2025年3月22日土曜日

釈尊のいぶき:妙法蓮華経 方便品第二(その9)

 

・はじめに

立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。

そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。

尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。

https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-6/

 

・経文(「釈尊のいぶき」での抜粋)

()(さん)(まい)より(あん)(じょう)としてって、(しゃ)()(ほつ)げたまわく、なり。

()(なん)()(なん)(にゅう)なり。

(びゃく)()(ぶつ)ること(あた)わざるなり。

()()(いか)ん、(かつ)()(しゅ)(しん)(ごん)し、くして(どう)(ほう)(ぎょう)じ、(ゆう)(みょう)して、(みょう)(しょう)(あまね)(きこ)えたまえり。

()(ぞう)()して、(よろ)しきに(したが)ってきたもう()(しゅ)(さと)(がた)し。

(われ)してより(この)(かた)(しゅ)(じゅ)(しゅ)(じゅ)をもって、(ごん)(きょう)()べ、便をもって、して(じゃく)(はな)れしむ。()()(いか)ん、便()()(みつ)(みな)(すで)()(そく)せり。

(じん)(のん)なり。()()(りき)()(しょ)()あって()(さい)り、()(ぞう)()せり。 

()(しゅ)(じゅ)し、き、(ごん)()(にゅう)(なん)にして、(えっ)()せしむ。

って(これ)わば、()(ぞう)()を、(ことごと)したまえり。

()みなん、(また)()くべからず。

()()(いか)ん、したまえるは、()()(なん)()なり。

(ただ)(いま)()()(じん)したまえり。

(いわ)(ゆる)(にょ)()(そう)(にょ)()(しょう)(にょ)()(たい)(にょ)()(りき)(にょ)()()(にょ)()(いん)(にょ)()(えん)(にょ)()()(にょ)()(ほう)(にょ)()(ほん)(まつ)()(きょう)(とう)なり。

 

・訳文

そのときは、めい(そう)えられてかに()をお(ひら)きになられると、かってわれました。『非常奥深く、はかりしれないものです』。

その根本真理は、あまりにもしいため、修行中であっても理解できるものではありません。

なぜならば、というものは、かつて無数しくえをけ、その数々えをあらゆるをつくして実践し、内外からこる障害困難を、(ゆう)(もう)をもってらず克服し、ただひたすら目的のためにんでいったのち、ついにすぐれた智慧て、すべてのびとに(あお)がれるようなとなったのです。

このようなはかりしれない結果、いままでられたことのない深遠なる真理られたのがなのです。は、その真理を、びとのじた適切をされるのですが、びとは、そのにある真意がどこにあるのかづけないでいるのです。

舎利よ、りをてからいままで、いろいろと過去実例えをいて、くのびとにえをいてきました。

すなわち、それぞれの場合じた適切方法びとをき、自己中心からさまざまなものごとに(しゅう)(ちゃく)し、その執着のためにしんでいるには、その原因らせてしみをいてあげてきたのです。

なぜ、こうしたことができたのかというと、便智慧両方完全えているからです。

舎利よ、智慧というものは、非常広大であって、この宇宙間のあらゆるものごとをりつくしています。また、非常深遠なものであって、いむかしのことから、永遠未来のことまでとおしているのです。すなわち、すべての無量(しょう)じさせる無量)と、えを完全自由自在()())と、こののあらゆるものごとをと、ものをもれはばかることなく根本的勇気()(しょ)())と、散乱いでかに真理におもいをこらす境地(ぜん)(じょう))と、ものごとにするあらゆる執着から()()(だつ))と、精神一事してその一念しく精神統一)のすべてをえ、はてしなく奥深境地り、いままでだれもりえなかった真理きわめ、いままでしたことのない成就したのです。

舎利よ。相手場合じて、いろいろにえて、たくみにくのえをき、しかもらかでみやすい言葉いて、びとのえをくことのびをわきこさせてきました。舎利よ。これまでにべたことをじてえば、ふつうの人間では想像することもできない、最高はすっかりったのです。 

やめましょう、舎利よ。説明してみてもわかるはずがありません。

なぜならばがきわめた真理は、このにおける最高真理であり、のあいだだけで理解できるものだからです。

もろもろのは、こののすべてのものごと(現象(げんしょう)諸法(しょほう))のありのままのすがた((じっ)(そう))をきわめくされ、もまたきわめたのです。

すなわち、すべての現象には(そう)(すがた)があり、(そう)にふさわしい(しょう)性質(せいしつ))や(たい)本体(ほんたい))があります。

(たい)(りき)(せん)(ざい)(りょく))をち、け、いろいろな作用(さよう))をこしています。

つまり、こののすべてのものには(そう)(しょう)(たい)(りき)()があり、それらはいに原因(げんいん))となり機会(きかい)条件(じょうけん))となって、関係いながら変化け、千差万別結果(けっか))・(ほう)影響(えいきょう))をつくりしているのです。

こうした諸現象複雑にからみあっていて、人間知恵では原因結果のつながりがえにくいこともいのですが、そのじつ、すべてはめ((ほん))の(そう)からわり((まつ))の(ほう)まで、ふさわしくつながりって展開していく(()(きょう)(とう))のです。これが諸法実相であり、本仏真理(しんり))のきなのです。

 

・補足

(びゃく)()(ぶつ)ること(あた)わざるなり 

声聞は、えをくことによってりをようとしている修行者 

辟支仏(びゃくしぶつ)(えん)(がく)ともいい、自分体験によって会得しようとめている修行者

しかし、声聞縁覚も、自分ることを修行目的としており、菩薩のように、びとの救済をつくしながら、びととともにりへのもうとしていません。

そのために段階での知恵満足してしまい、さまの真意(すべての境地(きょうち)最高(さいこう)無上(むじょう)までげてあげたいというい)にづけないでいます。

()(こん)

えを理解するのこと。

(ほとけ)(ほとけ)(いま)()

ここでられている「」というのは、この諸法られた自身とほかの諸仏という区別ではなく、いわば「というものは」という意味です。

諸法実相()(じん)したまえり

実相には、「すべてのものごとの、現象としてわれているをありのままにる」という意味と、「すべてのものごとの本質る」という意味があります。

ここでいう〈実相〉は、両方意味をさしています。すべてのものごとの本質をみながら、現象としてわれているをも、ありのままにみておられるのです。

 


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