2025年3月25日火曜日

釈尊のいぶき:妙法蓮華経 提婆達多品第十二(その12)


・はじめに

立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。

そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。

尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。

https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-9/

 

・経文(「釈尊のいぶき」での抜粋)

(もろもろ)げたまわく、あって、いて、(しん)(きょう)して(しょう)ぜざらんは、()ちずしてぜん。には()かん。(にん)(でん)るればけ、()にあらばより()(しょう)せん。

 

・訳文

のちのにおいて、もしのあついえをいて、じ、ありがたいとじ、いをこすことがなければ、そのりの)・(むさぼ)りの世界)・かな)といったにおちいることなく、まれ、にこのえをくことができるでしょう。

もしまれわるとしても、そこではびにちたをおくることができるでしょう。

そして、えをまれれば、にいながらでも、することができるでしょう

 

・補足


にあてはめると、りにされてし、しいちできることをしています。
 


きることのないのために、からへとものごとをり、つねにイライラしたちできることです。
 

のおもむくままにはずれたないをし、つけてしまい、ちできることです。
 

(しょう)ぜん

いつ、どこへっても、さまとともにいるつことができるというです。すなわち「さまにかされている、いつもさまにられているんだ」というです。こういうにあれば、きなられ、いつもせなきることができます。 

 

()かん

いつもさまのにいるがあるは、さまのえをれることはありません。ですからこの(せつ)は、いつもえをくりわうことができるというです。


0 件のコメント:

コメントを投稿