするような信仰の証しの奇跡をみせれば、改宗できるでしょうとアドバイスをされました。
2人は母のアドバイス通りにいろいろな奇跡を父の前で演じ、父の妙荘巌王を改宗させました、とさ・・・。
で、本品のポイントは、身近な家族の教化の難しさと、指導的立場の人(王様等)の教化の難しさで、それらの人を教化するには、法華経を頭で理解してもらうだけでなく、自ら身を持って示さなければならないということです。
ちなみに、妙荘巌王本事品(みょうそうごんのう ほんじほん)の本事とは、仏弟子が前世に行った事のストーリーです。
最後の最後に大菩薩団を引き連れて娑婆世界に釈尊の説法を聞きに来た大物菩薩の普賢菩薩と釈尊(お釈迦さま)の問答です。
はじめに、普賢菩薩はお釈迦さま(釈尊)へ『仏滅後、どうしたら法華経の真の功徳を得ることができるのでしょうか』とお尋ねになりました。
すると、お釈迦さまは普賢菩薩へ、以下の『四法成就』、を実践すれば、真の功徳を得ることができましょう・・・と、お答えになりました。
それをうかがった普賢菩薩は、感激して次のように申し上げました、
『法華経行者がどこにいても、六牙(六波羅蜜の象徴)の白象王(実践の象徴)にのって応援し守護したいと思います!』
と、お釈迦さまの許可をえて、法華経行者を守護するために陀羅尼(神呪)を説きました。
『あたんだい たんだはだい たんだはて たんだくしゃれ たんだしゅだれ しゅだれ しゅだれはち ぼっだはせんね さるばだらに・・・・・・』
お釈迦さまは、満足そうにうなずかれ、今度は具体的な功徳についてのべられました。
法華経をいろいろ勉強してまいりましたが、おぼろげながら、その神髄が見えてきました。
それは、ズバリ! 『因縁果報(縁起)』と『正しい生活』です。
要は、正しい生活をして(因)、良い(縁)が沢山出来、人生苦が消滅(果)して、幸せ(報)なる。
そして、正しいとは、真理(法)にそった、とういうことです。
人は、良因を積むことで、宇宙の調和と共振し、いつでもどこにでも、法身の釈迦を見ること、感じることが出来るようになる。
すべての人の魂は、永遠の命で、何度も何度も生まれ変わっては、良因を積むことにより、その縁起で仏になっていくことができる。
つまり、仏になっていくこと、言い換えれば法華経の実践こそが、宇宙の調和であり、世界平和実現の礎になる。とまぁ、法華経の神髄とは、こんなところですか、たぶん。