2025年2月26日水曜日

認めれば認められる

最近、この法華経ブログを再開して、こんなにも内容も見た目もいいブログなのに、アクス数が少ないと思っていたら・・・、ネットで以下のメッセージを見つけました。

 

いくら努力しても、人は自分のことを正しく評価してくれないと不満をもらす人がいます。その不満で、やる気をなくしたりヤケを起こしたりしたら、自滅の道をたどることになってしまいます。そこのところで、ちょっと見方を変えて「では私は、人のことをどれだけ認めてあげていただろうか」と考えてみてほしいのです。あらためて自分を振り返ると、自分も人のことをあまり認めてあげていないのですね。

人に認めてもらいたかったら、人を認められる自分になるほうが先です。その心のゆとりが持てると、人の目を気にして一喜一憂することがなくなります。人に認められようが認められまいが、気にならない。自分のなすべきことに黙々と励み、喜んで人さまの下積みに徹していられるようになってきます。

いつも申し上げるように、信仰者の安らぎは仏さまがすべてご照覧だという安心感にあります。樹木の根は見えませんが、下に深く根を下ろせば下ろすほど幹や枝葉は上に伸びていきます。無理やり人の目を自分に引きつけようとするよりも、自分が大きく育っていけばいいのです。高くそびえる木は人の目を引かずにいないのですから。


庭野日敬著『開祖随感』より

 

さすが、法華経大家の開祖様、ありがとうございます。

まずは、相手を認め、自分のなすべきことに黙々と励み、喜んで人さまの下積みに徹しられそうです(^o^)


そう思って、 よそ様のブログを読んでみたら、自分が如何に文才がないことを痛感した😓

とにかく、少しでも人さまのお役にたてるような文章が書けるようにと、黙々と励むしかない…

2025年2月25日火曜日

見えない世界からの好意

 


一見、あやしいタイトルになっていますが、正月、家内の実家に行って、お祖母さん(ママのママ)から聞いた話の要約です。

 

信心深いお祖母さんは、仏さまに毎日欠かさず、お経(法華経)を読誦しています。すると、困ったときに必ず、仏さまが助けてくれる(お手配が付く)とのことでした。


これは、理屈ではなく、お祖母さん(90歳)の経験と見聞きから来ることなのです。好意でお経を読誦すると、それが通じ、好意が返ってくる・・・

 

たとえば、私の場合、立哨で普段見も知らない社員さん達に毎日挨拶をしています。
好みの人には特に好意をもって挨拶をしています。


すると、その好意が伝わり、その人から好意をもって挨拶が返ってくるのです。
これは、経験からくる紛れもない事実なのです。


と、同じように見えない世界の仏さまに好意をもって挨拶をすれば、その好意が伝わり、仏さまからも好意をもって返ってくるものと思うのです。 


つまり、お祖母さんの言っていることは、真実なのだと思えるのです。そう、見えない世界から好意が来るのです!!


決して、頭がおかしくなったわけではありません。普段から、嫌々ながらではなく、好意を持ってご供養(法華経読誦)を行なっていれば、本当に困ったときに、仏さまから好意をもらえるのだと思うのです(^o^)

 

2025年2月24日月曜日

笑顔はエネルギー!

 

 

笑顔は、身の布施と云います。

 

施設警備員の私は、立哨時に通る人すべてに挨拶をしますが、殆どの人は形式的な挨拶か無視です。


しかし、中には笑顔で挨拶を返してくれる人が少しいるのです。

 

するとなにか嬉しくなり、よいエネルギーをもらった気がするのです。


老若男女を問わず、そのようになるのです。あまり面白くない仕事の中でも、なにか面白さはありますね。


笑顔は間違いなくエネルギーで、そのエネルギーで今日も仕事にやりがいを感じる事が出来るのです。


もし、あなたが警備員さんから、挨拶をされたら、できれば笑顔で挨拶を返してくださいね。よろしくお願いします。


そうしたら警備員さんも、ありったけのエネルギーを送りますよ!


と書きましたが、やはり、家に帰ってきての奥さんの笑顔が一番のエネルギーかな。すみません。親バカでなく、奥さんバカでした(^o^)

 

お金がない分、笑顔で身の布施をしないとね(^^;;;

2025年2月23日日曜日

警備員のちょっといい話

 


実は、この記事は、法華経ブログにアップするのは場違いかなと思ったのですが、相手の仏性を拝むと云う、法華経の精神と一致するのでここにもアップすることにしました。では、行きます。

 

警備員の新任教育での講師さんから聞いた、ちょっといい話です。

 

その講師さんがまだ現場で警備をしていた時のことでした。

学校の警備をしており、門のところで立哨して、先生や生徒達全員に挨拶をしていました。

みなさん、挨拶を返してくれるのですが、どんなに挨拶しても挨拶を返してくれない女の子がいたのです。

しかし、いつかは挨拶を返してくれると思い、特にその女の子には必ず挨拶をしていました。

ある時、学校で学園祭がありました。

その女の子が父親と手をつないで門のところにきて言いました。


『お父さん、この警備員さん、いつも私へ挨拶してくれるの、私、それがうれしくてうれしくて…』


それを聞いた当時の講師さんも、うれしくてうれしくて涙が止まらなかったそうです。

その女の子が挨拶を返さなかったのは、単に恥かしがり屋さんだっただけなのですね。

 

その女の子への仏性礼拝は通じていたのですね(^o^)

2025年2月22日土曜日

続・一番の供養

 


前に「 一番の供養 」は書きました。

今回は「続・一番の供養」 です。


愛している人がある日突然亡くなることは、大変悲しく辛いことです。

悲しすぎて、辛すぎて、それをすぐには受け入れることはできません。

もう、その日から時間は止まってしまいます。


でも、何もしないで、悲しんでばかりいては、天国で亡くなった人が心配してしまいます。

亡くなった人を心配させないで、安心させてあげなければなりません。

なんとか、時間を動かさないとなりません。


そのためには、一生懸命に生きて、亡くなった人の分まで一生懸命に生きて、安心してもらいましょう!

亡くなった人の供養は、お経をあげることだけではありません。

一番の供養は、亡くなった人に安心してもらえるように、自分がしっかりと生き抜くことにある…と思うのです。


もう、時間は動きはじめましたか?

最後に例のお言葉です。


あなたが乗り越えられないような苦労を、神仏はけっして与えられません。
それは、あなたがそれに耐えて成長していける人だから与えられる試練です。
いつの日か「あのときの悲しみ、あのときの苦しみのお陰で、いまの私がある」
と思えるときが必ずくるものです。  By 庭野日敬

 

 

2025年2月21日金曜日

ポイ捨てする人は、自分もポイ捨てされる?

 

実は、この記事は、法華経ブログにアップするのは場違いかなと思ったのですが、正しい行いをしなさいと云う、法華経の精神と一致するのでここにもアップすることにしました。では、行きます。


施設警備で外周巡回時、吸殻・紙屑・空缶・空瓶などなどが、ポイポイ捨てられています。

そして、我々警備員がそれらを拾いながら巡回していきます。


一日にA番とB番で、合わせて6回巡回しますが、必ず、落ちています!

ポイ捨てをする人は、なぜゴミ箱や灰皿に捨てないのでしょうか?


で、いろいろ突き詰めて考えてみると、躾や教育にたどり着きます。

自分さえよければ…とか、きっと誰かが片付ける…とか。まぁ、ある意味、甘えですね。


そんな感じで、ポイ捨てをする人の精神レベルはかなり低いです。

そんな低レベルの人は、その内、会社や社会から、今度は自分がポイ捨されることになるのでしょう…。


我々警備員は、早くそれに気が付いて欲しいと思いながら、施設周りを綺麗にして行くわけです。

施設周りが綺麗だと、ポイ捨てし辛いでしょう!


我々警備員の通った後は、塵ひとつありませんよ!

とにかく、まだまだ、ポイ捨て人と警備員の戦いは続くのです…。


『戦い』の補足:

モラルの高い人の場合は、条件無く、ポイ捨てしません。

モラルが普通の人の場合は、吸殻やゴミが落ちていたら、ポイ捨てするかもしれません。

モラルの低い人の場合は、条件無く、ポイ捨てします。


もし施設周辺が、つねに塵ひとつ無く、綺麗だったら、モラルが普通の人は、たぶんポイ捨てしません。

もし施設周辺が、つねに塵ひとつ無く、綺麗だったら、モラルが低い人でも、ポイ捨てし辛くなると思うのです。


ここが、『ポイ捨て人と警備員の戦い』と表現しました。

2025年2月20日木曜日

仏道は親孝行

 

 

布薩の日に、某教会で、機関紙『佼成』の勉強会(法座)に参加する機会がありました。

ちなみに、布薩の日とは、過去に書いています。

 

今回の機関紙『佼成』のお勉強とは、会長先生の『親孝行と仏道』というご法話についてでした。また、某教会のRKK教団では「親孝行」「先祖供養」「菩薩行」の3つを生活実践の柱としています。


そしてその勉強会で、「親孝行」こそ仏道そのものだと教えていただきました。「親孝行」とは、生まれつき授かっている仏心、仏性をよりよくはたらかせ、磨き、本来の輝きそのままに生きることにほかならないと教えていただきました。

 

講師の教会長さんは、教務員時代、四国の辺鄙な港に行った時、ある人から、あなたは布教で前しか見ていない、あなたを心配して祈っているご両親を思ったことがありますか…と言われれ、込み上げてくる涙が止まらなかったとおしゃっていました。


また、会長先生のお供で、佼成霊園から杉並本部(大聖堂)へ歩く修行の時に、会長先生へ、『なぜ初代会長の開祖さまから会長を継承したのですか?』、と質問しました。すると、一言『親孝行です』…とおしゃったそうです。


そういえば、お釈迦さまは、亡くなるときに北枕にしたといいます。その場所での北は、お釈迦さまの親のお墓がある方向で、親を置き去りにして出家した親不孝をいつも気にして、足を北に向けることができないほど親を思っていたからなのです。


また、日蓮も身延山での修行時、山頂で毎日、生まれ故郷(千葉県天津小湊)に向かって合掌されていたとのことです。その合掌されていた山頂が、これにちなんで思親閣となったとか…


とにかく、会長先生もお釈迦さまも日蓮も、みな親孝行なのです。つまり仏道は、親孝行がメインの要素なのですね・・・(^o^)