・はじめに
立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。
そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。
尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。
・https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-10/
・経文(「釈尊のいぶき」での抜粋)
我仏を得てより来。
経たる所の諸の劫数。
無量百千万。
億載阿僧祇なり。
常に法を説いて。
無数億の衆生を教化して。
仏道に入らしむ。
爾しより来無量劫なり。
衆生を度せんが為の故に。
方便して涅槃を現ず。
而も実には滅度せず。
常に此に住して法を説く。
我常に此に住すれども。
諸の神通力を以て。
顚倒の衆生をして。
近しと雖も而も見ざらしむ。
衆我が滅度を見て。
広く舎利を供養し。
咸く皆恋慕を懐いて。
渇仰の心を生ず。
衆生既に信伏し。
質直にして意柔輭に。
一心に仏を見たてまつらんと欲して。
自ら身命を惜まず。
時に我及び衆僧。
倶に霊鷲山に出ず。
我時に衆生に語る。
常に此にあって滅せず。方便力を以ての故に。
滅不滅ありと現ず。
余国に衆生の。
恭敬し信楽する者あれば。
我復彼の中に於て。
為に無上の法を説く。
汝等此れを聞かずして。
但我滅度すと謂えり。
我諸の衆生を見れば。
苦海に没在せり。
故に為に身を現ぜずして。
其れをして。
渇仰を生ぜしむ。
其の心恋慕するに因って。
乃ち出でて為に法を説く。
神通力是の如し。
阿僧祇劫に於て。
常に霊鷲山。
及び余の諸の住処にあり。
衆生劫尽きて。
大火に焼かるると見る時も。
我が此の土は安穏にして。
天人常に充満せり。
園林諸の堂閣。
種種の宝をもって荘厳し。
宝樹花果多くして。
衆生の遊楽する所なり。
諸天 天鼓を撃って。
常に諸の伎楽を作し。
曼陀羅華を雨らして。
仏及び大衆に散ず。
我が浄土は毀れざるに。
而も衆は焼け尽きて。
憂怖諸の苦悩。
是の如き悉く充満せりと見る。
是の諸の罪の衆生は。
悪業の因縁を以て。
阿僧祇劫を過ぐれども。
三宝の名を聞かず。
諸の有ゆる功徳を修し。
柔和質直なる者は。
則ち皆我が身。
此にあって法を説くと見る。
或時は此の衆の為に。
仏寿無量なりと説く。
久しくあって乃し仏を見たてまつる者には。
為に仏には値い難しと説く。
我が智力是の如し。
慧光照すこと無量に。
寿命無数劫。
久しく業を修して得る所なり。
汝等智あらん者。
此に於て疑を生ずることなかれ。
当に断じて永く尽きしむべし。
仏語は実にして虚しからず。
医の善き方便をもって。
狂子を治せんが為の故に。
実には在れども而も死すというに。
能く虚妄を説くものなきが如く。
我も亦為れ世の父。
諸の苦患を救う者なり。
凡夫の顚倒せるを為て。
実には在れども而も滅すと言う。
常に我を見るを以ての故に。
而も憍恣の心を生じ。
放逸にして五欲に著し。
悪道の中に堕ちなん。
我常に衆生の。
道を行じ道を行ぜざるを知って。
度すべき所に随って。
為に種種の法を説く。
毎に自ら是の念を作す。
何を以てか衆生をして。
無上道に入り。
速かに仏身を成就することを得せしめんと。
・訳文
私が仏となってから、これまでに経った時間は無量・無限です。
そのあいだ私は、常に真実の教えを説き、無数の衆生を教化して仏道に導きました。
そのときからもまた、無量の月日が経っているのです。
私は衆生を救う手段の一つとして、この世から姿を消したこともありますが、実際は滅度(入滅)したのではなく、常にこの娑婆世界にいて法を説いているのです。
私は常にこの世界にいるのですが、自由自在な神通力によって、顚倒している(何ごとも自分中心に考え、ものごとの真実を見ようとしない)衆生には姿が見えないようにするのです。
衆生は、私が入滅したのを見て、舎利をまつって供養をし、そこではじめて真剣に仏の教えを求めようという心を起こします。
求道の心を起こした衆生は、教えを心から信じ、柔らかく素直な心で、仏とともにいるという自覚を得ようと、命をも惜しまないほどの真剣さで努力します。
このような人びとが多くなれば、私は弟子たちとこの世に出てきて、『私は常にここにいますが、教化の手段として必要だと思われるときに入滅を見せるのです。
また、この世界以外の場所でも、正しい教えを敬い、信じ、聞きたいと願う人たちがいれば、私はその人たちの前にも現われて無上の法を説きます』と衆生に語ります。
多くの人は、このことを知らないために、私が滅度するのだと思い込んでいるのです。
仏の眼で衆生を見ると、多くの人は苦の海に沈んで、苦しみもがいています。
さればこそ、私はわざと身を現わさないで、衆生に自ら仏を求める気持ちを起こさせるのです。
仏を恋慕する心が人びとに起これば、すぐに身を現わして、その人たちのために法を説きます。
仏の神通力とはこのようなものであって、無限の過去から無限の未来まで、娑婆世界およびその他の世界に仏は存在しているのです。
衆生の目で見ると、世界全体が大火に焼かれてしまうような時代になっても、仏の国は安穏であって、天上界の者や人間界の者がたくさん集まり、楽しい生活を送っています。
美しい花園や静かな林、光輝く宝玉によって飾られた立派な建物がたくさんあります。
木々には美しい花が咲き、豊かな実がなっていて、その下で人びとは何の憂いもなく遊んでいます。
天人は妙なる音楽を奏で、曼陀羅華の花びらを雨のように、仏や人びとの上に散じています。
仏の眼から見た世界は、このように平和で美しいのですが衆生の目から見ると、あたかも大火に焼かれるがごとく、不安や恐怖に満ちているように見えるのです。
このような衆生は、よくない行ないを積み重ねるために、長い年月が経っても三宝(仏・法・僧)の名をくことができません。
反対に、世のため人のためにさまざまな善行をなし、心が柔和で素直な者は、私がいつもそばにいて常に法を説いている姿を見る(自覚する)ことができるのです。
そのような人びとに対して、あるときは『仏の寿命は限りないものであって、無始無終である』と説きます。
長いあいだかかって、ようやく仏の存在を知った人には、『仏に出会うことは難しいのだから、いま出会えた喜びを胸に刻んで、怠らず励むのですよ』と説くこともあるのです。
仏の智慧の力はこのように大きいものであり、その智慧の光が照らしだす世界は無量です。
また、仏の寿命も無量であって、それは長いあいだ善業を積んで得た寿命なのです。
ほんとうの智慧を求めようとしているみなさんは、仏の寿命が永遠であり、智慧の力が無限であることを疑ってはなりません。
もし、疑いを起こすような迷いの心があれば、永久に断ち切ってしまわなければなりません。
仏の言葉は、すべて真実なのです。
先に述べた譬え話において、毒を飲んで本心を失ってしまった子どもたちを治すために、医師が善い方便をもって、実際は死んでいないのに『死んだ』と告げさせたことを、だれもとがめたりしないのと同じように、仏が姿を見えなくするのも決してうそ、偽りではありません。
私は父です。
世の父です。
さまざまな苦悩を抱える衆生を救う者です。
いつも衆生のそばにいて、その苦しみを除こうとしているのですが、凡夫の心が顚倒しているので、その真実を見ることができません。
そこで、その目を覚まさせるために、実際はそばにいても『時期がくれば姿を消すのだ』と告げるのです。
もし、いつでも仏に会えるのだということになれば、衆生にわがままな心が生じて五欲に執着する(己の欲望にとらわれる)ため、修羅(争いの世界)や地獄(怒りの世界)などもろもろの悪道の苦しみが人生に現われてくるのです。
私は衆生のすべてを常に見とおして、ある者はよく仏の道を行じており、ある者は行じていないということを知り尽くしていますから、衆生の心がけや教えを理解する力に応じて、適切な方法を選び、さまざまに法を説いてあげるのです。
とはいえ、どんな衆生に対しても、私の本心は少しも変わりません。どうしたら衆生を仏の道に導き入れることができるだろうか、どうしたら速やかに仏の境地に達せしめることができるだろうかと、常にそれのみを念じているのです。
・補足
神通力
ここで言う神通力とは、修行などによって得られる不思議な力ということではありません。久遠実成の本仏は、宇宙の一切のものを生かしている根源の大生命ですから、自由自在の力を持っておられます。その力を表現しているのです。
霊鷲山
釈尊が法華経を説かれた場所が霊鷲山であったために、こうおっしゃられたのであって、真の意味は「この世」ということです。私たちが仏の教えを聞くところは、どんな場所であっても、そこが霊鷲山なのです。
余国
娑婆世界以外の国土ということですが、宇宙のありとあらゆる場所という意味にとらえるといいでしょう。
曼陀羅華
天上界に咲く花で、見る人の心を喜ばせずにはおかない、美しい花のことです。
罪の衆生
仏教でいう罪とは、必ずしも悪いことをしたという意味だけではなく、煩悩に振り回されて、自らの仏性をくらましてしまっていることもいいます。
三宝の名を聞かず
仏さまに会うことも、仏さまの教えにふれることも、教えを求める仲間に入れてもらう機会にも恵まれないということです。
慧光照すこと無量に
仏の智慧の光が照らしだす世界は無量であるということは、いつ、いかなる場所でも、迷いの闇にいる衆生に救いの力を与え、仏性を輝かせる働きをするということです。したがって、すべての人が必ず真理に目覚めることができるという意味です。
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