・はじめに
立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。
そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。
尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。
・https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-6/
・経文(「釈尊のいぶき」での抜粋)
爾の時に世尊、三昧より安詳として起って、舎利弗に告げたまわく、諸仏の智慧は甚深無量なり。
其の智慧の門は難解難入なり。
一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり。
所以は何ん、仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞えたまえり。
甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所、意趣解り難し。
舎利弗、吾成仏してより已来、種種の因縁・種種の譬諭をもって、広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ。所以は何ん、如来は方便・知見波羅蜜、皆已に具足せり。
舎利弗、如来の知見は広大深遠なり。無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。
舎利弗、如来は能く種種に分別し、巧に諸法を説き、言辞柔輭にして、衆の心を悦可せしむ。
舎利弗、要を取って之を言わば、無量無辺未曾有の法を、仏悉く成就したまえり。
止みなん、舎利弗、復説くべからず。
所以は何ん、仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。
唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。
所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり。
・訳文
そのとき釈尊は、めい想を終えられて静かに目をお開きになられると、舎利弗に向かって言われました。『仏の智慧は非常に奥深く、はかりしれないものです』。
その根本真理は、あまりにも深遠で難しいため、修行中の者であっても理解できるものではありません。
なぜならば、仏というものは、かつて無数の仏に親しく教えを受け、その数々の教えをあらゆる努力をつくして実践し、内外から起こる障害や困難を、勇猛心をもって残らず克服し、ただひたすら目的のために突き進んでいったのち、ついにすぐれた智慧を得て、すべての人びとに仰がれるような身となったのです。
このようなはかりしれない努力の結果、いままで世に知られたことのない深遠なる真理・法を悟られたのが仏なのです。仏は、その真理・法を、人びとの機根に応じた適切な説き方をされるのですが、人びとは、その奥にある仏の真意がどこにあるのか気づけないでいるのです。
舎利弗よ、私は仏の悟りを得てからいままで、いろいろと過去の実例や譬えを用いて、多くの人びとに教えを説いてきました。
すなわち、それぞれの人と場合に応じた適切な方法で人びとを導き、自己中心の考え方からさまざまなものごとに執着し、その執着のために苦しんでいる人には、その苦の原因を悟らせて苦しみを解いてあげてきたのです。
なぜ、こうしたことができたのかというと、私は方便と智慧の両方を完全に身に具えているからです。
舎利弗よ、如来の智慧というものは、非常に広大であって、この宇宙間のあらゆるものごとを知りつくしています。また、非常に深遠なものであって、遠いむかしのことから、永遠の未来のことまで見とおしているのです。すなわち、すべての人に無量の福を生じさせる徳(無量)と、教えを説く完全な自由自在の力(無碍)と、この世のあらゆるものごとを知る力と、何ものをも恐れはばかることなく法を説く根本的な勇気(無所畏)と、心の散乱を防いで静かに真理におもいをこらす境地(禅定)と、ものごとに対するあらゆる執着から脱け出て真の安心を得る心の持ち方(解脱)と、精神を一事に集中してその一念を正しく保つ精神統一の法(三昧)のすべてを具え、はてしなく奥深い境地に入り、いままでだれも知りえなかった真理・法を見きわめ、いままで人の達したことのない法を成就したのです。
舎利弗よ。私は相手と場合に応じて、いろいろに説き方を変えて、たくみに多くの教えを説き、しかも常に柔らかで飲み込みやすい言葉で説いて、人びとの心に教えを聞くことの喜びをわき起こさせてきました。舎利弗よ。これまでに述べたことを総じて言えば、ふつうの人間では想像することもできない、最高の法を私はすっかり悟ったのです。
やめましょう、舎利弗よ。説明してみてもわかるはずがありません。
なぜならば仏がきわめた真理・法は、この世における最高の真理・法であり、仏と仏のあいだだけで理解できるものだからです。
もろもろの仏は、この世のすべてのものごと(現象=諸法)のありのままのすがた(実相)を見きわめ尽くされ、私もまた見きわめたのです。
すなわち、すべての現象には持ち前の相(すがた)があり、相にふさわしい性(性質)や体(本体)があります。
体は力(潜在力)を持ち、常に外に向け、いろいろな作(作用)を起こしています。
つまり、この世のすべてのものには必ず相・性・体・力・作があり、それらは互いに因(原因)となり縁(機会・条件)となって、関係し合いながら変化し続け、千差万別の果(結果)・報(影響)をつくり出しているのです。
こうした諸現象は複雑にからみあっていて、人間の知恵では原因と結果のつながりが見えにくいことも多いのですが、そのじつ、すべては初め(本)の相から終わり(末)の報まで、ふさわしくつながり合って展開していく(究竟等)のです。これが諸法の実相であり、本仏(真理)の働きなのです。
・補足
声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり
声聞は、教えを聞くことによって悟りを得ようとしている修行者。
辟支仏は縁覚ともいい、自分の体験によって仏の道を会得しようと努めている修行者。
しかし、声聞も縁覚も、自分が悟ることを修行の第一目的としており、菩薩のように、人びとの教化・救済に力をつくしながら、人びととともに仏の悟りへの道を歩もうとしていません。
そのために低い段階での知恵で満足してしまい、仏さまの真意(すべての人を仏の境地=最高無上の智慧まで引き上げてあげたいという願い)に気づけないでいます。
機根
教えを理解する力のこと。
仏と仏と乃し能く
ここで語られている「仏と仏」というのは、この世で諸法の実相を悟られた釈尊ご自身とほかの諸仏という区別ではなく、いわば「仏というものは」という意味です。
諸法の実相を究尽したまえり
実相には、「すべてのものごとの、現象として現われている相をありのままに観る」という意味と、「すべてのものごとの本質の相を観る」という意味があります。
ここでいう〈実相〉は、両方の意味をさしています。すべてのものごとの本質の相をみながら、現象として現われている相をも、ありのままにみておられるのです。
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