2025年3月9日日曜日

幸せを呼ぶ『飛田給ガール』

 


2007年5月頃に京王線で調布駅から分倍河原駅に通っていた時に遭遇したことを、旧燈明日記に書いた記事なんだけど、凄く印象に残っていたので、法華経ブログでも掲載することにしました。


京王線の飛田給駅8時05分着の電車で、一番最後の車両の一番奥のドアにいつもいる少女。
この少女は、飛田給駅に着く寸前に『とびたきゅ〜』と大声で叫び、そして、降りる少女です。


この車両に乗っている人々は、今では、皆、その瞬間を心待ちにしています。
そして、なぜか、その声を聞くと、一日が幸せにすごせるような気がするのです。


先日、私は少女の横にいました。そして、飛田給駅に着くと、その日はなぜか、蚊がなくような小さな声で『とびたきゅ〜』と言ったのです。
ですので、たぶん私以外は、その声は聞こえませんでした。


すると、車内は騒然、『え〜!なんで言わないの!』と言う声があっちにもこっちにも。
高校生の男子グループなどは、『俺、今日は駄目だ、あの声を聞かないと元気でない…どうしよう…』


そう、少女はすでにその車両の人々を幸せにするアイドルになっていたのです。
人は、その少女を数学ガール(書名)でなく、飛田給ガールと呼びました(少なくとも私はそう呼んでいます)。


あなたも是非、飛田給駅8時05分着の一番最後の車両に乗ってみてください。
飛田給ガールの幸せの声を聞いてみてください!

 

記憶では、見るからに知的障碍者の少女でしたが、車内を和やかにする天使のような女の子でした。今でも強く印象に残っています。ありがとう・・・飛田給ガール。今はどうしているんだろうか・・・

2025年3月8日土曜日

燈明日記ブログ: 法華経ブログ毎日更新敗北宣言

燈明日記ブログ: 法華経ブログ毎日更新敗北宣言:   今年一年間、法華経ブログを毎日更新すると、元旦に宣言しましたが、その敗北宣言です! 今日は元旦、法華経ブログ毎日更新   4月の中まではコンテンツを用意できましたが、もうネタ切れで、ブログアクセス数も増えず、モチベーションも駄々下がりです(^^;;; 4月の中からは、毎日更新...

諸法無我に思う

 

 

仏法には三法印とか四法印という仏教の旗印があります。その法印内の一つ、「 諸法無我」について、思うところがありました。

 

「 諸法無我」は、文字通り「すべての事象や存在は無我である」という意味を持ちます。すべての事象や存在に我がないというイメージは、全てがつながっていると解釈していいですか・・・


人間の体は、物質レベルで見たときに、酸素・炭素・水素などの元素から成り立っています。
これらの元素は、すべて地球上の元素からきています。

 

別の言い方をすると、すべての人間は地球上の元素から出来ていて、地球上の元素を食べて生きていき、亡くなったら地球上の元素に戻りますね。
 

つまり、物質レベルで見たときに、すべての人間は、つながっているのです。
また、地球上の元素から生まれ、死んで地球上の元素へ戻る…つまり生死を繰り返して、永遠の命なのですね。

 

魂とかのよくわからない概念でなく、地球上の元素で考えると、空間的繋がりや時間的永遠の命がわかるような気がしたので、ブログに書きましたです(^^;;

 

宗教素人の戯言です・・・すみません、誰にともなく

 

2025年3月7日金曜日

警備業は菩薩行!

私は老施設警備員です。


日々警備業をこなしていく上で気がついたことがありました。それは、警備での仕事の行が、実は菩薩行そのものなのです。


『菩薩行』とは、『六波羅蜜』の実践です。
『六波羅蜜』とは、簡単に紹介すると以下の通りです。

  • 布施 - 精神的、物質的、肉体的にあらゆる面から人に尽くすこと。
  • 持戒 - 謙虚に教えを守り、人格完成の努力をすること。
  • 忍辱 - 他に対して寛容であり、どんな場合でも平静心を保つこと。
  • 精進 - 本来の使命にむかって、人格完成の努力をすること。
  • 禅定 - どんな事が起こっても動揺しない、平静心をえること。
  • 智慧 - どんな場合でも、真理に沿った道を選ぶことができること。


どうですか?
そこの警備員さん!
まさに、警備業は『菩薩行』そのものですね!!


警備流に六波羅蜜を解釈すると以下の感じになりますかね。

  • 布施 - オーナーやお客様はもちろん、同僚や施設に関わるすべての人に、いろいろと尽くします。
  • 持戒 - 警備員は特に犯罪などに関わらないように、施設の規則を守ります。
  • 忍辱 - どんなクレームに対しても寛容であり、どんな場合でも平静心を保ちます。
  • 精進 - 警戒と鍵管理を完璧にやり、非常時(発報時)対応の勉強と訓練に努力をします。
  • 禅定 - 非常時(発報時)にどんな事が起こっても動揺しない、平静心をえるように努力をします。
  • 智慧 - どんな場合でも、真理に沿った、正しい道を選ぶことができるように努力をします。


仏教界では、『菩薩行』とは、仏になる修行の『行』です。
我々一般人が『仏になる』ということは、人格完成を目指すことです。


つまり、警備員さんは、安い給料でも文句を言わず、人様に尽くし、人格完成を目指して頑張っている、素晴らしい人達なのですよ!
 

いや〜、警備員になってよかった!
これからも、人格完成を目指して日々頑張ります!!

 

2025年3月6日木曜日

正定聚の力

 


仏教では、社会を構成する人々を3つの種類に分類しています。


  • 正定聚(いつも正しい心を持って、善をなす人々の集まり)
  • 邪定聚(いつも邪心を持って、悪をなす人々の集まり)
  • 不定聚(正定聚に接すれば正定聚に、邪定聚に接すれば邪定聚に、心や行いが定まらない人々の集まり)


施設警備の現場では、禁煙エリアなのに喫煙、吸殻のポイ捨て、ゴミのポイ捨て、自転車の不法駐輪、バイクの不法駐車、弁当食べ残し放置、嘔吐物放棄、糞尿物放棄…。
モラルの無い人、ルールを守らない人、まさに、施設警備の現場では、邪定聚(じゃじょうじゅ)の人が一杯居ます。


なんとか、私たち警備員が、いつも正しい心を持って、清掃や注意勧告をして、邪定聚の人を正定聚(しょうじょうじゅ)に引き入れようと…まぁ、不定聚(ふじょうじゅ)の人は、結構、引き入れていると思いますが、どうなんでしょうか…。


正定聚の力で、不定聚と邪定聚の人達をなんとか善に目覚めさせる方法はないものでしょうか?
なんて、思いながら、いつも巡回をしている今日この頃です。特に、吸殻のポイ捨てを撲滅する妙案は、ないものでしょうかねぇ……。

 

しかし、人間社会の正定聚、邪定聚、不定聚の関係は、腸内環境の善玉菌、悪玉菌、日和見菌の関係と同じですね。今気がつきました(^^;;

2025年3月5日水曜日

「とやせん」とは


 

妙法蓮華経 化城諭品 第七を読誦していると気になったフレーズがありました。

『大徳の天の生ぜるとやせん、仏の世間に出でたまえるとやせん』等で何回か「とやせん」というフレーズに遭遇します。
これ、ちょっと気になったので、ネットで調べて見ました。

 

「とやせん」とは、「と」は接続助詞。「や」は詠嘆・反語の係助詞。「せ」はサ変動詞「為(す)」の未然形。「ん」は「む」の変形で推量を表す助動詞です。ですので、この部分だけで「どうしようか?どうしようもない」と現代語訳になります。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1470035774

 

また、最近流行りの AIくん に聞いてみると

「仏の世間に出でたまえるとやせん」という表現での「とやせん」は、仏教の文献や経典で見られることが多く、特に法華経の文脈で使われることがあります。この「とやせん」は、日本語の古典的な表現で、「どのようにして」「どのような形で」という意味を持っています。


ということで、「とやせん」は、「どうしようか?どうしようもない」とか「どのような形で」ということでした。

2025年3月4日火曜日

弥勒菩薩の如く

 

私はもうすぐ70歳になる老人施設警備員なんですが、最近、特にもの忘れが多く悩んでいると、以下の一節を見つけました。

 

妙法蓮華経 序品 第一」で弥勒菩薩の過去世についての記述があります。

文殊菩薩が過去世で妙光菩薩だった時 八百人の弟子たちのなかに、求名(ぐみょう)と呼ばれるものがいた。
名利を求め、名声を博したいと願っていたが、経を読んでも理解できず、すぐ忘れてしまう。
しかし、求名は一念発起して善行を積み、数えきれないほど多くの仏に仕えてきました。
弥勒よ、その時の妙光菩薩は、誰あろう他ならぬこのわたし(文殊菩薩)なのです。
そして、すぐ忘れてしまう求名は、あなた(弥勒菩薩)だったのです。

 

このクダリを読んだ時に、警備の仕事で、すぐ忘れてしまう今の自分と重なり、凄く弥勒菩薩に親近感を感じました。


私も一念発起して善行を積み、警備菩薩を目指します(^o^)

 

ちなみに、老人性の物忘れと認知症の物忘れの違いは、以下の感じです。

例えば、前日にAさんとあったとします。

  • 老人性の物忘れの場合、Aさんと会ったのは覚えているのですが、名前が思い出せない。
  • 認知症の物忘れの場合、Aさんと会ったこと自体を全く忘れる。

とのことです。 

私は、どうやら、まだまだ認知症ではない感じです(^^;;;

2025年3月3日月曜日

すべてに感謝の気持ち

先日、月に2度の整体の日で、治療を受けてきました。

治療の部屋にカレンダーがあり、そのカレンダーに『食べ物は、感謝して頂けば、胃腸の病気になることはない』という格言が書いてありました。


いやー、過敏性腸症候群は精神的なものが原因で、会社でのストレスだと思っていましたが、整腸剤を飲んで腹巻きをすれば、ある程度よくなるし、もしかしたら、食べ物に感謝をしていなかったのかなぁ・・・と思えてきました。

それから、整腸剤(ビオスリー)を飲み出してから、花粉症が良くなった気がします。

今の時期、周りでは、花粉症で苦しいとの話しで持ちきりですが、今のところ、私は全く大丈夫です。40年以上患った花粉症が治った?

食べ物に感謝して、腸を整えて、体調も花粉症も調子良く、感謝感謝です。

 

それとは別に以下にも感謝ですね。

  • このリストラ時代に、契約社員でずーっと働けるのも感謝感謝。
  • 会社にいる嫌なヤツも、私をいろいろと成長させてくれるので感謝感謝。
  • 仕事でのミスにも、私をいろいろと成長させてくれるので感謝感謝。
  • 大嫌いな親父も、家を残して亡くなってくれた・・・感謝感謝。
  • 朝、目が覚めて、息をしていた・・・有り難い・・・感謝感謝。
  • まわりに、気のやさしい家族がいる・・・感謝感謝。
  • 可愛い孫が生まれてくれた・・・・感謝感謝。

 

とにかく、『すべてに感謝の気持ち』を持って生きていけば、健康で良い人生が送れそうですね(^o^)

 

2025年3月2日日曜日

燈明日記ブログ: 善意の幼児虐待

燈明日記ブログ: 善意の幼児虐待: 昨日は、 ピコちゃん の初節句を行いました。 2月9日が一歳の誕生日だったのですが、ここのところ、人見知りが激しく、爺婆が抱っこすると泣き止まない状態でした。 また、次男のお嫁さんのご家族が、田舎(島根県)からお祝いに東京に来ました。 次男に呼ばれた時間に次男のアパートに行くと、...

怒りの源泉

 

先日、整体に行ったとき、予約時間から1時間20分も待たされて、怒りがこみ上げてきて、帰ってきてしまいました。

私は、あまり怒らない性格で、自分でもこのことが、すごく驚きでした。


待たされたぐらいで、なんでこんなに怒りがこみ上げてきたのだろうかと、不思議でなりませんでした。
で、いろいろ原因を推察すると、仕事でのストレスが原因ではないかと辿り着きました。


その日は、貴重な公休日で、家内が予約を取ってくれて、整体に行ったわけです。
ちょっと離れている駐車場に駐車区画が2つあり、1台づつ置けるのですが、両方とも先客があり、空くまで待機をしていました。
そして、予約時間を過ぎても駐車区画がなかなか空かないのです。


折角の公休日に、整体へ予約時間に来ているのに、長時間待たされる…。
こんなことで、怒りがむくむく湧き出てくるとは、修行がたらんですね。


しかし、怒りの感情はどこから湧いて来るのだろうか…。
とりあえず、怒りを抑えるには、以下が有効とのことです。

  • まず、ゆっくりと大きく深呼吸して10秒数えます。

 

仏教的には、仕事のストレスの『因』が、1時間20分も待たされた『縁』にふれて、怒りの『果』が爆発し、整体を受けることが出来なかったという『報』が来たのですね。まさに因縁果報でした。

 

しかし、怒りの源泉ってなんだろ〜

 

ネット検索してみると

心理学的に、怒りの感情は危険回避、価値観や自尊心を守るといった防衛本能であると言われます。 この怒りの感情は「二次感情」と呼ばれ、怒りが生まれる前には、悲しい、悔しい、寂しい、苦しい、不安、困惑などのネガティブな「一次感情」があります。 この一次感情から二次感情の怒りが生み出されます。
 

また、AI君にも聞いてみると

  • 欲求不満: 期待していたことが叶わなかったり、目標達成が阻まれたりすると、欲求不満が溜まり、怒りにつながることがあります。
  • 不公平感: 自分だけが不当な扱いを受けていると感じると、怒りを感じやすくなります。
  • 脅威: 身体的、精神的な安全が脅かされると、自己防衛本能から怒りが湧き上がることがあります。
  • ストレス: 過度のストレスは、心身の余裕を奪い、些細なことでも怒りを感じやすくなる原因となります。
  • 過去の経験: 過去のトラウマや嫌な経験が、現在の怒りの感情に影響を与えていることもあります。

ということで、 怒りの感情の前に は、悲しみや悔しさなどの一次的な感情があるんですね…

2025年3月1日土曜日

少欲知足

 


今日のテーマは少欲知足です。意味は読んで字の如く、欲を少なくして足りることを知る。

 

実は、少欲知足という言葉は、普賢菩薩勧発品 第二十八に出てくるのです。 つまり、少なくとも今から約2000から2500年前からある言葉なのです。 

 

 現代は、乱獲飽食エネルギー大量消費の時代になって持続不可能な世界になりつつあります。 (温室効果、オゾン層破壊、異常気象、森林伐採、資源枯渇・・・) 一日も早く持続可能な世界に戻さなければ、なりません。 それには、少欲知足がキーワードになるような気がするのです。

 

とにかく、一人ひとりが、一日も早く、乱獲飽食エネルギー大量消費をやめ、少欲知足に目覚めて、環境にやさしい生き方をして欲しい(もちろん自戒を込めて)。 このままでは、次世代(子供、孫達・・・)につけが沢山まわって、大変な苦労を負わせることになってしまう・・・。

 

ちなみに、少欲知足は小欲知足と勘違いし易いですね。あくまでも少欲知足です。小欲知足の方だと、持続可能な世界を実現させる大きな欲はダメになってしまいます(^^;;


2025年2月28日金曜日

立哨と常不軽菩薩


私のお仕事は施設警備員で、施設の玄関ロビーで立哨をしています。

立哨での具体的な仕事の一つは、実は、挨拶だったりします。

  • 出社時は、「おはようございます。」
  • 退社時は、「おつかれさまでした。お気をつけてお帰りください。」

これを、集団の時は無理なのですが、基本的には一人ひとりに行います。


挨拶をしていると、必ず挨拶を返してくれる人、絶対に挨拶を返さない人が、ハッキリしてきます。挨拶を返さない無視する人は、警備員如きに挨拶されてもなぁって感じなのかな・・・


挨拶を返してくれる人には、すごく親しみがわき、会えると楽しい気持ちになれます。
逆に、絶対に挨拶を返さない人には、顔には出しませんが、嫌な気持ちになります。


妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十に以下の逸話があります。

 

仏の教えが形式化、そして、形骸化された時代に一人の菩薩がいました。その菩薩は、会う人ごとに、会う人ごとに、『私は、あなたを敬います。けっして軽んじません。なぜなら、あなたは、必ず仏になられる方であるからです。』と言って賛嘆するのでした。
ところが、大勢の中にはそんなことを言われて腹を立て、石や瓦を投げつける者がいました。
すると、菩薩は走って逃げ、遠くのほうからまた同じセリフ『私は、あなたを敬います。けっして軽んじません。なぜなら、あなたは、必ず仏になられる方であるからです。』 と、大声で唱えるのでした。

 

私は「常不軽菩薩」の修行を行っているだ…と思い、今日も全員に挨拶をするのでした。



どんなに無視されようとも、真心から挨拶を行じないといけませんね。自戒をこめて…。

2025年2月27日木曜日

燈明日記ブログ: 私と立正佼成会

燈明日記ブログ: 私と立正佼成会:   

 法華経ブログ を読んでくださっている方は、私が「立正佼成会」のダメダメ信者だと知っていると思いますが、今日は、ちょっと「立正佼成会」について語ってみたいと思います。 尚、公式的な 「立正佼成会」を知りたい方は 本部ホームページ をご覧ください。   さて私は、生まれた時から、...

一大事の因縁とは


 

一大事の因縁とは、妙法蓮華経方便品第二に、以下の一節が出てきます。

 

諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なるを得せしめん

欲するが故に、世に出現したもう。

衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。

衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。

衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。

舎利弗、是れを諸仏は唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうとなづく。

 

要約すると、仏さま(諸仏)は、我々(衆生)の良心(仏性・仏知見)を「開き」「示し」「悟らせ」「正しい道に入らしめる」ため、この世に出現したとのことです。


逆にいうと、我々は、仏道とご縁になることにより、良心(仏性)に目覚め、正しい行いをしていくことが、結果的に幸せになれるよ〜って事らしい(^o^)


2025年2月26日水曜日

認めれば認められる

最近、この法華経ブログを再開して、こんなにも内容も見た目もいいブログなのに、アクス数が少ないと思っていたら・・・、ネットで以下のメッセージを見つけました。

 

いくら努力しても、人は自分のことを正しく評価してくれないと不満をもらす人がいます。その不満で、やる気をなくしたりヤケを起こしたりしたら、自滅の道をたどることになってしまいます。そこのところで、ちょっと見方を変えて「では私は、人のことをどれだけ認めてあげていただろうか」と考えてみてほしいのです。あらためて自分を振り返ると、自分も人のことをあまり認めてあげていないのですね。

人に認めてもらいたかったら、人を認められる自分になるほうが先です。その心のゆとりが持てると、人の目を気にして一喜一憂することがなくなります。人に認められようが認められまいが、気にならない。自分のなすべきことに黙々と励み、喜んで人さまの下積みに徹していられるようになってきます。

いつも申し上げるように、信仰者の安らぎは仏さまがすべてご照覧だという安心感にあります。樹木の根は見えませんが、下に深く根を下ろせば下ろすほど幹や枝葉は上に伸びていきます。無理やり人の目を自分に引きつけようとするよりも、自分が大きく育っていけばいいのです。高くそびえる木は人の目を引かずにいないのですから。


庭野日敬著『開祖随感』より

 

さすが、法華経大家の開祖様、ありがとうございます。

まずは、相手を認め、自分のなすべきことに黙々と励み、喜んで人さまの下積みに徹しられそうです(^o^)


そう思って、 よそ様のブログを読んでみたら、自分が如何に文才がないことを痛感した😓

とにかく、少しでも人さまのお役にたてるような文章が書けるようにと、黙々と励むしかない…

2025年2月25日火曜日

見えない世界からの好意

 


一見、あやしいタイトルになっていますが、正月、家内の実家に行って、お祖母さん(ママのママ)から聞いた話の要約です。

 

信心深いお祖母さんは、仏さまに毎日欠かさず、お経(法華経)を読誦しています。すると、困ったときに必ず、仏さまが助けてくれる(お手配が付く)とのことでした。


これは、理屈ではなく、お祖母さん(90歳)の経験と見聞きから来ることなのです。好意でお経を読誦すると、それが通じ、好意が返ってくる・・・

 

たとえば、私の場合、立哨で普段見も知らない社員さん達に毎日挨拶をしています。
好みの人には特に好意をもって挨拶をしています。


すると、その好意が伝わり、その人から好意をもって挨拶が返ってくるのです。
これは、経験からくる紛れもない事実なのです。


と、同じように見えない世界の仏さまに好意をもって挨拶をすれば、その好意が伝わり、仏さまからも好意をもって返ってくるものと思うのです。 


つまり、お祖母さんの言っていることは、真実なのだと思えるのです。そう、見えない世界から好意が来るのです!!


決して、頭がおかしくなったわけではありません。普段から、嫌々ながらではなく、好意を持ってご供養(法華経読誦)を行なっていれば、本当に困ったときに、仏さまから好意をもらえるのだと思うのです(^o^)

 

2025年2月24日月曜日

笑顔はエネルギー!

 

 

笑顔は、身の布施と云います。

 

施設警備員の私は、立哨時に通る人すべてに挨拶をしますが、殆どの人は形式的な挨拶か無視です。


しかし、中には笑顔で挨拶を返してくれる人が少しいるのです。

 

するとなにか嬉しくなり、よいエネルギーをもらった気がするのです。


老若男女を問わず、そのようになるのです。あまり面白くない仕事の中でも、なにか面白さはありますね。


笑顔は間違いなくエネルギーで、そのエネルギーで今日も仕事にやりがいを感じる事が出来るのです。


もし、あなたが警備員さんから、挨拶をされたら、できれば笑顔で挨拶を返してくださいね。よろしくお願いします。


そうしたら警備員さんも、ありったけのエネルギーを送りますよ!


と書きましたが、やはり、家に帰ってきての奥さんの笑顔が一番のエネルギーかな。すみません。親バカでなく、奥さんバカでした(^o^)

 

お金がない分、笑顔で身の布施をしないとね(^^;;;

2025年2月23日日曜日

警備員のちょっといい話

 


実は、この記事は、法華経ブログにアップするのは場違いかなと思ったのですが、相手の仏性を拝むと云う、法華経の精神と一致するのでここにもアップすることにしました。では、行きます。

 

警備員の新任教育での講師さんから聞いた、ちょっといい話です。

 

その講師さんがまだ現場で警備をしていた時のことでした。

学校の警備をしており、門のところで立哨して、先生や生徒達全員に挨拶をしていました。

みなさん、挨拶を返してくれるのですが、どんなに挨拶しても挨拶を返してくれない女の子がいたのです。

しかし、いつかは挨拶を返してくれると思い、特にその女の子には必ず挨拶をしていました。

ある時、学校で学園祭がありました。

その女の子が父親と手をつないで門のところにきて言いました。


『お父さん、この警備員さん、いつも私へ挨拶してくれるの、私、それがうれしくてうれしくて…』


それを聞いた当時の講師さんも、うれしくてうれしくて涙が止まらなかったそうです。

その女の子が挨拶を返さなかったのは、単に恥かしがり屋さんだっただけなのですね。

 

その女の子への仏性礼拝は通じていたのですね(^o^)

2025年2月22日土曜日

続・一番の供養

 


前に「 一番の供養 」は書きました。

今回は「続・一番の供養」 です。


愛している人がある日突然亡くなることは、大変悲しく辛いことです。

悲しすぎて、辛すぎて、それをすぐには受け入れることはできません。

もう、その日から時間は止まってしまいます。


でも、何もしないで、悲しんでばかりいては、天国で亡くなった人が心配してしまいます。

亡くなった人を心配させないで、安心させてあげなければなりません。

なんとか、時間を動かさないとなりません。


そのためには、一生懸命に生きて、亡くなった人の分まで一生懸命に生きて、安心してもらいましょう!

亡くなった人の供養は、お経をあげることだけではありません。

一番の供養は、亡くなった人に安心してもらえるように、自分がしっかりと生き抜くことにある…と思うのです。


もう、時間は動きはじめましたか?

最後に例のお言葉です。


あなたが乗り越えられないような苦労を、神仏はけっして与えられません。
それは、あなたがそれに耐えて成長していける人だから与えられる試練です。
いつの日か「あのときの悲しみ、あのときの苦しみのお陰で、いまの私がある」
と思えるときが必ずくるものです。  By 庭野日敬

 

 

2025年2月21日金曜日

ポイ捨てする人は、自分もポイ捨てされる?

 

実は、この記事は、法華経ブログにアップするのは場違いかなと思ったのですが、正しい行いをしなさいと云う、法華経の精神と一致するのでここにもアップすることにしました。では、行きます。


施設警備で外周巡回時、吸殻・紙屑・空缶・空瓶などなどが、ポイポイ捨てられています。

そして、我々警備員がそれらを拾いながら巡回していきます。


一日にA番とB番で、合わせて6回巡回しますが、必ず、落ちています!

ポイ捨てをする人は、なぜゴミ箱や灰皿に捨てないのでしょうか?


で、いろいろ突き詰めて考えてみると、躾や教育にたどり着きます。

自分さえよければ…とか、きっと誰かが片付ける…とか。まぁ、ある意味、甘えですね。


そんな感じで、ポイ捨てをする人の精神レベルはかなり低いです。

そんな低レベルの人は、その内、会社や社会から、今度は自分がポイ捨されることになるのでしょう…。


我々警備員は、早くそれに気が付いて欲しいと思いながら、施設周りを綺麗にして行くわけです。

施設周りが綺麗だと、ポイ捨てし辛いでしょう!


我々警備員の通った後は、塵ひとつありませんよ!

とにかく、まだまだ、ポイ捨て人と警備員の戦いは続くのです…。


『戦い』の補足:

モラルの高い人の場合は、条件無く、ポイ捨てしません。

モラルが普通の人の場合は、吸殻やゴミが落ちていたら、ポイ捨てするかもしれません。

モラルの低い人の場合は、条件無く、ポイ捨てします。


もし施設周辺が、つねに塵ひとつ無く、綺麗だったら、モラルが普通の人は、たぶんポイ捨てしません。

もし施設周辺が、つねに塵ひとつ無く、綺麗だったら、モラルが低い人でも、ポイ捨てし辛くなると思うのです。


ここが、『ポイ捨て人と警備員の戦い』と表現しました。