2025年3月27日木曜日

釈尊のいぶき:妙法蓮華経 常不軽菩薩品第二十(その14)

 

・はじめに

立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。

そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。

尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。

・https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-11/

 

・経文(「釈尊のいぶき」での抜粋)

過去に仏いましき。

威(い)音(おん)王(のう)と号(なづ)けたてまつる。

神(じん)智(ち)無(む)量(りょう)にして。

一切を将(しょう)導(どう)したもう。

天・人・竜(りゅう)神(じん)の。

共に供養する所なり。

是(こ)の仏の滅後。

法尽(つ)きなんと欲(ほっ)せし時。

一人の菩薩あり。

常(じょう)不(ふ)軽(きょう)と名(なづ)く。

時に諸の四衆。

法に計(けい)著(じゃく)せり。

不軽菩薩。

其の所に往(ゆ)き到(いた)って。

而(しか)も之(これ)に語って言わく。

我汝(なんじ)を軽しめず。

汝(なん)等(だち)道(どう)を行じて。

皆(みな)当(まさ)に作(さ)仏(ぶつ)すべしと。

諸(しょ)人(にん)聞(き)き已(おわ)って。

軽(きょう)毀(き)罵(め)詈(り)せしに。

不軽菩薩。

能(よ)く之(これ)を忍(にん)受(じゅ)しき。

其(そ)の罪(つみ)畢(お)え已(おわ)って。

命(みょう)終(じゅう)の時に臨(のぞ)んで。

此(こ)の経(きょう)を聞くことを得て。

六根清(しょう)浄(じょう)なり。

神通力の故(ゆえ)に。

寿命を増(ぞう)益(やく)して。

復(また)諸(しょ)人の為(ため)に。

広く是(こ)の経を説く。

諸の著(じゃく)法(ほう)の衆(しゅ)。

皆(みな)菩薩の。

教化し成就して。 

仏道に住(じゅう)せしむることを蒙(こうむ)る。

不軽命(みょう)終(じゅう)して。 

無数の仏に値(あ)いたてまつる。 

是(こ)の経を説くが故(ゆえ)に。

無(む)量(りょう)の福を得。

漸(ようや)く功徳を具(ぐ)して。

疾(と)く仏道を成ず。

彼(か)の時の不軽は。

則(すなわ)ち我が身是(こ)れなり。

時の四(し)部(ぶ)の衆(しゅ)の。

著(じゃく)法(ほう)の者(もの)の。

不軽の汝(なんじ)当(まさ)に。

作(さ)仏(ぶつ)すべしというを聞きしは。 

是(こ)の因縁を以(もっ)て。

無数の仏に値(あ)いたてまつる。

此(こ)の会(え)の菩薩。

五百の衆(しゅ)。

幷及(ならび)に四部。

清(しょう)信(しん)士(じ)女(にょ)の。

今(いま)我(わ)が前に於て。

法を聴(き)く者是れなり。

我前世に於(おい)て。

是(こ)の諸人を勧(すす)めて。 

斯(こ)の経の第一の。

法を聴(ちょう)受(じゅ)せしめ。

開(かい)示(じ)して人を教えて。

涅槃に住(じゅう)せしめ。

世(せ)世(せ)に是(かく)の如(ごと)き。

経典を受持しき。

億億万劫(ごう)より。

不(ふ)可(か)議(ぎ)に至(いた)って。

時に乃(いま)し。

是(こ)の法華経を聞くことを得(う)。

億億万劫(ごう)より。

不可議に至(いた)って。

諸仏世尊。

時に是(こ)の経を説きたもう。

是(こ)の故(ゆえ)に行者。

仏(ほとけ)の滅(めつ)後(ご)に於(おい)て。

是(かく)の如(ごと)き経を聞いて。

疑惑を生(しょう)ずることなかれ。

応(ま)当(さ)に一(いっ)心(しん)に。

広く此(こ)の経を説くべし。 

世世に仏に値(あ)いたてまつりて。

疾(と)く仏道を成(じょう)ぜん。

 

・訳文

過去に威(い)音(おん)王(のう)という仏がおられ、すぐれた智慧で一切衆生を導(みちび)かれました。 

天界の人びとも、人間界の人びとも、人間以外の鬼神たちも、ともに真心を捧げてお仕えしていました。

この仏が入滅され、その教えも忘れられようとするころ、一人の菩薩がいました。

常(じょう)不(ふ)軽(きょう)菩薩という名でした。

そのころの出家・在家の修行者たちは、教えを自分流に勝手に解釈して、それにとらわれていましたが、常不軽菩薩は彼らのそばに行ってこう言うのでした。『私はあなた方を軽(かろ)んじません。

あなた方は菩薩の道を行ずることによって、必ず仏となる方々だからです』と。

人びとは常不軽菩薩のことを、いいかげんなことを言うやつだと軽蔑し、罵(ののし)り、皮肉を言いましたが、菩薩は寛(かん)容(よう)の精神をもって、じっとそれを受けとめました。 

常不軽菩薩が過去からの身(しん)(行ない)、口(く)(言葉)、意(い)(心)の三(さん)業(ごう)の跡を清(きよ)め尽(つ)くして、この世の生を終えようとするとき、法華経の教えを聞くことができました。

そのために身も心もすっかり洗われました。

そして、神通力を得て寿命が延びたため、人びとのためにまた広く教えを説きました。

小(しょう)法(ぼう)にとらわれていた人(ひと)びとは、常不軽菩薩のおかげで正(ただ)しく教(きょう)化(け)され、仏(ほとけ)の悟(さと)りを志(こころざ)すようになりました。

菩薩はその功徳によって、次の世も、また次の世でも無数の仏にお会いすることができました。

そして、そこでもこの教えを説き続けたために、はかりしれないほどの功徳を得ることができました。その功徳でまた無数の仏にお会いするという循環をくり返すうちに、ついには仏の悟りに達したのです。

そのときの常不軽菩薩が私の前身なのです。

そして当時、小(しょう)法(ぼう)にとらわれていた出家・在家の修行者たちは、常(じょう)不(ふ)軽(きょう)菩薩から『あなた方は必ず仏になれる人です』といつも聞かされていたために、その言葉によって仏性を開くことができ、無数の仏に会うことができました。

この法(ほう)会(え)には、菩薩や大勢の出家・在家の修行者たちが集まって話を聞いていますが、じつは、あなた方こそ過去において私が教化した人たちなのです。

私は、過去の世において、あなた方に最高の法であるこの法華経の教えを聞くことを勧め、〈すべての人が仏性の顕(あら)われである〉という真実に目を開かせ、宇宙を貫く〈無常〉の根本法則を教え示して、大安心の境地(涅槃)に至(いた)らせました。

そして、私自身もいつの時代にあっても、この教えを常に受持したのです。

しかし、仏法に出遇うことは簡単なことではありません。 

億億万劫(ごう)という考えられないほどの年月がたち、時が熟(じゅく)して、初めて法華経を聞くことができるからです。 億億万劫(ごう)という推量も及ばぬほどの年月を経て、ふさわしい仏縁が結ばれてこそ初めて諸仏世尊はこの教えをお説きになるからです。

そういうわけですから、私が入滅したのちの世の行者たちよ、この尊い教えに疑惑を持つことなく、真心を込めて教えを説き広めてください。

そうすれば、その功徳によって、いつの時代にも仏に会うことができ、まわり道をすることなく仏の悟りに達することができるでしょう。


・補足

四(し)衆(しゅ)

男(の出家僧(比(び)丘(く))、女の出家僧(比(び)丘(く)尼(に))、男の在家修行者(優(う)婆(ば)塞(そく))、女の在家修行者(優(う)婆(ば)夷(い))のことです。「四(し)部(ぶ)」と言うこともあります。
 

忍(にん)受(じゅ)

怒りや反発を感じながらも、じっと堪(た)えるという意味ではありません。相手を恨むことなく、包容力をもって受けとめるということです。
 

五百の衆

仏教経典には、一万二千とか、五千などという数がよく出てきますが、これらは実数をさすのではなく、「たくさん」と言う意味です。ですから、この五百という数も「大勢の人たち」と言う意味です。
 

其(そ)の罪(つみ)畢(お)え已(おわ)って

常不軽菩薩も出家する以前は、凡夫の生活を送っていました。ときには自分勝手な行ないをしたり、怒ったり、人と争ったこともあったはずです。そうした過去の誤った行ないが、菩薩行によって、すっかり清められたということです。


2025年3月26日水曜日

釈尊のいぶき:妙法蓮華経 如来寿量品第十六(その13)

 



・はじめに

立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。

そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。

尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。

・https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-10/


・経文(「釈尊のいぶき」での抜粋)

我仏を得てより来(このかた)。

経たる所の諸の劫数。 

無量百千万。

億載(さい)阿(あ)僧(そう)祇(ぎ)なり。

常に法を説いて。

無数億の衆生を教化して。

仏道に入らしむ。

爾(しか)しより来(このかた)無量劫なり。

衆生を度せんが為の故に。

方便して涅槃を現(げん)ず。 

而(しか)も実には滅度せず。

常に此(ここ)に住して法を説く。

我常に此に住すれども。 

諸の神通力を以(もっ)て。 

 顚(てん)倒(どう)の衆生をして。

近しと雖(いえど)も而(しか)も見ざらしむ。

衆我が滅度を見て。 

広く舎利を供養し。 

咸(ことごと)く皆恋慕を懐(いだ)いて。

渇仰の心を生(しょう)ず。 

衆生既(すで)に信(しん)伏(ぶく)し。

質(しち)直(じき)にして意(こころ)柔(にゅう)輭(なん)に。

一心に仏を見たてまつらんと欲して。

自ら身命を惜まず。

時に我及び衆僧。 

倶(とも)に霊鷲山に出ず。

我時に衆生に語る。 

常に此(ここ)にあって滅せず。方便力を以(もっ)ての故(ゆえ)に。

滅不滅ありと現ず。

余国に衆生の。

恭(く)敬(ぎょう)し信(しん)楽(ぎょう)する者あれば。

我復(また)彼の中に於(おい)て。

為に無上の法を説く。

汝(なん)等(だち)此(こ)れを聞かずして。

但(ただ)我(われ)滅(めつ)度(ど)すと謂(おも)えり。

我諸の衆生を見れば。

苦(く)海(かい)に没(もつ)在(ざい)せり。

故(かるがゆえ)に為に身を現ぜずして。

其れをして。

渇(かつ)仰(ごう)を生ぜしむ。

其(そ)の心恋(れん)慕(ぼ)するに因(よ)って。

乃(すなわ)ち出でて為に法を説く。

神通力是(かく)の如(ごと)し。

阿(あ)僧(そう)祇(ぎ)劫(こう)に於(おい)て。

常に霊(りょう)鷲(じゅ)山(せん)。

及(およ)び余(よ)の諸(もろもろ)の住(じゅう)処(しょ)にあり。

衆生劫尽きて。

大火に焼かるると見る時も。

我が此の土は安(あん)穏(のん)にして。

天人常に充満せり。

園(おん)林(りん)諸の堂(どう)閣(かく)。

種(しゅ)種(じゅ)の宝をもって荘厳し。

宝(ほう)樹(じゅ)花(け)果(か)多(おお)くして。

衆生の遊(ゆ)楽(らく)する所なり。

諸(しょ)天(てん) 天(てん)鼓(く)を撃って。

常に諸の伎(ぎ)楽(がく)を作し。

曼(まん)陀(だ)羅(ら)華(け)を雨(ふ)らして。

仏及(およ)び大衆に散ず。

我が浄土は毀(やぶ)れざるに。

而(しか)も衆は焼け尽きて。

憂(う)怖(ふ)諸の苦悩。 

是(かく)の如(ごと)き悉(ことごと)く充(じゅう)満(まん)せりと見る。

是(こ)の諸の罪の衆生は。

悪業の因縁を以(もっ)て。

阿(あ)僧(そう)祇(ぎ)劫(こう)を過(す)ぐれども。 

三宝の名(みな)を聞かず。

諸の有(あら)ゆる功徳を修(しゅ)し。

柔和質直なる者は。

則(すなわ)ち皆(みな)我が身。 

此(ここ)にあって法を説くと見る。 

或(ある)時(とき)は此(こ)の衆の為に。

仏(ぶつ)寿(じゅ)無(む)量(りょう)なりと説く。

久(ひさ)しくあって乃(いま)し仏を見たてまつる者には。

為(ため)に仏には値(あ)い難(がた)しと説く。

我が智力是(かく)の如(ごと)し。

慧光照すこと無量に。 

寿命無数劫。 

久しく業を修して得る所なり。

汝(なん)等(だち)智(ち)あらん者。

此(ここ)に於(おい)て疑(うたがい)を生ずることなかれ。 

当(まさ)に断(だん)じて永(なが)く尽(つ)きしむべし。 

仏語は実にして虚(むな)しからず。

医(い)の善(よ)き方便をもって。

狂(おう)子(じ)を治(じ)せんが為の故に。

実には在(あ)れども而(しか)も死(し)すというに。

能(よ)く虚(こ)妄(もう)を説くものなきが如く。

我も亦(また)為(こ)れ世の父。

諸の苦(く)患(げん)を救う者なり。

凡夫の顚(てん)倒(どう)せるを為(もっ)て。

実には在(あ)れども而(しか)も滅(めっ)すと言う。

常に我を見るを以(もっ)ての故(ゆえ)に。

而(しか)も憍(きょう)恣(し)の心を生じ。

放(ほう)逸(いつ)にして五(ご)欲(よく)に著(じゃく)し。

悪道の中に堕(お)ちなん。

我常に衆生の。

道を行じ道を行ぜざるを知って。

度すべき所に随(したが)って。

為に種(しゅ)種(じゅ)の法を説く。

毎(つね)に自(みずか)ら是(こ)の念(ねん)を作(な)す。

何を以(もっ)てか衆生をして。

無上道に入(い)り。

速かに仏身を成就することを得せしめんと。

 

・訳文

私が仏となってから、これまでに経った時間は無量・無限です。

そのあいだ私は、常に真実の教えを説き、無数の衆生を教化して仏道に導きました。

そのときからもまた、無量の月日が経っているのです。

私は衆生を救う手段の一つとして、この世から姿を消したこともありますが、実際は滅度(入滅)したのではなく、常にこの娑婆世界にいて法を説いているのです。  

私は常にこの世界にいるのですが、自由自在な神通力によって、顚(てん)倒(どう)している(何ごとも自分中心に考え、ものごとの真実を見ようとしない)衆生には姿が見えないようにするのです。

衆生は、私が入(にゅう)滅(めつ)したのを見て、舎利をまつって供養をし、そこではじめて真剣に仏の教えを求めようという心を起こします。 

求(ぐ)道(どう)の心を起こした衆生は、教えを心から信じ、柔らかく素直な心で、仏とともにいるという自覚を得ようと、命をも惜しまないほどの真剣さで努力します。 

このような人びとが多くなれば、私は弟子たちとこの世に出てきて、『私は常にここにいますが、教化の手段として必要だと思われるときに入(にゅう)滅(めつ)を見せるのです。

また、この世界以外の場所でも、正しい教えを敬い、信じ、聞きたいと願う人たちがいれば、私はその人たちの前にも現われて無上の法を説きます』と衆生に語ります。 

多くの人は、このことを知らないために、私が滅度するのだと思い込んでいるのです。

仏の眼で衆生を見ると、多くの人は苦の海に沈んで、苦しみもがいています。

さればこそ、私はわざと身を現わさないで、衆生に自ら仏を求める気持ちを起こさせるのです。

仏を恋慕する心が人びとに起これば、すぐに身を現わして、その人たちのために法を説(と)きます。

仏の神通力とはこのようなものであって、無限の過去から無限の未来まで、娑婆世界およびその他の世界に仏は存在しているのです。

衆生の目で見ると、世界全体が大火に焼かれてしまうような時代になっても、仏の国は安(あん穏(のん)であって、天上界の者や人間界の者がたくさん集まり、楽しい生活を送っています。

美しい花園や静かな林、光輝く宝(ほう)玉(ぎょく)によって飾られた立派な建物がたくさんあります。

木々には美しい花が咲き、豊かな実がなっていて、その下で人びとは何の憂いもなく遊んでいます。 

天(てん)人(にん)は妙(たえ)なる音楽を奏(かな)で、曼(まん)陀(だ)羅(ら)華(け)の花びらを雨のように、仏や人びとの上に散じています。

仏の眼(まなこ)から見た世界は、このように平和で美しいのですが衆生の目から見ると、あたかも大火に焼かれるがごとく、不安や恐怖に満ちているように見えるのです。

このような衆生は、よくない行ないを積み重ねるために、長い年月が経っても三宝(仏・法・僧)の名をくことができません。

反対に、世のため人のためにさまざまな善行をなし、心が柔(にゅう)和(わ)で素直な者は、私がいつもそばにいて常に法を説いている姿を見る(自覚する)ことができるのです。

そのような人びとに対して、あるときは『仏の寿命は限りないものであって、無始無終である』と説きます。 

長いあいだかかって、ようやく仏の存在を知った人には、『仏に出会うことは難しいのだから、いま出会えた喜びを胸に刻んで、怠らず励むのですよ』と説くこともあるのです。

仏の智慧の力はこのように大きいものであり、その智慧の光が照らしだす世界は無量です。

また、仏の寿命も無量であって、それは長いあいだ善業を積んで得た寿命なのです。

ほんとうの智慧を求めようとしているみなさんは、仏の寿命が永遠であり、智慧の力が無限であることを疑ってはなりません。

もし、疑いを起こすような迷いの心があれば、永久に断ち切ってしまわなければなりません。 

仏の言葉は、すべて真実なのです。

先に述べた譬え話において、毒を飲んで本心を失ってしまった子どもたちを治すために、医師が善い方便をもって、実際は死んでいないのに『死んだ』と告げさせたことを、だれもとがめたりしないのと同じように、仏が姿を見えなくするのも決してうそ、偽りではありません。

私は父です。

世の父です。

さまざまな苦悩を抱える衆生を救う者です。

いつも衆生のそばにいて、その苦しみを除こうとしているのですが、凡夫の心が顚(てん)倒(どう)しているので、その真実を見ることができません。

そこで、その目を覚まさせるために、実際はそばにいても『時期がくれば姿を消すのだ』と告げるのです。

もし、いつでも仏に会えるのだということになれば、衆生にわがままな心が生じて五欲に執着する(己(おのれ)の欲望にとらわれる)ため、修羅(争いの世界)や地獄(怒りの世界)などもろもろの悪道の苦しみが人生に現われてくるのです。

私は衆生のすべてを常に見とおして、ある者はよく仏の道を行じており、ある者は行じていないということを知り尽(つ)くしていますから、衆生の心がけや教えを理解する力に応じて、適切な方法を選び、さまざまに法を説いてあげるのです。

とはいえ、どんな衆生に対しても、私の本心は少しも変わりません。どうしたら衆生を仏の道に導き入れることができるだろうか、どうしたら速やかに仏の境地に達せしめることができるだろうかと、常にそれのみを念じているのです。

 

・補足

神通力

ここで言う神通力とは、修行などによって得られる不思議な力ということではありません。久(く)遠(おん)実(じつ)成(じょう)の本仏は、宇宙の一切のものを生かしている根源の大生命ですから、自由自在の力を持っておられます。その力を表現しているのです。
 

霊(りょう)鷲(じゅ)山(せん)

釈尊が法華経を説かれた場所が霊鷲山であったために、こうおっしゃられたのであって、真の意味は「この世」ということです。私たちが仏の教えを聞くところは、どんな場所であっても、そこが霊鷲山なのです。
 

余(よ)国(こく)

娑婆世界以外の国土ということですが、宇宙のありとあらゆる場所という意味にとらえるといいでしょう。
 

曼(まん)陀(だ)羅(ら)華(け)

天上界に咲く花で、見る人の心を喜ばせずにはおかない、美しい花のことです。
 

罪の衆生

仏教でいう罪とは、必ずしも悪いことをしたという意味だけではなく、煩悩に振り回されて、自らの仏性をくらましてしまっていることもいいます。
 

三宝の名(みな)を聞かず

 仏さまに会うことも、仏さまの教えにふれることも、教えを求める仲間に入れてもらう機会にも恵まれないということです。
 

慧(え)光(こう)照(てら)すこと無量に

仏の智慧の光が照らしだす世界は無量であるということは、いつ、いかなる場所でも、迷いの闇にいる衆生に救いの力を与え、仏性を輝かせる働きをするということです。したがって、すべての人が必ず真理に目覚めることができるという意味です。


2025年3月25日火曜日

燈明日記ブログ: 休憩室のお湯の量で5種類の人間がわかる

燈明日記ブログ: 休憩室のお湯の量で5種類の人間がわかる:   私の勤務する防災センターには、設備員7名(所長含む)と警備員7名(隊長含む)がいます。 シフト制で、1日6〜7人の勤務になります。 防災センター内には休憩室があり、そこのソファーの前の棚にはポットがあり、お湯を使ったら水を足しましょうと貼り紙が貼ってあります。 そのソファーに...

釈尊のいぶき:妙法蓮華経 提婆達多品第十二(その12)


・はじめに

立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。

そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。

尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。

・https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-9/

 

・経文(「釈尊のいぶき」での抜粋)

仏諸(もろもろ)の比丘に告げたまわく、未来世の中に若し善男子・善女人あって、妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に信(しん)敬(きょう)して疑惑を生(しょう)ぜざらん者は、地獄・餓鬼・畜生に堕(お)ちずして十方の仏前に生ぜん。所生の所には常に此(こ)の経を聞かん。若し人(にん)・天(でん)の中に生るれば勝妙の楽を受け、若(も)し仏前にあらば蓮華より化(け)生(しょう)せん。

 

・訳文

のちの世において、もし信仰のあつい男女が妙法蓮華経の提婆達多品の教えを聞いて、素直な心で信じ、ありがたいと感じ、疑いを起こすことがなければ、その人は地獄(怒りの世界)・餓鬼(貪(むさぼ)りの世界)・畜生(愚かな世界)といった悪道におちいることなく、必ず仏の前に生まれ、常にこの教えを聞くことができるでしょう。

もし人間界や天上界に生まれ変わるとしても、そこでは至高の精神的な喜びに満ちた生活をおくることができるでしょう。

そして、再び仏の教えを聞く機会に恵まれれば、凡夫の境界にいながらでも、仏に近い境地に達することができるでしょう

 

・補足

地獄

人間の心にあてはめると、怒りに心を振り回されて行動し、常に苦しい気持ちで生きることを意味しています。
 

餓鬼

尽きることのない利己心の満足のために、次から次へとものごとを貪り、つねにイライラした気持ちで生きることです。
 

畜生

欲望のおもむくまま人の道にはずれた行ないをし、他人も自分も傷つけてしまい、不幸な気持ちで生きることです。
 

十方の仏前に生(しょう)ぜん

いつ、どこへ行っても、仏さまとともにいる自覚を持つことができるという意味です。すなわち「私は仏さまに生かされている、いつも仏さまに守られているんだ」という自覚です。こういう自覚が常にあれば、人生に大きな自信と勇気が得られ、いつも幸せな大安心の境地で生きることができます。 

 

常に此(こ)の経を聞かん

いつも仏さまの前にいる自覚がある人は、仏さまの教えを忘れることはありません。ですからこの一節(せつ)は、いつも心の中で教えをくり返し味わうことができるという意味です。


燈明日記ブログ: That's What Friends Are Forを文法的に解析してみる

燈明日記ブログ: That's What Friends Are Forを文法的に解析してみる:  この曲にのタイトルを文法的に解析してみる・・・   That's What Friends Are For   まず、Whatは関係代名詞だとします。 すると What は the thing which に置き換えができ、主節と従節に分けられます。 主節:That...

2025年3月24日月曜日

釈尊のいぶき:妙法蓮華経 法師品第十(その11)

 

・はじめに

立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。

そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。

尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。

・https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-8/


 

・経文(「釈尊のいぶき」での抜粋)

若し善男子・善女人あって、如来の滅後に四衆の為に是(こ)の法華経を説かんと欲せば、云(い)何(かに)してか説くべき。 

是(こ)の善男子・善女人は、如来の室に入り、如来の衣を著(き)、如来の座に坐して、爾(しこう)して乃(いま)し四衆の為に広く斯(こ)の経を説くべし。

如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是(こ)れなり。

如来の衣とは柔和忍辱の心是(こ)れなり。

如来の座とは一切法空是(こ)れなり。

是(こ)の中に安住して、然(しこう)して後に不懈(け)怠(だい)の心を以(もっ)て、諸の菩薩及び四衆の為に、広く是の法華経を説くべし。 

 

・訳文

もし在家の男女の修行者が、私の滅後に多くの人びとのためにこの法華経の教えを説こうとするならば、どのように説いたらよいのでしょうか。

その人たちは、如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座にすわり、そして多くの人びとに広くこの法華経を説かなければなりません。

如来の室とは、すべての人びとに対する大慈悲心のことです。

如来の衣とは、柔和であり、しかも、外からの影響にまどわされない強い心(忍(にん)辱(にく))です。

如来の座とは、一切は空である(すべての人間は、本仏(大いなる宇宙の根源のいのち)に平等に生かされている──という根本の真理を深く認識することです)。

この大慈(だいじ)悲心(ひしん)と柔和忍辱の心と、空の教えを胸の奥にしっかりと持ち続け、常に怠ることのない強い 意思を持って、多くの菩薩や大衆のために広くこの法華経を説かなければならないのです。

2025年3月23日日曜日

釈尊のいぶき:妙法蓮華経 譬諭品第三(その10)

 

・はじめに

立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。

そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。

尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。

・https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-7/

 

・経文(「釈尊のいぶき」での抜粋)

今此(こ)の三界は。皆(みな)是(こ)れ我が有なり。其の中の衆生は。悉く是(こ)れ吾(わ)が子(こ)なり。
而(しか)も今此(こ)の処は。諸の患(げん)難(なん)多(おお)し。唯(ただ)我(われ)一(いち)人(にん)のみ。能(よ)く救(く)護(ご)を為(な)す。

 

・訳文

この宇宙は私のものです。その中にいる衆生は、すべて私の子です。

しかも、この世界には、いろいろな苦しみが満ちています。それを救うものは、私だけしかいないのです。

 

・補足

我(わ)が有(う)なり──ここでいう「私」とは、釈尊お一人のことだけをさしているのではありません。真理・法を意味する「仏」のことであり、「真理を悟ったもの」という意味です。

この宇宙は私のものである──宇宙の真理を悟り、本仏と一体になることができれば、まったくこの世は「わがもの」です。しかし、この言葉は「宇宙は自分のものだ」という所有権を主張するものではありません。反対に、自分が宇宙に溶け込んでしまったと感じることなのです。
宇宙に溶け込んでしまうと感じることは、無我になることです。小さな我を捨てると、宇宙のすべてに生かされている自分を発見できます。すると、自分という存在が、みるみる宇宙全体に広がっていきます。無我こそ「宇宙はわがもの」に通じる、ただ一つの道なのです。

宇宙がわがものであれば、その中に住む衆生は、すべてわが子であり、兄弟・姉妹であり、仲間です。すると自然と、人びとのために親身になってつくさずにはいられなくなります。これがほんとうの慈悲心なのです。

 


2025年3月22日土曜日

燈明日記ブログ: 自分流タイピングのコツ

燈明日記ブログ: 自分流タイピングのコツ:   前に、AIくんが教えてくれた タイピングのコツをアップ しましたが、以下は、それを私が実践し、自分流にアレンジしたものです。   必ずホームポジションで 姿勢を正す(ホームポジションに手を置いたら反射的に) 打つアルファベットの声を出す(実際は頭の中で出す) ミスタイプしても...

釈尊のいぶき:妙法蓮華経 方便品第二(その9)

 

・はじめに

立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。

そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。

尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。

・https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-6/

 

・経文(「釈尊のいぶき」での抜粋)

爾(そ)の時に世尊、三(さん)昧(まい)より安(あん)詳(じょう)として起って、舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)に告げたまわく、諸仏の智慧は甚深無量なり。

其(そ)の智慧の門は難(なん)解(げ)難(なん)入(にゅう)なり。

一切の声聞・辟(びゃく)支(し)仏(ぶつ)の知ること能(あた)わざる所なり。

所(ゆ)以(え)は何(いか)ん、仏曾(かつ)て百千万億無(む)数(しゅ)の諸仏に親(しん)近(ごん)し、尽くして諸仏の無量の道(どう)法(ほう)を行(ぎょう)じ、勇(ゆう)猛(みょう)精進して、名(みょう)称(しょう)普(あまね)く聞(きこ)えたまえり。

甚深未(み)曾(ぞう)有(う)の法を成就して、宜(よろ)しきに随(したが)って説きたもう所、意(い)趣(しゅ)解(さと)り難(がた)し。

舎利弗、吾(われ)成仏してより已(この)来(かた)、種(しゅ)種(じゅ)の因縁・種(しゅ)種(じゅ)の譬諭をもって、広く言(ごん)教(きょう)を演(の)べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著(じゃく)を離(はな)れしむ。所(ゆ)以(え)は何(いか)ん、如来は方便・知見波(は)羅(ら)蜜(みつ)、皆(みな)已(すで)に具(ぐ)足(そく)せり。

舎利弗、如来の知見は広大深(じん)遠(のん)なり。無量・無(む)碍(げ)・力(りき)・無(む)所(しょ)畏(い)・禅定・解脱・三昧あって深く無(む)際(さい)に入り、一切未(み)曾(ぞう)有(う)の法を成就せり。 

舎利弗、如来は能(よ)く種(しゅ)種(じゅ)に分別し、巧に諸法を説き、言(ごん)辞(じ)柔(にゅう)輭(なん)にして、衆の心を悦(えっ)可(か)せしむ。

舎利弗、要を取って之(これ)を言わば、無量無辺未(み)曾(ぞう)有(う)の法を、仏悉(ことごと)く成就したまえり。

止(や)みなん、舎利弗、復(また)説(と)くべからず。

所(ゆ)以(え)は何(いか)ん、仏の成就したまえる所は、第一希(け)有(う)難(なん)解(げ)の法なり。

唯(ただ)仏と仏と乃(いま)し能(よ)く諸法の実相を究(く)尽(じん)したまえり。

所(いわ)謂(ゆる)諸法の如(にょ)是(ぜ)相(そう)・如(にょ)是(ぜ)性(しょう)・如(にょ)是(ぜ)体(たい)・如(にょ)是(ぜ)力(りき)・如(にょ)是(ぜ)作(さ)・如(にょ)是(ぜ)因(いん)・如(にょ)是(ぜ)縁(えん)・如(にょ)是(ぜ)果(か)・如(にょ)是(ぜ)報(ほう)・如(にょ)是(ぜ)本(ほん)末(まつ)究(く)竟(きょう)等(とう)なり。

 

・訳文

そのとき釈尊は、めい想(そう)を終えられて静かに目(め)をお開(ひら)きになられると、舎利弗に向かって言われました。『仏の智慧は非常に奥深く、はかりしれないものです』。

その根本真理は、あまりにも深遠で難しいため、修行中の者であっても理解できるものではありません。

なぜならば、仏というものは、かつて無数の仏に親しく教えを受け、その数々の教えをあらゆる努力をつくして実践し、内外から起こる障害や困難を、勇(ゆう)猛(もう)心をもって残らず克服し、ただひたすら目的のために突き進んでいったのち、ついにすぐれた智慧を得て、すべての人びとに仰(あお)がれるような身となったのです。

このようなはかりしれない努力の結果、いままで世に知られたことのない深遠なる真理・法を悟られたのが仏なのです。仏は、その真理・法を、人びとの機根に応じた適切な説き方をされるのですが、人びとは、その奥にある仏の真意がどこにあるのか気づけないでいるのです。

舎利弗よ、私は仏の悟りを得てからいままで、いろいろと過去の実例や譬えを用いて、多くの人びとに教えを説いてきました。

すなわち、それぞれの人と場合に応じた適切な方法で人びとを導き、自己中心の考え方からさまざまなものごとに執(しゅう)着(ちゃく)し、その執着のために苦しんでいる人には、その苦の原因を悟らせて苦しみを解いてあげてきたのです。

なぜ、こうしたことができたのかというと、私は方便と智慧の両方を完全に身に具えているからです。

舎利弗よ、如来の智慧というものは、非常に広大であって、この宇宙間のあらゆるものごとを知りつくしています。また、非常に深遠なものであって、遠いむかしのことから、永遠の未来のことまで見とおしているのです。すなわち、すべての人に無量の福を生(しょう)じさせる徳(無量)と、教えを説く完全な自由自在の力(無(む)碍(げ))と、この世のあらゆるものごとを知る力と、何ものをも恐れはばかることなく法を説く根本的な勇気(無(む)所(しょ)畏(い))と、心の散乱を防いで静かに真理におもいをこらす境地(禅(ぜん)定(じょう))と、ものごとに対するあらゆる執着から脱(ぬ)け出て真の安心を得る心の持ち方(解(げ)脱(だつ))と、精神を一事に集中してその一念を正しく保つ精神統一の法(三昧)のすべてを具え、はてしなく奥深い境地に入り、いままでだれも知りえなかった真理・法を見きわめ、いままで人の達したことのない法を成就したのです。

舎利弗よ。私は相手と場合に応じて、いろいろに説き方を変えて、たくみに多くの教えを説き、しかも常に柔らかで飲み込みやすい言葉で説いて、人びとの心に教えを聞くことの喜びをわき起こさせてきました。舎利弗よ。これまでに述べたことを総じて言えば、ふつうの人間では想像することもできない、最高の法を私はすっかり悟ったのです。 

やめましょう、舎利弗よ。説明してみてもわかるはずがありません。

なぜならば仏がきわめた真理・法は、この世における最高の真理・法であり、仏と仏のあいだだけで理解できるものだからです。

もろもろの仏は、この世のすべてのものごと(現象(げんしょう)=諸法(しょほう))のありのままのすがた(実(じっ)相(そう))を見きわめ尽くされ、私もまた見きわめたのです。

すなわち、すべての現象には持ち前の相(そう)(すがた)があり、相(そう)にふさわしい性(しょう)(性質(せいしつ))や体(たい)(本体(ほんたい))があります。

体(たい)は力(りき)(潜(せん)在(ざい)力(りょく))を持ち、常に外に向け、いろいろな作(作用(さよう))を起こしています。

つまり、この世のすべてのものには必ず相(そう)・性(しょう)・体(たい)・力(りき)・作(さ)があり、それらは互いに因(原因(げんいん))となり縁(機会(きかい)・条件(じょうけん))となって、関係し合いながら変化し続け、千差万別の果(結果(けっか))・報(ほう)(影響(えいきょう))をつくり出しているのです。

こうした諸現象は複雑にからみあっていて、人間の知恵では原因と結果のつながりが見えにくいことも多いのですが、そのじつ、すべては初め(本(ほん))の相(そう)から終わり(末(まつ))の報(ほう)まで、ふさわしくつながり合って展開していく(究(く)竟(きょう)等(とう))のです。これが諸法の実相であり、本仏(真理(しんり))の働きなのです。

 

・補足

声聞・辟(びゃく)支(し)仏(ぶつ)の知ること能(あた)わざる所なり 

声聞は、教えを聞くことによって悟りを得ようとしている修行者。 

辟支仏(びゃくしぶつ)は縁(えん)覚(がく)ともいい、自分の体験によって仏の道を会得しようと努めている修行者。

しかし、声聞も縁覚も、自分が悟ることを修行の第一目的としており、菩薩のように、人びとの教化・救済に力をつくしながら、人びととともに仏の悟りへの道を歩もうとしていません。

そのために低い段階での知恵で満足してしまい、仏さまの真意(すべての人を仏の境地(きょうち)=最高(さいこう)無上(むじょう)の智慧まで引き上げてあげたいという願い)に気づけないでいます。

機(き)根(こん)

教えを理解する力のこと。

仏(ほとけ)と仏(ほとけ)と乃(いま)し能(よ)く

ここで語られている「仏と仏」というのは、この世で諸法の実相を悟られた釈尊ご自身とほかの諸仏という区別ではなく、いわば「仏というものは」という意味です。

諸法の実相を究(く)尽(じん)したまえり

実相には、「すべてのものごとの、現象として現われている相をありのままに観る」という意味と、「すべてのものごとの本質の相を観る」という意味があります。

ここでいう〈実相〉は、両方の意味をさしています。すべてのものごとの本質の相をみながら、現象として現われている相をも、ありのままにみておられるのです。

 


2025年3月21日金曜日

燈明日記ブログ: ゾーンに入る感覚・・・

燈明日記ブログ: ゾーンに入る感覚・・・:   毎日、タッチタイピングの練習をしているんだが、速く打とうとすると焦ってミスタイプが多くなり結果的に速く打てず、ミスタイプをしないようにと、確実に打つと、ごくたまに速く打てる場合があるのです。   確かに、確実に打つと概ねスピードが遅くなるんだが、なぜか速く打てる場合があるので...

釈尊のいぶき:無量義経十功徳品第三 (その8)


・はじめに

立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。

そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。

尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。

・https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-5/


 

・経文(「釈尊のいぶき」での抜粋)

仏の言(のたま)わく、善男(なん)子(し)、第一に、

是の経は能く菩薩の未だ発心せざる者をして菩提心を発さしめ、

慈仁(にん)なき者には慈心を起さしめ、 

殺(せつ)戮(りく)を好む者には大悲の心を起さしめ、

嫉妬を生ずる者には随喜の心を起さしめ、 

愛著ある者には能捨の心を起さしめ、

諸の慳貪の者には布施の心を起さしめ、

憍慢多き者には持戒の心を起さしめ、

瞋(しん)恚(に)盛んなる者には忍辱(にんにく)の心を起さしめ、

懈(げ)怠(だい)を生ずる者には精進の心を起さしめ、 

諸の散乱の者には禅定の心を起さしめ、

愚癡多き者には智慧の心を起さしめ、

未(いま)だ彼(かれ)を度(ど)すること能(あた)わざる者には彼を度する心を起さしめ、

十悪を行ずる者には十善の心を起さしめ、

有為を楽(ねが)う者には無為の心を志(こころざ)さしめ、

退心ある者には不退の心を作(な)さしめ、

有漏を為(な)す者には無漏の心を起さしめ、

煩悩多き者には除滅の心を起さしむ。

善男(なん)子(し)、是れを是の経の第一の功徳不思議の力と名(なづ)く。

 

・訳文

仏さまはこのようにお説きになりました。この経には第一に、次のような功徳があります。

まず、大乗の教えを学んでいても、まだ心底から仏の智慧を得たいという心を起こしていない者に、心底から仏の悟りを得たいという心を起こさせます。

また、人を幸せにしてあげようという気持ち(慈(じ)仁(にん))のない者には、情け心(慈(じ)心(しん))を起こさせます。

人を苦しめたり、生き物を殺したりすること(殺(せつ)戮(りく))を好む者には、かわいそうだと思う心や、苦しんでいる人を助けてあげたいという心(大(だい)悲(ひ)の心(こころ))を起こさせます。

自分よりすぐれた人や幸福そうに見える人に妬(ねた)み心(嫉(しっ)妬(と))を感じるくせのある者は、仏さまの前ではみな平等な人間であるということがわかり、その真理の発見に対する心からの喜び(随(ずい)喜(き))が起こるために、人を妬む気持ちがなくなります。

さらに、地位や財産、愛する人などに必要以上に執着(愛(あい)著(じゃく))しているため、誤った行ないをしたり、自分の心を苦しめている者は、捨てるときにはいつでも捨てることができるという、とらわれのないのびのびとした気持ち(能(のう)捨(しゃ)の心)を持つようになります。

また、もの惜(お)しみする心や、むやみに欲しがる心(慳(けん)貪(どん))が強かった者は、人のために施(ほどこ)そうという心(布(ふ)施(せ))がわいてきます。

自分は悟っている、行ないにもまちがいはない、というおごり高ぶった心(憍(きょう)慢(まん))の多い者も、この教えを聞けば、自分の心や行ないのまちがいが見えてくるために、仏の教えられた戒めを守って修行しようという謙虚な心(持(じ)戒(かい))になります。

自己中心の心から、すぐ腹をたてるくせのある(瞋(しん)恚(に))者は、どんなことが起きても怒りや恨みの心を起こさなくなります(忍(にん)辱(にく))。

怠けたり、つまらぬことに打ち込んでいる(懈(け)怠(だい))者も、自分の進むべき道を真剣に歩むようになります(精(しょう)進(じん))。

まわりの状況が変化するたびに心が乱れ、動揺する(散(さん)乱(らん))者も、この教えを聞けば、変化している現象もその本質においては常に大調和しているという真実がわかってくるので、いつも静かで安定した心(禅(ぜん)定(じょう))になります。

目の前のことしか見えず、あとさきの分別ができない(愚(ぐ)痴(ち))者は、智慧の心が働くことで縁起の道理がよくわかり、心も頭も澄みきってきます。

ほかの人を救ってあげよう(彼(かれ)を度(ど)する)という心をまだ起こしたことがない者でも、自分だけがこの世に生きているのではないということがわかるので、自分も他人も一緒に救われなければ、ほんとうの幸せはないという真実に目覚め、ほかの人を救おうという気持ちが自然とわいてきます。

また、いろいろな悪い行ない(十(じゅう)悪(あく))をする者には、それらの悪行をすべて払い去った清らかな境地に達しようという心(十(じゅう)善(ぜん))を起こさせます。

現象面の幸福ばかりを追って右往(うおう)左往(さおう)している(有(う)為(い)を楽(ねが)う)者は、現象世界の奥にある大いなるいのちに生かされているという事実に目覚め、自己中心ではない心(無(む)為(い)の心(こころ))が生じます。 

信仰心があともどりする(退(たい)心(しん))傾向のある者は、一歩も退くことのない不動の信仰心(不(ふ)退(たい)の心(こころ))が起きてきます。

煩悩のおもむくままにものごとを行なう(有(う)漏(ろ)を為(な)す)者は、真理にそってものごとを行なう心(無(む)漏(ろ)の心(こころ))が起こります。

さらに、煩悩が多く、自ら心を苦しめている者には、真理を見つめることによって、煩悩をなくしてしまおうという心(除(じょ)滅(めつ)の心(こころ))を起こさせます。

これがこの経の第一の功徳の力なのです。 

 

・補足

無量義経は、釈尊が妙法蓮華経(法華経(ほけきょう))をお説きになる直前に説法された教えです。

法華経も無量義経から入ってこそ、ほんとうによく理解できることから、法華経の開経と呼ばれています。

無量義経は徳行品第一、説法品第二、十功徳品第三の三品で構成されています。

徳行品は、釈尊の完全円満な「徳」と衆生を救いきる「行」のすばらしさを讃(さん)歎(たん)した品です。

説法品は、釈尊が実相ということをお説きになった、無量義経の理論的中心となる品です。

十功徳品は、説法品で説かれた教えをほんとうに理解し、実践した人が受ける功徳を十に分けて説かれます。

今回ご紹介した経文は、十功徳品の抜粋で第一の功徳の部分ですが、第一の功徳だけでも、これほどたくさん(17個も)あるのです。


2025年3月20日木曜日

お彼岸



今日は、3月20日春分の日です。そう、お彼岸です。お彼岸は、超簡単に言うと先祖供養をする日です。先祖というと大昔のことのように思いますが...、実は、一番身近な先祖は親だったりします。まして、お子さんがいる人は、自分が先祖だったりします。

 

たとえば、子供から親孝行をされた時は、言葉では言い表せないぐらい嬉しいものです。また、親は無条件で子供たちの健康と安全をいつも見守っています。


また、よく考えると、子が親を思う親孝行って、私たちが先祖を思う先祖供養と同じなのですね。ですから、先祖供養は、ご先祖さまが、言葉では言い表せないぐらい嬉しがっているはずなんです。


そして、親が子を見守るように、ご先祖さまは、無条件で私達の健康と安全をいつも見守っているんです。ちなみに、読経や念仏によって得た功徳を故人に回し向けるを「回向」と言います...。


先日、こんな話しを聞きました。

 

ある母と娘がいました。娘は亡くなったお祖母さんが大好きでした。 娘は、小学校である賞をもらい、家に帰るとすぐ、お祖母さんに知らせたく、 仏壇に賞状をお供えました。 すると、ろうそくの火がゆれたのです...。 それを見た娘は、「お祖母ちゃんが喜んでいる、喜んでいるよ!」と言いました。 母は、きっとそうね、きっとそうね、と娘を抱きしめました...。

 

情景が浮かんで・・・涙涙・・・

2025年3月19日水曜日

なぜお彼岸は年二回あるか?


もう、お彼岸ですね!

お彼岸について少し調べてみました。

 

まず、お彼岸とは? 大辞林(国語辞典)より

(1)春分の日・秋分の日を中日(ちゆうにち)とする各七日間。また、この時期に営む仏事。俳句では、彼岸といえば春彼岸のこと。[季]春。

 

と、いうことです。しかし、春と秋に「なぜお彼岸は年二回あるか?」疑問に思いませんか。そこで、この素朴な疑問を調べてみましたが・・・。

 

結論からいうと、はっきりとは、分かりませんでした。

 

しかし、なんとなく、以下の感じです。

ご存知、日本は昔から農業の国です。春に「どうかたくさんの作物が実りますように」と祈り、秋には「たくさんの作物がとれました」と、お日様に感謝する習慣がありました。

つまり、春、秋、年二回、お日様に感謝を願うのです。そう日願(ひがん)です。

 

一方、仏教では、仏の世界(悟りの境地)へ行くことをサンスクリット語でパーラミター(波羅蜜多)と言い、日本語で「かなたの岸」として「到彼岸」となり、略されて「彼岸」となりました。

 

そう、ここに、日本の習慣である「日願」と仏教での「彼岸」がクロスオーバーして、春、秋、年二回に「彼岸」が行われるようになったらしいのです・・・。

 

そして、現在は、すでに仏の世界へ逝っている人(ご先祖様)をご供養する日に、お彼岸は、なりました。

 

また、悟りの境地になる「到彼岸」は、サンスクリット語でパーラミター(波羅蜜多)と言い、そのための修行が6通りあり、それを六波羅蜜といいます。

 

六波羅蜜は前に解説していますので、そちらを参照してください。

2025年3月18日火曜日

釈尊のいぶき:開経偈(その7)

 


・はじめに

立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。

そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。

尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。

・https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-4/

 

・経文

無(む)上(じょう)甚(じん)深(じん)微(み)妙(みょう)の法は、百千万劫にも遭(あ)遇(い)たてまつること難し。
我(われ)今(いま)見(けん)聞(もん)し受持することを得たり。願わくは如来の第一義を解せん。

 

・訳文

仏さまがお説きになられた、このうえもなく尊く、非常に奥深い、そして言い表わしようもないほどすぐれた教えは、きわめて長い年月がたっても、なかなかめぐり遇うことのできないものです。

それほどありがたい教えに、いまめぐり遇い、信仰する身となりました。このうえは、心を込めて読誦し、仏さまのお説きになった根本の真義をしっかりとつかませていただきます。


・用語

如来の第一義

仏さまの悟りの根本の真義で「無常」の法です。


・解説

人間として生まれ、遭いかたぎ仏法に遭うことができ、その教えを受持できる喜び、その感激から生まれる「仏法の奥義を必ずつかませていただきたい!」との力強い決意、それを表すことこそが開経偈なのです。

道場観から始まり、三帰依、勧請、この開経偈で、イントロが終わり、やっと無量義経、法華経と本編に入っていきます。ご期待ください!

 

2025年3月17日月曜日

釈尊のいぶき:勧請(その6)

 


・はじめに

立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。

そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。

尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。

・https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-3/


・経文

南無久(く)遠(おん)実(じつ)成(じょう)大恩教主釈迦牟尼世尊
南無証明法華の多宝如来
南無十方分身三世の諸仏
南無上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩
南無文殊・普賢・弥勒等の菩薩摩訶薩
南無高祖日蓮大菩薩
南無開祖日敬一乗大師
南無脇祖妙佼慈道菩薩
本部勧請の御守護尊神
十(じっ)方(ぽう)無(む)量(りょう)の諸(しょ)天(てん)善(ぜん)神(じん)
来(らい)臨(りん)影(よう)向(ごう) 知(ち)見(けん)照(しょう)覧(らん)

 

・訳文

宇宙の大生命である久(く)遠(おん)実(じつ)成(じょう)の本仏で、その現われとして人類救済のために真理を説いてくださった大恩ある教主釈尊よ。


法華経の教えの真実を証明される多宝如来よ。


宇宙の大生命の分身であり、過去・現在・未来を通じて、この世のあらゆる所にお出でくださる諸仏よ。


すべての人を教化、救済しようと誓願された上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩よ。


釈尊のお徳(智慧・実践・慈悲)の働きを象徴する文殊・普賢・弥勒をはじめとする菩薩方よ。


多くの困難を乗り越えて、法華経を説き広めてくださった日蓮大菩薩よ。


法華経の一仏乗の世界を信受して本会を創立してくださり、真の菩薩行に徹し、法華経広宣流布の大導師であられた開祖日敬一乗大師よ。


開祖さまの教導のもと、人心救済の教化に身命を惜しまず、菩薩行を行じてご法を証明された脇祖妙佼慈道菩薩よ。


菩薩行の実践が進むようにと守護してくださる神々よ。


この世のあらゆる所にいらっしゃり、人びとを護ってくださる神々よ。

 

どうぞこの場にお出でくださり、この場を荘厳にしてください。そして、私たちの揺るぎない信仰への真心をお見とおしください

 

 

・用語

久(く)遠(おん)実(じつ)成(じょう)

釈尊は如来寿量品で、「私は、はかりしれないほど無限の過去に成仏してから、ずっとこの宇宙のいたる所にいて説法し、衆生を教化し、導いてきたのだ」とお説きになられます。釈尊のほんとうのすがた本仏は、このように時間的、空間的に無限の存在であることを言い表わしています。 

菩薩(ぼさつ)

仏の智慧、仏の悟りを得ようとして修行しながら、他の人びとを救うことにも努力されている人のこと。

摩(ま)訶(か)薩(さつ)

摩訶とは「大」、薩は「人」という意味ですから、直訳すると、大きな志を持った人ということになります。つまり大菩薩です。

 

・解説

勧請では、弟子となった私たちが、本仏釈尊をはじめとする諸仏、諸菩薩、開祖さま、脇祖さま、ご守護くださる神々に対し、お経を読誦させて頂くこの場へのご来集をお願いいたします。そして、真理の光を心の奥底まで差し込ませ、本仏釈尊と一体になる清らかな心境を作らせていただきます。

2025年3月16日日曜日

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燈明日記ブログ: タイピング速度の目安と上げるには?:   毎日、タイピングランドでタイピングの練習をしています。 で、今の自分のスピードが、なかなか速くならず、どのレベルか気になり調べてみました。 結論から言うと、まぁ普通でした(^^;; タイピング系の仕事でなければ、一分間に80文字なので、今、約100文字なので軽くクリアーできて...