では、器量を大きくするためには、どうしたらよいでしょうか?
それには、2つ。
- すでに入っているものを出して、器の容量を増やす。
- やはり、器そのものをなんとか大きくする。
1は、布施です。自分の持っているもの(財施、身施、法施)を出して人に施し、自分の器の容量を増やすのです。
2は、徳積です。仏法では、善い行いを続けて行くことを徳積と云い、これにより器が大きくなると説かれています。
では、器量を大きくするためには、どうしたらよいでしょうか?
それには、2つ。
1は、布施です。自分の持っているもの(財施、身施、法施)を出して人に施し、自分の器の容量を増やすのです。
2は、徳積です。仏法では、善い行いを続けて行くことを徳積と云い、これにより器が大きくなると説かれています。
その教団の初代会長を開祖さまとお呼びしています。
その開祖さまは、以下の3つの実践をしていると秘書の方から聞きました。
これを裏付けるエピソードがありますのでご紹介します。
開祖さまが信者さんからお茶をご馳走になったときに、開祖さまは、湯呑みの蓋をあけ、飲み干し、大変美味しかったのでもう一杯もらえますか・・・と、おかわりをされました。
そして、おかわりを入れようとした信者さんが、湯呑みの中をみると、お茶が入っていた形跡がなかったのです。
つまり、信者さんは緊張していてミスで、空のお茶をご馳走してしまったのでした。
しかし、3つの実践をしている信者さん第一の開祖さまは、そのことを叱責することなく、真心、ありのまま素直に、自分(お茶が飲める)も信者さん(ミスが表に出ない)も幸せにしたのです。
以上のエピソードは、RKK教団では結構有名らしいのですが、まだ知らない人がいるかもしれないので書きました。
RKK教団(立正佼成会)の人、この「法華経ブログ」を教会内に知らせていただけると嬉しいです(^o^)
よく初期の経典以外、つまり大乗経典は、釈尊が説いたものではなく、弟子達が適当に作り上げたもので、 信じるに値しないと言う人がいます。 確かに、法華経も仏滅後500年以上経って作成されたものとされています。
しかし、はっきり言ってしまえば、現代の人にとって、釈尊が説いたかどうかが問題でなく、釈尊が説いたであろう教え、あるいは、優れた仏弟子が説いた教えで、救われるかどうかが問題だと思うのです。
逆説的にいえば、本当に人を救える教え(経典)しか生き残れないのだと思う次第です。 今残っている日本の仏教を見てみますと、圧倒的に日蓮系(法華経)と浄土系(南無阿弥陀仏)で、どちらも大乗仏教です。
たとえ、どんなに良い経典でも、人に読んでもらえなければ、無いのと同じです。 つまり、沢山の人に読まれている大乗仏教(法華経等)は、人を救えるお経なのだと思う次第です。
とある宗教評論家の人が、以下のようなことを言っていました。
仏教の教えは、『いま・ここで・わたしが生きている』という、しっかりと自分を生きることの教えです。
過去でもなく、未来でもなく、今なのです。
確かに、今一瞬一瞬をしっかり生きれば、つねに充実しているので、過去を反省する必要はないし、未来はよい方向に開けていくので、特に希望など持たなくても大丈夫だと言えるでしょう。
しかし、しかしですよ、やはり、反省も希望も生きていくためには必要と、私は考えます。
人生はミスの連続です。せっかくミスをしたのだから無駄にせず、反省して未来に同じミスをしないようにするのが肝要です。
また、希望があるからこそ、人間は頑張れるものです。
どう考えても、反省も希望も、人生には必要と私は考えます!
稲妻は天にある神の威光のあらわれと考えられたので「かみ」の意味になりました。
つまり、申は神の元の字で、申が「かみ」以外に「もうす」などの意味に用いられたので、
示偏をつけて「神」の字になりました。
一方、仏の元の字は「佛」で、弗(フツ)が音符の形声文字です。
意味は、彷彿(ほうふつ)等ように「ほのかな、かすか」です。
のちに、梵語で正しい悟りを意味するブッタの音訳に陀と共に充てられ仏陀となりました。
この世で「正しい悟り」を得たのは釈尊一人ということなので、釈尊イコール仏陀となって、釈尊を仏さまという。
と云うことで、『神』は天の威光で、『仏』は 正しい悟りです!
『自分が変われば、相手が変わる』
このお言葉、実は真理を、分かり易く、言い当てているお言葉なのです。
真理と言うのは、当たり前のことで、普段は余り気がつきませんが、実は、すべての生きとし生けるものは、大いなる一つの命に生かされているということらしいのです。
生きとし生けるものは、大宇宙(大いなる一つの命)が、なければ生きて行けないわけです。
つまり、生きとし生けるものは、大宇宙で、相互に関係し合って生かされて、まぁ、いろんな現象が生じているのです。
相互に関係し合うとは、仏法では、『縁起』といいます。
また、いろんな現象は、縁を変えれば、現象も変わるのです。
なので、『自分が変われば、相手が変わる』は、自分が変われば、縁が変わり、相手の縁も変わるのです。
つまり、自分が変われば、縁が変わるのだから、間違えなく相手も変わるのです。
対人関係で悩んでいる方へ、相手を変えようとせず、とにかく内省し、自分の考えを変えてみてください。きっと上手く行くと思いますよ。なんたって真理ですから・・・。
「砂の上の足跡」という詩があります。
結構有名なので知っている人も多いと思いますが、まずは、その詩を・・・
ある男が、夢を見ました。 仏さまと二人で、浜辺を歩いている夢です。 空に、男のいろいろな思いが写し出されていました。 その思い出のどれにも、足跡があります。 砂の上に、二本の足跡が並んでついています。 一つは、男の足跡です。もう一つは、仏さまのものです。 ところが、砂の上の足跡をよく見てみると、男が一番つらく、 苦しかったとき、寂しく、悲しかったときに、 足跡が一つしかついていません。 男は悲しくなり、仏さまに尋ねました。 「仏さま、私があなたの教えに従って生きていこうと決めたとき、 あなたはいつも私と一緒にいてくれると約束して下さいました。 それなのに、私が一番つらかったときに、一番寂しく、 悲しかったときに足跡が一つしか残っていません。 私がもっともあなたを必要としているときに、 なぜ、私を一人置いていかれたのか、私にはわかりません。」 仏さまはこたえられました。 「私の愛する仏の子よ 私はあなたから一時も離れることはありませんでした。 あなたが、一番つらかったときに、あなたが寂しく、 悲しかったときに、足跡が一つしかついていないのは、 私があなたを背負って歩いていたからです。」
初めて読んだ時は、凄く感動するんだけど、実はこれ、「神さま」を「仏さま」に変えたもので、オリジナルは、キリスト教系の詩ということです。
確かに、仏教的には、仏さまと一緒に歩くシチュエーションは変な感じがします。
しかし、ご先祖さまだと思うと、辛い時にきっと背負ってくれる気がするのです。
自分がご先祖さまだったら、可愛い可愛い子孫が、苦しんだり辛かったら、背負わずにいられないでしょう。
ということで、良い詩には変わりがない・・・ と思う次第です(^o^)
法華経は、お経でありながらオペラのようなストーリー展開になっています。テーマは、『縁起』、『永遠の命』、『法の実践』の3つで、各々、智慧のお話、慈悲のお話、行徳のお話の順に展開していきます。
また、法華経は28の章(品)からなり、序品第一から法師品第十までが、インド霊鷲山(りょうじゅうせん)の説法で、見宝塔品第十一から嘱累品 第二十二までが、霊鷲山の空中(虚空)での説法になります。
あとの薬王菩薩本事品第二十三から普賢菩薩勧発品第二十八は、また霊鷲山の地上での説法になります。
以下は、簡単ではありますが、大体の法華経ストーリーの流れです。尚、時代は約紀元前500年、場所はインド霊鷲山。今、法華経の説法が始まろうとしています・・・。
はじめ、お釈迦さまは、沈黙されておりましたが、突然眉間から光を放ち、『縁起』について語りはじめます。
そして、『縁起』を理解した智慧のある弟子達をどんどん授記していきます。
すると、地面から多宝如来のいる見宝塔が湧き出して来て、いきなり霊鷲山から虚空での説法となりました。
そして、お釈迦さまの説法を多宝如来が真実であると証明すると、他の世界からやって来た菩薩達が娑婆世界にとどまって、この教えを説き広めたいと表明します。
しかし、お釈迦さまは、その表明をぴしゃりとお断りになりました。
すると、地面から今度は、計り知れない数の全身金色に輝く菩薩達が登場したのです。
そして、お釈迦さまは、その登場した菩薩達を過去世の『永遠の命』の中で教化したのだと宣言します。
ここに、生きとし生けるものすべてのものの本質は仏性で、それは、過去世、今世、来世と輪廻して『永遠の命』と繋がっている。
そして、『永遠の命』は、我々生きとし生けるものすべてを、いつでも、どこでも、慈悲をもって生かしてくれる。
そのご、智慧の『縁起』と慈悲の『永遠の命』を説く法華経を授受実践。つまり、行徳の『法の実践』をすることがいかに功徳があるかを語り。
さいご、『法の実践』のエピソードを薬王菩薩、妙音菩薩、観世音菩薩、普賢菩薩を各々主役にして語り、終わりを迎えます
しかし、あの難解な法華経が、 あまりにも、あっさりまとまってるな・・・さすがだ自分(^^;;;
たとえば、夕方、奥さんが食事の支度を終わって、ちゃぶ台の下に味噌汁の入っている鍋を置いていた状態で、旦那様の帰りを待っている場面をまず思ってください。
そして、会社から旦那様が帰ってきて、上着等を脱ぎ、メシといってちゃぶ台についた途端、ちゃぶ台の下ある鍋に気づかず、味噌汁の鍋をひっくり返してしまいました。
さて、あなたが、奥さんだったらどうしますか? 旦那様だったたらどうしますか?
普通は、この場面では、夫婦ケンカになりますよね。
奥さんは、折角作った味噌汁をひっくりかえされたのですから、旦那様は、いきなり、味噌汁でズボンがずぶ濡れになってしまったのですから...。
しかし、奥さんは、こんなところに味噌汁の鍋を置いてごめんねと相手をおもいやり、旦那様は、折角作ってくれた味噌汁をひっくりかえしてごめんねと相手をおもいやると、どうでしょうか...。
そうケンカには、なりませんね。
宗教的智慧とは、相手を思いやるところから出てくるらしい...。
とある説法で、以下のお話しを聞きました。
約2500年前、お釈迦様は人物をつくる上で大切なものとして以下の3つをあげました。
貧乏とは、お金の価値を知るということと、生きていく上で我慢を知るということ。
読書とは、未知への見聞を広げるということと、知識を蓄えるということ。
母親の感化とは、やさしさや思いやりの感化…かな。
現代の日本では、母親の感化が、いい学校へ行きなさいとか、競争に勝ちなさいとかで、違った方向へいっているのが問題なのだという指摘がありました。たしかに、日本はおかしな社会になりつつあるのかも知れません。
上記の人格形成に大切な3つで、教育されれば、たしかにいい子に育つ気がしますね!
まぁ、お釈迦様が言ったのだから、まちがいないでしょう…。
戦争、自然災害、世界情勢、日本経済、リストラ、年金・・・
とにかく、毎日毎日が、不安との戦いです。
そして、その戦いに勝ち抜くには、夫婦仲良く、家族仲良く、助け合って、頑張って、生きて行くしかないですね。
まだかなり早いけど最後に、お釈迦様のお言葉で〆ることに致します。
天神が 『何ものが、人々の依りどころであるのか、何ものが、この世で最高の友であるか』 と問うた時、 釈尊は 『子供たちが、人々の依りどころである、そして、妻が、最高の友である』 と答えたという。 『相応部・一・五四』
今は、子供でなく、可愛い可愛いお孫ちゃんが、依りどころですね(^o^)
妻は、本当に最高の友です。って、他に友達いない(^^;;;
子供の30過ぎのヤロっ子たちは、勝手に生きてろ〜 (しかし、犯罪だけはしないでね)
昔読んだ開祖随感の本をめくると、付箋紙のあるページが目にとまりました。
それは、以下の「奉仕できる喜び」の所でした。
奉仕できる喜び
人はふつう、自分が人に奉仕するのはあまり好きではなく、人から奉仕してもらうほうがうれしいように思っています。しかし、それは心のほんの表面上のことで、心の深いところでは、人はむしろ人に奉仕することを欲しているものです。
どんなことでもいい、実際に人さまのために尽くして、それで相手の人に喜んでもらえると、それがよく分かるのです。
「なんで、子どものことでこんな苦労をしなければならないんだろう」と愚痴をこぼしていた親でも、子どもが一人前になって巣立ってしまうと、空虚な思いに陥ってしまいます。世話をしてあげる人がだれもいなくなると、「ああ楽々した」という思いよりも、虚脱感に襲われてしまうのです。
さらに、体が不自由になって、だれにも、なにもしてあげられず、ただ周囲からしてもらうだけの身になってしまったら、どんなに寂しい思いになるかしれません。
そう考えてみると、自分が人さまに役立てることが、どんなにうれしいことか分かってきます。それが人間の本当の生き甲斐なのです。
庭野日敬著『開祖随感』より
人間の本当の生き甲斐とは、自分が人さまに役立てること…なのですね!
日々暮らしていると、ふと、なんのために生きているのだろうか…なんて思う時があります。
そんな時は、原点に戻り、人さまに役立てることを考えて実施すれば、いいわけですよ!(誰にともなく)
突然ですが、仏教の教えは、八万四千の法門があると言われますが、実は、元は以下の3つだと言われています。
善い行いをする前に、とにかく悪い行いをしないことが重要らしい、そして、「諸悪莫作」と「衆善奉行」は、道徳とイコールで、宗教では、「自浄其意」が要らしいです。
また、この3つを『七仏通戒偈』と言って、七仏は、お釈迦様から過去へさかのぼった七代の仏を指しており、久遠の昔から連綿と受け継がれてきた『戒め』という深い意味があります。
1に悪い事はしない。2に善い事をしなさい。3に心を磨く。
仏教は、このワン・ツウ・スリーです!
そう、仏教って簡単でしょう!
ちなみに、七仏通戒偈は、法華経には出てきていません(^^;;
法華経の見宝塔品には、真理を実践するお釈迦様と真理の象徴である多宝如来が虚空で同座するシーン(二仏同座)があります。
現代でも、それを彷彿するシーンがありました。1994年11月第六回WCRP(世界宗教者平和会議)がバチカンで行われた時でした。
ひな壇の一番高い座に席が二つ、一つは教皇ヨハネ・パウロ二世、もう一つは誰が座られるのだろと注目のところ、なんと立正佼成会開祖さまこと庭野日敬氏が導かれて座られたのです。
ここで話しは、29年前にさかのぼります。
1965年9月第二バチカン公会議開会式に出席された、開祖さまは、時の教皇パウロ六世から『キリスト教が分派を生んだのは歴代の教皇の罪です。いまや宗教が分裂しているときではありません。お互いに手を携えてひとつの平和に向かって進むときです』と身近で聞いて、大きな衝撃を受け、宗教協力は可能だと、このお言葉がWCRP活動へと繋がっていきました。
そして、開祖さまは感激のあまり教皇さまへ、カトリックへ改宗してもよいと、おしゃったとか・・・。オイ!
それを聞いた当時佼成新聞記者の「とある人」さんは、開祖さまに、仏教徒であるのになぜそのようことをおしゃったのですかと問い詰めると・・・。すると開祖さまは一言。
相手を信じきれなくて、どうして自分を信じてもらえるでしょうか・・・。
このように、開祖さまは、教皇パウロ六世と強い信頼関係を築き、教皇パウロ六世は、1978年8月にご逝去されました。
そして、開祖さまは、1994年11月第六回WCRPでバチカンにつくなり、教皇パウロ六世の地下墓所へ一番先に訪れになりましたが、しかし、そこに行く通路がたまたま工事中で、仕方無く、地下墓所の真上辺りの広場で、地面に額をつけて、教皇パウロ六世を参拝されたそうです。それは、霊界にいる教皇パウロ六世と開祖さまがあたかも何かを語り合っているように感じられたとのことでした。
以上、『開祖さま生誕会』で、元佼成新聞記者の元某教会長の「とある人」から聞いた開祖さまのエピソードでした。
RKK教団では、よく信者さんの説法イベントがあります。今回は、とある支部婦人部長さんの説法をご紹介いたします。
その支部婦人部長さんは、一緒に関わっていた、とある部員さんの友人が、病気を悲観して自殺をしてしまって、そのことを通して、自分は人との関わりがうわべだけで、実は上手く行っていなかったのではないのか・・・と悩んでいたのです。
そんな時期に、自分が多摩教区婦人部青梅練成へ参加することになり、行く当日に、急にお腹が痛くなって、4才の娘が『お母さん、お腹大丈夫』と、お腹をさすりながら、行くのを心配してくれたのです。
そして、その青梅練成から帰ってきた時に、自分はすっかりそのことを忘れていたのに、真っ先に娘から『お母さん、お腹大丈夫』と言われ・・・。
この練成中も、ずーっと心配をしてくれていた我が子のやさしさに触れた時に、自分には、このやさしさが足りなかったんだ、と気付く・・・。
やさしい子供のいる人には、わかっていただけると思いますが、久々の感動の説法でした・・・涙涙涙。
一年後に、なぜ「布薩の日」と云うか、わかりました。RKK某教会では、月の1日と15日のことを「布薩の日」と言います。
私は、1年ぐらい前に法座(法華経実践の報告会)で質問をしました。『布薩の日ってなんですか? なんで月2回あるのですか?』
その時は、『昔からそうなんです』的な答えで、はぐらかされてしまいました。そして、一年後、ママの付き合いで久々に某教会の法座に座らせていただきました。
法座が終わったあと、隣に座った、とあるおばぁちゃんと久しくお話をする機会があり、そこで一年前に質問した答えのメモを頂きました。
そのおばぁちゃんは、一年前の質問を、その時にわからなかったので、ご自分で調べていたのでした。
私自身は、そのことをすっかり忘れていたのですが、そのメモを渡されて鮮明に思い出しました。
こんな些細な質問を丁寧に調べてくれて、しかも一年後の突然の回答、感動いたしました。ありがとうございます!
比丘たちが半月ごとに行われる布薩という集会。
仏陀または長老比丘に対して懺悔を行った。
係の比丘が戒律を一つ一つ読み上げていくうちに、
もしその箇条にふれる罪を犯したという自覚を気づいたら、
即座に自らを申し出て内心のひそかなる罪をすべてさらけだし、
指導者のさばきを待つのでした。
つまり、半月毎なので1日と15日に行い、そして、懺悔を行う日なのですね。また、これは某教会の行事でなく、仏教の行事だったのですね。
開祖さま(庭野日敬師)の御著書『平和への道』からの引用です。
理屈を抜きにして、とにかく、人に親切にしてごらんなさい。そうすれば、なんともいえぬすがすがしい、美しい気持ちになります。そして、そういう行いを続けていくと、そのすがすがしい、美しい気持ちが、いつかすっかり身につき、自分の徳になってしまいます。そういうふうにして心が変われば、体も、暮らしも変わってくる。
そうなんですね。自分の徳になるのですね。明日から人に親切にしよう!
そして、暮らしも変わって、貧乏脱出か(^o^)
もしかしたら、タイトルと内容が一致していないかもしれませんが、全ての人に親切が行き届く道程、それこそが平和への道なのですね!
仏の真の教えは、唯一であり、それによってすべての人々、衆生(しゅじょう)が成仏できると説く教法を、『一乗』といいます。
そして、『一乗』の一(ひとつ)は、『真の教え』のことであり、実は、真理そのものを指します。
つまり、一(ひとつ)は、真理とイコールになり、すべての人が真理に乗ることができると説くのが『一乗』であり『法華経』なのです。
また、すべての衆生(人間)が成仏(幸せ)になるための菩薩行(実践行)は、突詰めると、正しい行いをすることと仏教(法華経)は説きます。
そう、辛い日々の生活でも正しい行いをしていけば、やがて、大いなる一(真理)が『止』まって『正』になり、さらに『辛』に一が加わって『幸』になるのです。
いやー、今回は、我ながら、よくまとまった(^o^)
RKK教団(立正佼成会)の開祖さまは、本当の喜びは、自分が救われるのでなく、他人が救われることですと、よくおしゃっていました。
現会長先生は、今の学校では、如何に「賢く」なるための勉強で、そこには、競争や対立が生じてしまう。しかし、仏教では、逆に「愚か」になることの教えで、そこには、「和」が生ずると言われました。
なるほど・・・。だから私は、仏教に向いているのか・・・(^^;;
なので仏教は、和が生ずるから、世界平和に向いた宗教なんだと思う次第です。
しかしそれにしても、一神教は不和を生み出す宗教ですね・・・