2025年3月1日土曜日

少欲知足

 


今日のテーマは少欲知足です。意味は読んで字の如く、欲を少なくして足りることを知る。

 

実は、少欲知足という言葉は、普賢菩薩勧発品 第二十八に出てくるのです。 つまり、少なくとも今から約2000から2500年前からある言葉なのです。 

 

 現代は、乱獲飽食エネルギー大量消費の時代になって持続不可能な世界になりつつあります。 (温室効果、オゾン層破壊、異常気象、森林伐採、資源枯渇・・・) 一日も早く持続可能な世界に戻さなければ、なりません。 それには、少欲知足がキーワードになるような気がするのです。

 

とにかく、一人ひとりが、一日も早く、乱獲飽食エネルギー大量消費をやめ、少欲知足に目覚めて、環境にやさしい生き方をして欲しい(もちろん自戒を込めて)。 このままでは、次世代(子供、孫達・・・)につけが沢山まわって、大変な苦労を負わせることになってしまう・・・。

 

ちなみに、少欲知足は小欲知足と勘違いし易いですね。あくまでも少欲知足です。小欲知足の方だと、持続可能な世界を実現させる大きな欲はダメになってしまいます(^^;;


2025年2月28日金曜日

立哨と常不軽菩薩


私のお仕事は施設警備員で、施設の玄関ロビーで立哨をしています。

立哨での具体的な仕事の一つは、実は、挨拶だったりします。

  • 出社時は、「おはようございます。」
  • 退社時は、「おつかれさまでした。お気をつけてお帰りください。」

これを、集団の時は無理なのですが、基本的には一人ひとりに行います。


挨拶をしていると、必ず挨拶を返してくれる人、絶対に挨拶を返さない人が、ハッキリしてきます。挨拶を返さない無視する人は、警備員如きに挨拶されてもなぁって感じなのかな・・・


挨拶を返してくれる人には、すごく親しみがわき、会えると楽しい気持ちになれます。
逆に、絶対に挨拶を返さない人には、顔には出しませんが、嫌な気持ちになります。


妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十に以下の逸話があります。

 

仏の教えが形式化、そして、形骸化された時代に一人の菩薩がいました。その菩薩は、会う人ごとに、会う人ごとに、『私は、あなたを敬います。けっして軽んじません。なぜなら、あなたは、必ず仏になられる方であるからです。』と言って賛嘆するのでした。
ところが、大勢の中にはそんなことを言われて腹を立て、石や瓦を投げつける者がいました。
すると、菩薩は走って逃げ、遠くのほうからまた同じセリフ『私は、あなたを敬います。けっして軽んじません。なぜなら、あなたは、必ず仏になられる方であるからです。』 と、大声で唱えるのでした。

 

私は「常不軽菩薩」の修行を行っているだ…と思い、今日も全員に挨拶をするのでした。



どんなに無視されようとも、真心から挨拶を行じないといけませんね。自戒をこめて…。

2025年2月27日木曜日

燈明日記ブログ: 私と立正佼成会

燈明日記ブログ: 私と立正佼成会:   

 法華経ブログ を読んでくださっている方は、私が「立正佼成会」のダメダメ信者だと知っていると思いますが、今日は、ちょっと「立正佼成会」について語ってみたいと思います。 尚、公式的な 「立正佼成会」を知りたい方は 本部ホームページ をご覧ください。   さて私は、生まれた時から、...

一大事の因縁とは


 

一大事の因縁とは、妙法蓮華経方便品第二に、以下の一節が出てきます。

 

諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なるを得せしめん

欲するが故に、世に出現したもう。

衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。

衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。

衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。

舎利弗、是れを諸仏は唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうとなづく。

 

要約すると、仏さま(諸仏)は、我々(衆生)の良心(仏性・仏知見)を「開き」「示し」「悟らせ」「正しい道に入らしめる」ため、この世に出現したとのことです。


逆にいうと、我々は、仏道とご縁になることにより、良心(仏性)に目覚め、正しい行いをしていくことが、結果的に幸せになれるよ〜って事らしい(^o^)


2025年2月26日水曜日

認めれば認められる

最近、この法華経ブログを再開して、こんなにも内容も見た目もいいブログなのに、アクス数が少ないと思っていたら・・・、ネットで以下のメッセージを見つけました。

 

いくら努力しても、人は自分のことを正しく評価してくれないと不満をもらす人がいます。その不満で、やる気をなくしたりヤケを起こしたりしたら、自滅の道をたどることになってしまいます。そこのところで、ちょっと見方を変えて「では私は、人のことをどれだけ認めてあげていただろうか」と考えてみてほしいのです。あらためて自分を振り返ると、自分も人のことをあまり認めてあげていないのですね。

人に認めてもらいたかったら、人を認められる自分になるほうが先です。その心のゆとりが持てると、人の目を気にして一喜一憂することがなくなります。人に認められようが認められまいが、気にならない。自分のなすべきことに黙々と励み、喜んで人さまの下積みに徹していられるようになってきます。

いつも申し上げるように、信仰者の安らぎは仏さまがすべてご照覧だという安心感にあります。樹木の根は見えませんが、下に深く根を下ろせば下ろすほど幹や枝葉は上に伸びていきます。無理やり人の目を自分に引きつけようとするよりも、自分が大きく育っていけばいいのです。高くそびえる木は人の目を引かずにいないのですから。


庭野日敬著『開祖随感』より

 

さすが、法華経大家の開祖様、ありがとうございます。

まずは、相手を認め、自分のなすべきことに黙々と励み、喜んで人さまの下積みに徹しられそうです(^o^)


そう思って、 よそ様のブログを読んでみたら、自分が如何に文才がないことを痛感した😓

とにかく、少しでも人さまのお役にたてるような文章が書けるようにと、黙々と励むしかない…

2025年2月25日火曜日

見えない世界からの好意

 


一見、あやしいタイトルになっていますが、正月、家内の実家に行って、お祖母さん(ママのママ)から聞いた話の要約です。

 

信心深いお祖母さんは、仏さまに毎日欠かさず、お経(法華経)を読誦しています。すると、困ったときに必ず、仏さまが助けてくれる(お手配が付く)とのことでした。


これは、理屈ではなく、お祖母さん(90歳)の経験と見聞きから来ることなのです。好意でお経を読誦すると、それが通じ、好意が返ってくる・・・

 

たとえば、私の場合、立哨で普段見も知らない社員さん達に毎日挨拶をしています。
好みの人には特に好意をもって挨拶をしています。


すると、その好意が伝わり、その人から好意をもって挨拶が返ってくるのです。
これは、経験からくる紛れもない事実なのです。


と、同じように見えない世界の仏さまに好意をもって挨拶をすれば、その好意が伝わり、仏さまからも好意をもって返ってくるものと思うのです。 


つまり、お祖母さんの言っていることは、真実なのだと思えるのです。そう、見えない世界から好意が来るのです!!


決して、頭がおかしくなったわけではありません。普段から、嫌々ながらではなく、好意を持ってご供養(法華経読誦)を行なっていれば、本当に困ったときに、仏さまから好意をもらえるのだと思うのです(^o^)

 

2025年2月24日月曜日

笑顔はエネルギー!

 

 

笑顔は、身の布施と云います。

 

施設警備員の私は、立哨時に通る人すべてに挨拶をしますが、殆どの人は形式的な挨拶か無視です。


しかし、中には笑顔で挨拶を返してくれる人が少しいるのです。

 

するとなにか嬉しくなり、よいエネルギーをもらった気がするのです。


老若男女を問わず、そのようになるのです。あまり面白くない仕事の中でも、なにか面白さはありますね。


笑顔は間違いなくエネルギーで、そのエネルギーで今日も仕事にやりがいを感じる事が出来るのです。


もし、あなたが警備員さんから、挨拶をされたら、できれば笑顔で挨拶を返してくださいね。よろしくお願いします。


そうしたら警備員さんも、ありったけのエネルギーを送りますよ!


と書きましたが、やはり、家に帰ってきての奥さんの笑顔が一番のエネルギーかな。すみません。親バカでなく、奥さんバカでした(^o^)

 

お金がない分、笑顔で身の布施をしないとね(^^;;;

2025年2月23日日曜日

警備員のちょっといい話

 


実は、この記事は、法華経ブログにアップするのは場違いかなと思ったのですが、相手の仏性を拝むと云う、法華経の精神と一致するのでここにもアップすることにしました。では、行きます。

 

警備員の新任教育での講師さんから聞いた、ちょっといい話です。

 

その講師さんがまだ現場で警備をしていた時のことでした。

学校の警備をしており、門のところで立哨して、先生や生徒達全員に挨拶をしていました。

みなさん、挨拶を返してくれるのですが、どんなに挨拶しても挨拶を返してくれない女の子がいたのです。

しかし、いつかは挨拶を返してくれると思い、特にその女の子には必ず挨拶をしていました。

ある時、学校で学園祭がありました。

その女の子が父親と手をつないで門のところにきて言いました。


『お父さん、この警備員さん、いつも私へ挨拶してくれるの、私、それがうれしくてうれしくて…』


それを聞いた当時の講師さんも、うれしくてうれしくて涙が止まらなかったそうです。

その女の子が挨拶を返さなかったのは、単に恥かしがり屋さんだっただけなのですね。

 

その女の子への仏性礼拝は通じていたのですね(^o^)

2025年2月22日土曜日

続・一番の供養

 


前に「 一番の供養 」は書きました。

今回は「続・一番の供養」 です。


愛している人がある日突然亡くなることは、大変悲しく辛いことです。

悲しすぎて、辛すぎて、それをすぐには受け入れることはできません。

もう、その日から時間は止まってしまいます。


でも、何もしないで、悲しんでばかりいては、天国で亡くなった人が心配してしまいます。

亡くなった人を心配させないで、安心させてあげなければなりません。

なんとか、時間を動かさないとなりません。


そのためには、一生懸命に生きて、亡くなった人の分まで一生懸命に生きて、安心してもらいましょう!

亡くなった人の供養は、お経をあげることだけではありません。

一番の供養は、亡くなった人に安心してもらえるように、自分がしっかりと生き抜くことにある…と思うのです。


もう、時間は動きはじめましたか?

最後に例のお言葉です。


あなたが乗り越えられないような苦労を、神仏はけっして与えられません。
それは、あなたがそれに耐えて成長していける人だから与えられる試練です。
いつの日か「あのときの悲しみ、あのときの苦しみのお陰で、いまの私がある」
と思えるときが必ずくるものです。  By 庭野日敬

 

 

2025年2月21日金曜日

ポイ捨てする人は、自分もポイ捨てされる?

 

実は、この記事は、法華経ブログにアップするのは場違いかなと思ったのですが、正しい行いをしなさいと云う、法華経の精神と一致するのでここにもアップすることにしました。では、行きます。


施設警備で外周巡回時、吸殻・紙屑・空缶・空瓶などなどが、ポイポイ捨てられています。

そして、我々警備員がそれらを拾いながら巡回していきます。


一日にA番とB番で、合わせて6回巡回しますが、必ず、落ちています!

ポイ捨てをする人は、なぜゴミ箱や灰皿に捨てないのでしょうか?


で、いろいろ突き詰めて考えてみると、躾や教育にたどり着きます。

自分さえよければ…とか、きっと誰かが片付ける…とか。まぁ、ある意味、甘えですね。


そんな感じで、ポイ捨てをする人の精神レベルはかなり低いです。

そんな低レベルの人は、その内、会社や社会から、今度は自分がポイ捨されることになるのでしょう…。


我々警備員は、早くそれに気が付いて欲しいと思いながら、施設周りを綺麗にして行くわけです。

施設周りが綺麗だと、ポイ捨てし辛いでしょう!


我々警備員の通った後は、塵ひとつありませんよ!

とにかく、まだまだ、ポイ捨て人と警備員の戦いは続くのです…。


『戦い』の補足:

モラルの高い人の場合は、条件無く、ポイ捨てしません。

モラルが普通の人の場合は、吸殻やゴミが落ちていたら、ポイ捨てするかもしれません。

モラルの低い人の場合は、条件無く、ポイ捨てします。


もし施設周辺が、つねに塵ひとつ無く、綺麗だったら、モラルが普通の人は、たぶんポイ捨てしません。

もし施設周辺が、つねに塵ひとつ無く、綺麗だったら、モラルが低い人でも、ポイ捨てし辛くなると思うのです。


ここが、『ポイ捨て人と警備員の戦い』と表現しました。

2025年2月20日木曜日

仏道は親孝行

 

 

布薩の日に、某教会で、機関紙『佼成』の勉強会(法座)に参加する機会がありました。

ちなみに、布薩の日とは、過去に書いています。

 

今回の機関紙『佼成』のお勉強とは、会長先生の『親孝行と仏道』というご法話についてでした。また、某教会のRKK教団では「親孝行」「先祖供養」「菩薩行」の3つを生活実践の柱としています。


そしてその勉強会で、「親孝行」こそ仏道そのものだと教えていただきました。「親孝行」とは、生まれつき授かっている仏心、仏性をよりよくはたらかせ、磨き、本来の輝きそのままに生きることにほかならないと教えていただきました。

 

講師の教会長さんは、教務員時代、四国の辺鄙な港に行った時、ある人から、あなたは布教で前しか見ていない、あなたを心配して祈っているご両親を思ったことがありますか…と言われれ、込み上げてくる涙が止まらなかったとおしゃっていました。


また、会長先生のお供で、佼成霊園から杉並本部(大聖堂)へ歩く修行の時に、会長先生へ、『なぜ初代会長の開祖さまから会長を継承したのですか?』、と質問しました。すると、一言『親孝行です』…とおしゃったそうです。


そういえば、お釈迦さまは、亡くなるときに北枕にしたといいます。その場所での北は、お釈迦さまの親のお墓がある方向で、親を置き去りにして出家した親不孝をいつも気にして、足を北に向けることができないほど親を思っていたからなのです。


また、日蓮も身延山での修行時、山頂で毎日、生まれ故郷(千葉県天津小湊)に向かって合掌されていたとのことです。その合掌されていた山頂が、これにちなんで思親閣となったとか…


とにかく、会長先生もお釈迦さまも日蓮も、みな親孝行なのです。つまり仏道は、親孝行がメインの要素なのですね・・・(^o^)

2025年2月19日水曜日

心田を耕す

 

まずはじめに、本コンテンツは、ご著書 『心田を耕す』の感想文ではなく、勉強会の『心田を耕す』です(^^;;

 

ちなみに、ご著書『心田を耕す』の著者は、佼成会の開祖さまではなく、現会長先生です。

 

先日の午前中、ママからのお届けものを、某教会へ持って行きました。

 

そこで、たまたま『心田を耕す』の最終章の勉強会があり、ついでに有難く参加させていただきました(^^;;

 

普通の田んぼに種を植えるには、その前に田んぼを耕します。


心の田んぼも信仰の種を植えるには、同じように、心の田んぼを耕さないとならないのです。


心の田んぼを耕すには、以下の3つが必要とのことでした。

  1. 朝夕にお経を読む
  2. 手取り・お導き・法座に参加する
  3. 法華経を勉強する

これ、某教会では、3つの基本信行と言うらしいです。

 

1のお経は、法華経の抜粋を読誦し、2の手取り・お導き・法座は、法華経を人に薦める行いで、3の法華経を勉強するは、まぁそのままです(^^;

 

しかし、この3つで耕したら、を植える必要がないのではとか…、そもそもこの場合の稲ってなんなんだろうか・・・とか。

 

まぁとにかく、基本は大事、これから心の田んぼを耕して参りましょう(^o^)

 

2025年2月18日火曜日

自分こそ悪者ではないか

 


とある小誌からの抜粋

『自分こそ悪者ではないか』

自分こそ正しいと主張しあうところに対立が起きるのであって、 自分が悪いとなれば、自他一体・一如となり、そこは無対立の世界となります。 それが宗教の智慧であり、平和を築く絶対の力であります。

 

なるほど、なるほど、なるほど・・・

私の場合は、自分こそアタマが悪者ではないか…なのかもしれない・・・スマン(^^;;

 

とにかく、目には目、歯には歯では、争いはなくならない、それでは、永遠に恨みは連鎖してしまいます・・・どこかで断ち切らないと!

 

それにしても、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は、争いの絶えないどうしようもない宗教ですね! 

 

世界中が仏教にならなければ、真の平和は訪れないのではないのか・・・と思います(^o^)


2025年2月17日月曜日

「下坐に生きる」の紹介文

旧燈明日記からの引用です。

下坐に生きる By 神渡良平の紹介文です。

 

隔離病棟のドアをあけると、そこには、痩せこけた一人の青年がいた。

その青年は、開放性の結核にかかっており、余命10日といわれていました。

青年の生い立ちは、それは、それは、悲しいものでした。

生まれる前に父は蒸発、母は青年を産み落として亡くなりました。

その後、親戚や学校から邪魔者扱いにされながら育ち、14歳で家を飛び出し、賽銭泥棒等で生活をしていましたが、警察に捕まり、少年院へ送られました。その後、結核になり、今ここに、人間不信のまま辛い辛い人生の幕を閉じようとしていたのです。

あまりに不憫な青年を、なんとか、救ってあげたいと院長から頼まれ、私はドアをあけました。

私 :「おい!どうでぇい。」
青年:「...」(無応答、しばらく間をおいて...)
私 :「折角、見舞い来たんじゃねぇか。なんとか言えよ!」
青年:「うるせえ!」
私 : 言葉は乱暴だけど、しかし、一瞬の青年の寂しい表情を見逃さなかった...。
私 :「おい、こっち向けよ、今日は一晩看病させてもらうからな」
青年:「チェッ、もの好きな奴やな」

生い立ち等の話しをしながら、青年は、次第に心を許しはじめた...。

私 :「折角来たんだ。足でもさすろうか」
私 : さすった足は、枯れ木のような細い足で、骨の形がみえるようだ...。
青年:「おっさんの手は、やわらかいなぁ」
私 :「何言っとるんじゃ。男の手が柔らかいはずがあるかい」
青年:「うんにゃ、柔らかいぞ...、おっさん、あのな!」
私 :「なんじゃ」
青年:「笑っちゃ、いかんぞ」
私 :「笑うもんか、早く言え、もったいぶるな」
青年:「あのなー、一度で言いから、『お父っつぁん』って...呼んでいいかい」
私 :「ああ、いいよ、わしでよかったら、返事するぞ」
青年:「じゃぁ、言うぞ」

しかし、青年は言いかけて、激しく咳き込み、血痰を吐いた、私は、背中をさすりながら...。

私は泣いた、それほどまでに、こいつは『お父っつぁん』と言いたいのか...。

私 :「なぁ、今日は止めとけ、体に悪よ」
青年: 苦しい息のとぎれとぎれに、とうとう言った。「お父っつぁん!」
私 :「おう、ここにいるぞ」

青年の閉じた瞳から涙がこぼれた、どれだけこの言葉が言いたかったことか...。

青年は大声を上げて泣いた。18年間、この言葉を言いたかったのだ...。

 

この本の100分の1でも、感動が伝われば、幸いです。


2025年2月16日日曜日

法華経の中の法華経の正体

 


法華経を読誦していると、その中に有り難いほど沢山の『法華経』が出てきます。

 

如来の滅後に四衆の為に是の法華経を説かんと...(法師品第十)

妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に信敬して...(提婆達多品第十二)

億憶万劫より。不可議に至って、時に及し、是の法華経を聞くこと得。(常不軽菩薩第二十)

四法を成就せば如来の滅後に置いて当に是の法華経を得べし。(普賢菩薩勧発品第二十八)

 

などなど...で、よく考えると法華経は仏滅後400~600年後に編集されたといわれています。


つまり、法華経に出てくる『法華経』は、論理的に法華経ではないということになります。


では、法華経に出てくる法華経でない『法華経』の正体とは、一体なんなのでしょうか...。


この答は、いろいろ考えたり、参考資料を見ましたが、今の私のレベルでは、【謎】です。


しかし、 佼成会の開祖さまが、真理そのものって言っていたような…(^^;;;


ただ、なんとなく思うのは、他の宗教(キリスト教など)や他の宗派(浄土宗など)の経典も実は、 『法華経』の正体と同じものから出ているんじゃないかと推測しています...。


まぁ、『法華経』の正体が分からんと(以下略)。分かったら更新 アップします(^-^;)

2025年2月15日土曜日

お釈迦さまがお亡くなりになった日


今日は2月15日、お釈迦さまが亡くなった涅槃会です。

 

釈尊は、29歳で出家され修行し、35歳でお悟りを開かれ(成道)、80歳で入滅する(亡くなる)までの45年間、仏法の布教伝道に邁進しました。
仏伝では、初転法輪前後と入滅直前あたりは、順を追って分かるのですが、それ以外の事柄は、2500年前のことなのでわかりません。


しかし、天台大師や後世の学者が、ほぼすべての経典を読破し、成道直後に華厳経、つぎに阿含経、方等経、般若経と説かれ、涅槃の8年前から法華経が説かれ、最後に、涅槃経を入滅直前の一日一夜の説法とのことと解明されました。


さて、入滅の涅槃ですが、直前に2つのエピソードがありました。


一つ目は、ほとんど絶望と思われていた釈尊が、幸い小康を得られた時に、熱心な信者のチュンダが、ご供養した食事の茸に中毒され、ご容体がにわかに悪化し、それを知ったチュンダは、物凄く後悔しました。
しかし、釈尊は『チュンダの供養した食事が、私の最期を早めたからといって、何も悔やむことはありません。
私が成道する前に、スジャータという娘が食事を供養してくれましたが、今入滅しようという際のこの食事も、それと同じように大きな功徳があるのです。』とおおせられ、チュンダの心を救ったとのことです。


2つ目は、いよいよ寿命が尽きることをお悟りになった釈尊のもとへ、スッパダという異教の行者が『真の悟りに至る道』の教えを請いに来ました。
釈尊の弟子達は、ご臨終に近い釈尊をわずらわしてはならぬと思い、断ると、その押し問答を聞かれた釈尊は、『道を聞きに来た人を拒んではなりません。』と八正道をお説きになったそうです。
そして、スッパダは、そのお言葉に目がさめたようになり、釈尊の最後の弟子になりました。


そして、クシナガラという町の沙羅の木の間に床を用意され、頭を北にし、
右脇を下にした形で、お亡くなりになりました(享年80才)。最後のお言葉は、


すべての現象は、移り行くものです。怠らず努力することですよ!

 

とのことでした。


ここに人類始まって以来の最高の聖者は、まことに大いなる死を迎えたのでありました。
それは、日本暦に直して2月15日の夜半とのことでした。
ちなみに、仏教界ではこの日に涅槃会を毎年とり行っています。


ちなにみ、なぜ北枕にしたのかというと、一説では、足を自分の生まれた国の方向へ向けないためとのことです。
これは、大いなる放棄より、父母に対しての親不孝を、釈尊はいつも気にしていたとのことです。


2025年2月14日金曜日

生まれてきて良かった

 

前に、京王線の準急に乗っていた時でした。すると何か聞こえます。


二才ぐらいの小さな女の子が、一人でぺちゃくちゃなにか言っているのです。


車内なので、うるさい子だなと内心思いながらいると……。

 

『生まれてきて良かった』『生まれてきて良かった』と連呼し始めたのです。

 

すると、今までうるさいなと思っていた感情が消え、その子がすごく愛しく思えてきたのです。

 

そして、なぜか、涙が込み上げてきて・・・

 

親にとって、子供から『生まれてきて良かった』と思われることは、最高の親孝行ではないでしょうか。

 

ごく日常の中、ふとした感動、ありがとう。

2025年2月13日木曜日

苦労は幸せのもと

よく、「苦は楽の種」といいます。
これ、人間だけでなく、魚や樹木にも言えるみたいですね。

 

先日、おもしろい話を聞きました。
アユを関西から東京にもっていこうといろいろな方法をこころみましたが、どうしてもうまくいきません。
ところが、あるとき水槽の中に棒を入れて、ときどきかき回しながら運んだら、アユはすこぶる元気だったとのことです。


また、そういえば、前にも、おもしろい話を聞きました。
植樹で最良の条件でなくて、主役の苗木と脇役の苗木「まぜるまぜるまぜる」で植えると、相互に協力したり、我慢し合いながら育っていくとのことでした。
つまり、最良の条件を用意してやると逆に苗木が育たないとのことでした。


人は、家庭でも仕事でも学校でも、いろいろな苦労があるからこそ、頑張れるし、成長ができるし、結果的に幸せになれる・・・


そう、まさに「苦は楽の種」で『苦労は幸せのもと』だったんですね!

 

2025年2月12日水曜日

不惜身命(ふしゃくしんみょう)

 


『不惜身命(ふしゃくしんみょう)』は、法華経の勧持品第十三に出てくる言葉です。意味は、「身命をなげうっても惜しくはない」という精神のことです。

 

では、「身命をなげうっても惜しくはない」精神とは、すべての人の真の幸せのためには、自分の生命さえも惜しくないという徹底した境地です。

 

といいますと、たぶん、反感や抵抗感をもたれた方がいると思います。生命が何より尊いものだと・・・。

 

しかし、これは、生命の受け止め方が自分本体だと思うからで、仏法で云う生命とは、仏性のことであり、永遠の命です。自分の生命さえも惜しくないという生きかたこそが、実は、ほんとうに生きるということなのです。


と、某法華経解説本に書いてありました。今、噛み締めていまーす(^-^;)


2025年2月11日火曜日

人生にむだはない

 

 今の心境にぴったりのメッセージがありましたので引用しておきます。


人生にむだはない

私たちが人生で体験することには一つのむだもありません。

お釈迦さまが「人生は苦である」と教えられているように、私たちの人生には苦がつきものです。けれども私たちは不幸や苦しみに見舞われると、「なぜ自分だけがこんなに苦しい目に遭わなくてはならないのか」と恨(うら)みごとを言い、嘆くのが常です。しかし、その苦しみを通らないと人生の本当の喜びは得られないのです。いや、苦しみを乗り越える、そのことの中に真の楽があるといってもいいのです。

人は自分が実際に経営に失敗して苦しみ、病気で苦しんでみてこそ、同じ苦しみを持つ人に、それを乗り越える道、そして乗り越えたときの喜びを、自信をもって説くことができます。

苦しみにぶつかったときに、「仏さまが、この苦しみを通して同じ苦しみにある人たちを救う力を与えてくださるのだ」と受け止められるようになると、力が内からわき上がってきます。その力が道を開いていくのです。

「無用の用こそ大切」といいます。人生でぶつかるさまざまな苦しみ、むだな回り道と思えることも、すべて将来に生きていくのです。


庭野日敬著『開祖随感』より

 

『人生でぶつかるさまざまな苦しみ、むだな回り道と思えることも、すべて将来に生きていくのです。』

 

そうあって欲しい…

 

ちなみに、『無用の用』とは、一見意味のないように感じるものが、実は重要な役割を担っているという意味です。