・はじめに
立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。
そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。
尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。
・https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-11/
・経文(「釈尊のいぶき」での抜粋)
過去に仏いましき。
威音王と号けたてまつる。
神智無量にして。
一切を将導したもう。
天・人・竜神の。
共に供養する所なり。
是の仏の滅後。
法尽きなんと欲せし時。
一人の菩薩あり。
常不軽と名く。
時に諸の四衆。
法に計著せり。
不軽菩薩。
其の所に往き到って。
而も之に語って言わく。
我汝を軽しめず。
汝等道を行じて。
皆当に作仏すべしと。
諸人聞き已って。
軽毀罵詈せしに。
不軽菩薩。
能く之を忍受しき。
其の罪畢え已って。
命終の時に臨んで。
此の経を聞くことを得て。
六根清浄なり。
神通力の故に。
寿命を増益して。
復諸人の為に。
広く是の経を説く。
諸の著法の衆。
皆菩薩の。
教化し成就して。
仏道に住せしむることを蒙る。
不軽命終して。
無数の仏に値いたてまつる。
是の経を説くが故に。
無量の福を得。
漸く功徳を具して。
疾く仏道を成ず。
彼の時の不軽は。
則ち我が身是れなり。
時の四部の衆の。
著法の者の。
不軽の汝当に。
作仏すべしというを聞きしは。
是の因縁を以て。
無数の仏に値いたてまつる。
此の会の菩薩。
五百の衆。
幷及に四部。
清信士女の。
今我が前に於て。
法を聴く者是れなり。
我前世に於て。
是の諸人を勧めて。
斯の経の第一の。
法を聴受せしめ。
開示して人を教えて。
涅槃に住せしめ。
世世に是の如き。
経典を受持しき。
億億万劫より。
不可議に至って。
時に乃し。
是の法華経を聞くことを得。
億億万劫より。
不可議に至って。
諸仏世尊。
時に是の経を説きたもう。
是の故に行者。
仏の滅後に於て。
是の如き経を聞いて。
疑惑を生ずることなかれ。
応当に一心に。
広く此の経を説くべし。
世世に仏に値いたてまつりて。
疾く仏道を成ぜん。
・訳文
過去に威音王という仏がおられ、すぐれた智慧で一切衆生を導かれました。
天界の人びとも、人間界の人びとも、人間以外の鬼神たちも、ともに真心を捧げてお仕えしていました。
この仏が入滅され、その教えも忘れられようとするころ、一人の菩薩がいました。
常不軽菩薩という名でした。
そのころの出家・在家の修行者たちは、教えを自分流に勝手に解釈して、それにとらわれていましたが、常不軽菩薩は彼らのそばに行ってこう言うのでした。『私はあなた方を軽んじません。
あなた方は菩薩の道を行ずることによって、必ず仏となる方々だからです』と。
人びとは常不軽菩薩のことを、いいかげんなことを言うやつだと軽蔑し、罵り、皮肉を言いましたが、菩薩は寛容の精神をもって、じっとそれを受けとめました。
常不軽菩薩が過去からの身(行ない)、口(言葉)、意(心)の三業の跡を清め尽くして、この世の生を終えようとするとき、法華経の教えを聞くことができました。
そのために身も心もすっかり洗われました。
そして、神通力を得て寿命が延びたため、人びとのためにまた広く教えを説きました。
小法にとらわれていた人びとは、常不軽菩薩のおかげで正しく教化され、仏の悟りを志すようになりました。
菩薩はその功徳によって、次の世も、また次の世でも無数の仏にお会いすることができました。
そして、そこでもこの教えを説き続けたために、はかりしれないほどの功徳を得ることができました。その功徳でまた無数の仏にお会いするという循環をくり返すうちに、ついには仏の悟りに達したのです。
そのときの常不軽菩薩が私の前身なのです。
そして当時、小法にとらわれていた出家・在家の修行者たちは、常不軽菩薩から『あなた方は必ず仏になれる人です』といつも聞かされていたために、その言葉によって仏性を開くことができ、無数の仏に会うことができました。
この法会には、菩薩や大勢の出家・在家の修行者たちが集まって話を聞いていますが、じつは、あなた方こそ過去において私が教化した人たちなのです。
私は、過去の世において、あなた方に最高の法であるこの法華経の教えを聞くことを勧め、〈すべての人が仏性の顕われである〉という真実に目を開かせ、宇宙を貫く〈無常〉の根本法則を教え示して、大安心の境地(涅槃)に至らせました。
そして、私自身もいつの時代にあっても、この教えを常に受持したのです。
しかし、仏法に出遇うことは簡単なことではありません。
億億万劫という考えられないほどの年月がたち、時が熟して、初めて法華経を聞くことができるからです。 億億万劫という推量も及ばぬほどの年月を経て、ふさわしい仏縁が結ばれてこそ初めて諸仏世尊はこの教えをお説きになるからです。
そういうわけですから、私が入滅したのちの世の行者たちよ、この尊い教えに疑惑を持つことなく、真心を込めて教えを説き広めてください。
そうすれば、その功徳によって、いつの時代にも仏に会うことができ、まわり道をすることなく仏の悟りに達することができるでしょう。
・補足
四衆
男の出家僧(比丘)、女の出家僧(比丘尼)、男の在家修行者(優婆塞)、女の在家修行者(優婆夷)のことです。「四部」と言うこともあります。
忍受
怒りや反発を感じながらも、じっと堪えるという意味ではありません。相手を恨むことなく、包容力をもって受けとめるということです。
五百の衆
仏教経典には、一万二千とか、五千などという数がよく出てきますが、これらは実数をさすのではなく、「たくさん」と言う意味です。ですから、この五百という数も「大勢の人たち」と言う意味です。
其の罪畢え已って
常不軽菩薩も出家する以前は、凡夫の生活を送っていました。ときには自分勝手な行ないをしたり、怒ったり、人と争ったこともあったはずです。そうした過去の誤った行ないが、菩薩行によって、すっかり清められたということです。
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