2024年12月31日火曜日

今日は大晦日、法華経ブログ毎日更新

 

 

2016年7月から約8年間休止していた「法華経ブログ」を今年の11月8日から再開いたしました。

 

2016年当時は、ネットで色々やっていましたが、 「法華経ブログ」と「燈明日記」だけは、消さないで残しておきました。

 

また当時、windowsのパソコンの立
ち上げ時間が5〜10分ぐらい掛かるので、パソコンもやらなくなりました。

 

そして時が経ち、今年の11月に物置整理をした時に、長男が残して行った荷物の中に、MacBookがありまして、電源を入れたら、動くではありませんか!

 

なんと、約3年間、物置の中で眠っていたのです。また、立ち上げ時間が瞬時で、遅いwindowsパソコンは何だったんだって感じです。


長男に連絡したら、MacBookを使っていいとのことで、法華経ブログと燈明日記を再開いたしました(^o^)

 

今日は大晦日、今月12月は、法華経ブログ毎日更新達成で、引き続き来年も毎日更新に挑戦したいと思います。どうぞご期待ください!!

 

ちなみに、毎日、5:00に事前に用意したコンテンツが自動投稿されます。また、用意したコンテンツのネタは、すでに1ヶ月分を確保しました(^^;;

 

では来年も、よろしくお願い致します!

 

追記

その用意した1月分のネタを精査しながら読んでいるんですが、これが、めちゃくちゃ面白い・・・

その分、12月分は、ある意味イマイチだったかも知れない・・・

これからの法華経ブログに、期待してください!

 (^o^)

 

 


2024年12月30日月曜日

私が編み出した幸福へのワンツウスリー


私が編み出した幸福へのワンツウスリーです。

 

  1. あいさつ力(愛他・利他)
  2. かんしゃ力(すべての幸福は、感謝の気持ちが作る)
  3. そうじ力(そうじを実践して、自分の心もピカピカする)

 

1は、どんな人にも、嫌いな人にも、差別せず、挨拶を行う。シュチュエーシション的にできない場合でも、会釈はする。

 

2は、 良縁はもちろん、逆縁の場合でも、自分を成長させてくれるありがたいご縁と感謝する。

 

3は、掃除で周りが綺麗になると、間違いなく心も綺麗になります。これは、実践していただければ、分かります。


この3力を実践して、幸福になりたいと思います(^o^)

2024年12月29日日曜日

すべての幸福は、感謝の気持ちがつくる


今、とある本を読んでいます。そこに書いてあった、私にとって耳の痛いメッセージです。

  • 感謝しない人のまわりからは、人が去っていきます。
  • 感謝しない人には、お金が入ってこなくなります。
  • 感謝しない人は、孤独になります。

だから、孤独で貧乏なんや…。

 

ではこれからは、逆をやってみよう〜

    • 感謝をすれば、人が去っていかない。
    • 感謝をすれば、お金が入ってくる。
    • 感謝をすれば、孤独にならない。

まさに、タイトル通り「すべての幸福は、感謝の気持ちがつくる」ですね(^o^)


2024年12月28日土曜日

一番の供養

 

亡くなった人への一番の供養は、自分がしっかりと生き抜くこと。
そして、亡くなった人へ心配を掛けないこと。


お墓参りは、後悔の祈り参りではなく、ましてや幸福へのお願い参りではなく、しっかり生きていることの報告参り。


いつまでも、下を向いていては、亡くなった人が心配して上に逝ってくれないよ……。また、生まれ変わって、きっと、会いにきてくれるよ……。 

 

法華経で願生や輪廻が、当たり前のように説かれているし、きっと、お空から親を選んで、愛してくれた人達のもとに生まれ変わってくるよ!

 

ピコちゃんをみていると、実にそう思う(^o^)



2024年12月27日金曜日

先祖供養は未来休養!?

よく考えると、過去のお先祖さまの誰一人欠けても、自分は存在しないのです。
そう、お先祖さまあっての自分なのです。


また、供養とは、そのようなお先祖さまに対する感謝の心を表す行為です。
具体的には、お墓参りとか、ご仏前にお花、お水、お茶をお供えし、お経の読誦とかです。
そして、これらの行いは、善い行いとしてお先祖さまへ回向されるのです。


善い行いをすると、善い報いが来ると説くのが、仏教です。
だから、供養を行うと、必ず、未来に善い報いが来るのです。


それは、自分に来る場合もあるし、子孫へ来る場合もあるのです。
まさに、 先祖供養は未来休養になるのです。

 

2024年12月26日木曜日

同心とは


とある小誌より

口で「同心」を唱えるだけでは、一つの心になれるものではありません。
共通の願いを持って、苦楽を共にしてこそ同心が育っていくのです。

共通の願いを持って、苦楽を共にする・・・まさに夫婦ですね!

結婚して40年、しかし、よく我慢している・・・もちろん奥さんの方が(^^;;;

私の方は、優しい優しい奥さんで、幸せや〜 

また今年、可愛い可愛いお孫ちゃんもできて、幸せや〜



 

2024年12月25日水曜日

仏性を拝み出す・・・菩薩行

 開祖さまに倣いてから

 

菩薩行の根本は、人間を礼拝することである。

人間を礼拝するとは、あらゆる人間の中にある仏性を認めることである。
仏性を認めないでその人を救おうというのは、形式だけの空虚な行いに過ぎない。
その人の中に必ず実在する仏性を拝み出すところに、真の済度はあるのだ。

菩薩にとっていちばんたいせつなのは、いうまでもなく愛他・利他の精神であり、その精神から発した実践行動であります。
その実践行動を<布施>というのです。

 

逆にいうと、愛他・利他の精神から発した実践行動が布施であり、それが菩薩行と言われるのか(^o^)

 


 

2024年12月24日火曜日

願いに沿って生きる・・・修行 

開祖さまに倣いてから


 『開祖さまに倣いて』より引用です。

・・・「人間は、いくらでも幸せになってもいい。幸せになったら、その功徳をみんなにお分けすればいいんです。そうすれば、もっと幸せが増えるから」・・・

それは毎日の生活のなかで、小さな幸せ、小さな喜びを発見し、その喜んでいる心をそのまま口に出してみることから始まります。
どんな小さな喜びでも、それを言葉に表し、人に伝えてみることで、驚くほどまわりをあたたかく、幸せに変えていきます。
すると自分自身が、仏さまの説かれる法をより深く実感できるようになるのです。

開祖さまに倣いて


確かに、そんな感じがします。

小さな喜び、伝えて行きます(^o^)


2024年12月23日月曜日

願いによって生まれてきた・・・願生

開祖さまに倣いてから 


 『開祖さまに倣いて』より引用です。

「願って」生まれてきた心境になれたとき、人生の苦しみ、悲しみが、解決すべき問題から、仏さまの慈悲の導きに変わったのです。

開祖さまに倣いて

 

あなたは、ソウルメイトを信じますか?

赤ちゃんは、お空から、親を選んで生まれてくるといいます。

私もお空から、親を選んで、願って、生まれてきたのかも・・・

そう思うと、人生の苦しみや悲しみを、実は自分が望んでいた(^^;



2024年12月22日日曜日

真理によって救われる・・・信仰

開祖さまに倣いてから

 


『開祖さまに倣いて』より引用です。

仏さまは、お慈悲によって私たちに難題をもたらしてくださいます。
それは、法の認識を深めさせるためのお慈悲であり、幸せな心境に導くためなのです。


私が真理に沿っていけば、救いという果報は仏さまが出してくださるのです。
それが、根こそぎ救われる法華経の真理の世界です。
そこに「信仰」があるのです。

開祖さまに倣いて

 

なんだよ、難題は、仏さまのお慈悲だったのか・・・。

だったら、お慈悲なんかいらないよって凡夫の私は思うけど・・・。

でも、真理に沿っていけば、よさそうだなぁ、よしよし。

2024年12月21日土曜日

一切のお手配・・・方便

開祖さまに倣いてから

 


『開祖さまに倣いて』より引用です。

そのとき、その場、その人にふさわしいく真実へ導いてくれる縁、それが「方便」です。
人生に起こることすべてが方便であるとすれば、それをすべて生かそうと努力することが、仏さまの願いの通りに生きることであり、真理へつながる道なのです。
本当に仏さまの願いを理解したとき、目の前にあった問題を超えていくことができるのです。

開祖さまに倣いて

上記を何回も何回も読むと、わかる気がしてきた・・・(^^;;;

2024年12月20日金曜日

仏の慈悲を知る・・・本願

開祖さまに倣いてから

 

『開祖さまに倣いて』より引用です。

すべての出来事は、自分本来の仏性を輝かせるために必要で、まわりは自分が仏になるための、有り難い「縁」ばかりなのです。
それがなければ、自分の仏性を輝かせることができない、大切なのは「はからい」なのです。
すべてを仏さまの慈悲だと信じることです。
仏さまのお慈悲を信じることによってこそ、仏さまの本願を受けとめることができるようになるのです。

開祖さまに倣いて


ちなみに、「仏さまの本願」とは法華経如来寿量品で以下のように述べられています。

毎に自ら是の念を作す 何を以ってか衆生をして 無上道に入り 速やかに仏身を成就することを得せしめんと

つまり、どうしたら早く仏と同じ心境にさせることができるのか・・・。
その願いをかなえることが、「仏さまの本願」なのです。


ということで、すべての出来事は、自分を成長させる(仏と同じ心境になる)大切なおはからいと受け止めて頑張れば、いいみたいですね!

2024年12月19日木曜日

心を開く・・・開示悟入

開祖さまに倣いてから


『開祖さまに倣いて』より引用です。

私たちは人さまの悩みを聞かせて頂くときに、ややもすると、その人の心の内を聞く前に悩みの原因が見えてしまうことがあります。
するとすぐにでも悩みを解決してあげたくて、「こうしたら」「ああしたら」と、それまでの経験をもとに、その原因を取り除くためのアドバイスをしてしまいます。
それは相手を思う気持ちであり、また、常識的には正しいことかもしれません。
けれども、いくら正しいこと、変えるべくことであっても、それを先に持ち出してしまうと、相手の心を開くことはできません。


いま目の前にいる人の心を開くには、相手の思いをそのまま共感していくことです。
自分の思いを本当に受け入れてもらったと思えたとき、人の心は開くものです。
すると、今度はどんな言葉も受け入れてくれるようになるのです。

開祖さまに倣いて

『相手の思いをそのまま共感していくこと』わかりました。

2024年12月18日水曜日

ありのままに観る・・・実相

開祖さまに倣いてから


仏さまの智慧とは、ありのままを見通し、ありのままを生かすこと。

 

いまを最大限に生かす智慧を磨くこと、それが私たちの生きる目的なのです。

開祖さまに倣いて

 

その智慧で見ると、嬉しいことや辛いことの中にも仏さまの慈悲のはたらきをみつけることができ、それを乗り越える実践で、幸せになれると説かれているのが、法華経かな(^o^)

 

ちなみに、実相をネット検索すると

実相
  1. 実際の有様。実際の事情。
  2. 仏教すべてのものの、生滅変化する仮のすがたの奥にある真実のすがた。

2024年12月17日火曜日

いまのなかにみつける・・・功徳

開祖さまに倣いてから

 

幸せというのはどこかにあるものを追い求めて得られるのでなく、いま自分がいるその場所で見つけ出すもの、気づくものです。


問題を否定したり、直そうとするのではなく、そのままを喜ぶこと、それが「本質的な救われ」です。


何も変わったことがないのが功徳である場合が多いのです。その功徳を感じとるのが、真の信仰者というものです

開祖さまに倣いて

 

幸せとは、その場で見つけ出すもの、何も変わったことがないのが功徳と感じ取る・・・確かに(^o^)

2024年12月16日月曜日

生かされて生きる・・・縁起

開祖さまに倣いてから


『法華経というのは、因縁を光りが発するように悟ること』・・・。

『法華経の見方とは、いまある「縁」によってこそ、生かされて生きることを感じ取っていくこと』・・・。

 

仏教の教えというものは、詮じ詰めれば、天地すべてのものに支えられているという実相、目に見えないものにも生かされているという実相を、われわれにわからせるためのものなのです。

開祖さまに倣いて

 

ちなみに、実相を、ネットで検索すると。
じっそう
実相
  1. 実際の有様。実際の事情。
  2. 仏教すべてのものの、生滅変化する仮のすがたの奥にある真実のすがた。

余計にわからん(^^;;

2024年12月15日日曜日

光を見いだす・・・成道

開祖さまに倣いてから

 

約2500年前の12月8日、明けの明星を見ながら、お釈迦さまは、お悟りを開きました。

そのお悟りは、人間はもとより、あらゆる動物も植物もみんな仏と同じように尊い、光り輝く存在に見えてきたのです。


本来、光っているものを、光っていると見ることのできる眼を持つこと、それが仏になること。
とにかく、自分も相手もみんな仏性をもっていて、それに気がつくこと……そこから幸せが始まる。


その仏性とは、すべての人を幸せにしたいと願う性質なのだと思います。

 

本質においては金色に光り輝くような美しい世界なのに、心のレンズにいっぱい汚れがついているために、それを通して見る世界が汚れてみえるだけのことです。
ですから、心の汚れをすっかり拭いさってしまえば、この世はこのままで寂光土にかわるのであって、法華経の教えの神髄はこのところにあるといってもいいでしょう。

開祖さまに倣いて

 

だから、心の汚れを落としましょう(^o^)

2024年12月14日土曜日

仏教の戒律と慈悲とは

 

仏教の戒律は、これを破れば、神さまや仏さまの罰(ばち)が当たるとか、社会的制裁が加えられるとかでなく・・・

 

自分自身が損なわれること、自分自身の向上が妨げられること、だからこのように生活をしたほうがいいですよ。
という、『慈悲のすすめ』なのです。


仏教は、何も強制をしないのです。何も束縛をしないのです。正しい道が指し示されているだけなのです。
よくなろうと思う人は、その道に従って精進すれば、まちがえなくよくなるのです。


ちなみに、『慈悲のすすめ』のとは、人を幸せにしてあげたいという心で、とは、人の苦しみを取り除いてあげたいという心です。

2024年12月13日金曜日

葬式仏教のお経

 


普通の人が、お経を聞く機会は、おそらくお葬式ぐらいでしょうか・・・


浄土真宗、天台宗、真言宗などのお経は、まさにお葬式にマッチした長唄みたいなお経ですね。確かに、亡くなった人を浄土に送るのにふさわしい感じのお経です。


しかし、本来、お経はそのようなもでなく、生きているうちに実践するべきものなのです。
お経は、お釈迦さまが2500前にすべての人を幸せにするために説かれた実践教訓なのです。
 

そんな実践教訓の代表が法華経で、法華経を読んだり、書いたり、理解したり、そして、内容を実践する。これで幸せになれるのですね。たぶん。

2024年12月12日木曜日

無礙ならん

 


お経には『無礙(むげ)』という言葉がよく登場します。

『無礙』とは、妨げるものがない、すなわち自由自在という意味です。

ということで、

 

『まさに願わくは衆生と共に、大衆を統理(とうり)して一切無礙ならん』チン!

 

ちなみに、「ならん」は、現代では「ならない」のことですが、古文では「なるらん」から変化したもので「なるだろう」 という逆の意味合いになるとのことです。 


だから、「一切無礙ならん」は「一切自由自在になるだろう」ですか・・・

 

2024年12月11日水曜日

わかりやすい六波羅蜜



菩薩行は、法華経に六波羅蜜の実践と書いてあります。

  • 布施
  • 持戒
  • 忍辱
  • 精進
  • 禅定
  • 智慧

しかし、漢字2文字で言われてもなぁ・・・、なかなか実践できないよなぁ・・・

 

そんなあなたに、わかりやすい六波羅蜜があります!

法華経の前経である無量義経十功徳品に逆説に解説してあるのです!

  • Not慳貪(ガツガツ生きない) = 布施
  • Not驕慢(ツンツン生きない) = 持戒
  • Not瞋恚(カッカ 生きない) = 忍辱
  • Not懈怠(ズルズル生きない) = 精進
  • Not散乱(フラフラ生きない) = 禅定
  • Not愚痴(ブツブツ生きない) = 智慧

 

ガツガツ、ツンツン、カッカ、ズルズル、フラフラ、ブツブツ・・・わかりやすい(^o^)

2024年12月10日火曜日

幸せになれる3つの入り口


某雑誌に以下の『幸せになれる3つの入り口』が載っていました。

 

  1. 過去、自分に起きたことを、すべて受け入れる
  2. 1の延長上で、現在のすべてを、受け入れる
  3. そして、周りの人から感謝される存在になる

 

1は、過去の悪かったことも、良かったことも、すべて受け入れると気持ちがすごく安らかになり、幸せへの一つ目の入り口になります。


2は、現在の自分を取り巻いている状況をすべて受け入れ、それに感謝するということです。これも、幸せへの二つ目の入り口になります。


3は、1と2を踏まえて、人さまから感謝される存在になる…これこそが、人間にとって最高の、この上ない幸せであるといえます。


ということで、これからは、どんな状況におかれても、過去も現在もすべて受け入れ、人さまから感謝されるように精進していきたいと思います!

2024年12月9日月曜日

言葉の力


とある小誌からの引用です。

 

「優しい言葉をかける」といっても、単に口先だけの言葉では相手を動かすことはできません。
心から相手を思い、幸せにしてあげたいという気持ちからほとばしり出た言葉であるとき、その言葉が相手の琴線にふれ、その人生を一変させるほどの力をもつのです。

 

『ほとばしり出た言葉』、ですね……。

 

2024年12月8日日曜日

成道会とは

 


今日は、12月8日・・・

12月と言えば、キリスト降誕のクリスマスですが、仏教だって大きなイベントがあります!

 

それは、仏教三大行事の一つ、『成道会』が、今日、12月8日です。
そう、お釈迦さまが、おさとりを開いた日です!

 
今から約2500年前、今のインド周辺のカピラバストという国の王子で、シャーキャ族(釈迦族)の聖者(牟尼)、『世に比類なき尊いお方』のバガヴァン(世尊)である釈迦牟尼世尊が修行の末、35歳の時、明けの明星が輝く12月8日の朝、ついにお悟りを開かれたのです。
 
 
『お悟りを開いた人(真理を悟った人)』のことを梵語(サンスクリット)で仏陀(ブッダ)と云い、なので釈迦牟尼世尊は仏陀と呼ばれ、日本では、訓読みで『仏さま』と呼ばれるようになりました。
 

そう、これこそが、どんな困難も克服することのできる智慧と慈悲の仏教誕生の瞬間でありました。

 

悟りに至るまでは、修行といっても苦行では悟りはえられぬことに気づいたお釈迦さまは、ある日ブッダガヤという町のはずれの菩提樹の下で、静かに坐禅を組み、ついに12月8日の未明、空に美しく輝く明けの明星をご覧になり、お釈迦さま、こうおっしゃられました。

 

「奇なるかな奇なるかな、一切衆生悉く皆如来の智慧と徳相を具有す、ただ妄想執着あるがゆえに証得せず」


そう、ついに真理をお悟りなったのです。そして仏教が誕生した日でもありました。
 

「不思議なことに、不思議なことに、一切の生きとし生けるものはすべて、佛の智慧と徳相を具えているではないか、ただ、煩悩に覆われていてなかなか気がつかない・・・。」

 

つまり、すべての人は、煩悩を取り除くと仏になれる・・・、本来はすべて仏なので、みな平等・・・。
 

ちなみに、お釈迦さまが生まれた日を「降誕会 4月8日」と言い、回りの不幸をいろいろ見て、すべての人を幸せにしたいと願われ、29才で出家し、35才で真理を悟り(成道会)、72才ぐらいからすべての人を幸せにする極意(法華経)を説きはじめ、80才でご逝去(涅槃会 2月15日)されました。

2024年12月7日土曜日

すべて自分を生かすことだと自覚する


お釈迦さまは、自分を何度も殺そうとした提婆達多(だいばだった)を憎まず、逆によき友(善智識)とおしゃっていました。

これは、自分にとって、いやな人、いやなことが、実は自分を成長させていただけるチャンスなのだという教えなのです。

このように人生は、いいことも、いくないことも、すべて自分を生かすことだと自覚ができれば、すでにもう幸せなのです。

2024年12月6日金曜日

3つの心構えと3つの実践とは


 このブログの常連さんは、もうお分かりだと思いますが、私はRKK教団のダメダメ信者です。

この教団の経典は、「法華経」です。
「法華経」は、実は、難信難解です。
 

その難信難解の「法華経」のエッセンスを以下の「3つの心構え」と「3つの実践」で分かりやすく一般人までに落としてくれたのが某教団の方々なのです。

3つの心構え

  • 自分が変われば相手が変わる。
  • まずは、人さま。
  • すべては、自分。 

3つの実践

  • 朝は、元気良く「おはよう!」と挨拶する。
  • 呼ばれたら、元気良く「ハイ!」と返事をする。
  • 靴をぬいだら、人知れず靴をそろえる。

 

特に「3つの実践」は、現会長先生が自ら3年間毎日実践し、これこそ現代の法華経実践とだ確信したものだそうです。


私も同感だと思うこの頃です(^o^)

 

2024年12月5日木曜日

今の中に見つけるもの・・・

 


昔、旧燈明日記で引用したんだけど、今、引用先がわからない…、良いメッセージなので、また引用しときます(^^;



幸せというのはどこかにあるものを追い求めて得られるのでなく、いま自分がいるその場所で見つけ出すもの、気づくものです。


問題を否定したり、直そうとするのではなく、そのままを喜ぶこと、それが「本質的な救われ」です。


何も変わったことがないのが功徳である場合が多いのです。その功徳を感じとるのが、真の信仰者というものです。

 

仕事での一日3回の警備巡回も、何もないことは、まさに功徳です(^o^)

仕事をちゃんとしてんのかって、声が聞こえて来ましたが・・・


 

2024年12月4日水曜日

法華経は百パーセント救われる?



昔、旧燈明日記で引用したんだけど、今、引用先がわからない…、良いメッセージなので、また引用しときます(^^;

 

 

仏教の基本は「世の中のすべてのものごとは、『因』と『縁』の出合いによって存在する」という縁起の教えです。

 

法華経は、これを一歩進めて「常にまわりの人をよい因・よい縁と見る」という「善因善果」で、すべての人が百パーセント救われるという縁起観なのです。


「法華経ですべての人が百パーセント救われる」というのは、出合うことすべてを幸せの因と見ることで、人は皆幸せになるために生まれてきていると信じること。

 

「〜信じること。」って、あんた・・・(^^;;

2024年12月3日火曜日

理性の宗教と感情の宗教



世の中には、実に沢山の宗教があります。

どの宗教も、幸せになることが目的の一つだと思います。
しかし、宗教がもとで争いが起こることもありますね。


争いの宗教は、『感情の宗教』なのです。
『感情の宗教』には、2つの欠陥があります。


それは、感情である『これは好き』、『これは嫌い』、という2つの欠陥です。

  • 『これは好き』が高ずると、他の宗教を排除し、争いが起きるのです。
  • 『これは嫌い』が高ずると、他をきらい過ぎて、争いが起こるのです。

では、『理性の宗教』とは、どういうものでしょうか?


ハイ、それは、仏教です。


仏教は、感情的にこれを拝めとか信ぜよとか教えられたものではありません。
仏教は、因果の法則を説かれたもので、誰でも理性で理解ができるものなのです。


そう、仏教は

  • 良いことをすれば、良い縁にふれて、良い結果になり、良い報いが来る
  • 悪いことをすれば、悪い縁にふれて、悪い結果になり、悪い報いが来る


です!


しかし、一神教は争いばかりですね…

一神教の各々が、それぞれ絶対的に正しいと思っているから他を許せず争いになる。


世界を救えるのは、やはり、仏教しかないですね…(^o^)

2024年12月2日月曜日

仲良くするのは難しい

 


人には、相性というものがあります。

 

普通、結婚は相性の良い人とするものです。
しかし、実際は、相性が良いと単に勘違いした、あるいは、騙されたケースが多いようですね。


ですので、結婚生活をつづけていると、『無性に腹が立つ』ことがありますね(たぶん相手も同様でしょう・・・)。
これは、感情なので理性では、なかなか抑えきれません。


しかし、そこをなんとか乗り越えるところが、宗教を行ずる信仰者ではないでしょうか・・・。


法華経では、お釈迦様が、自分を何度も殺そうとしたダイバダッタでさえも、良い友達としているのです。
 

逆にいうと、自分にとって都合が悪い相手ほど自分を成長させてくださる有り難い友としてみるのが仏教(法華経)なのですね。


ちなみに、『無性に腹が立つ』の無性は、仏性がない状態のことらしい。

仏性のないもの。悟りを開く素質のないもの

https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%84%A1%E6%80%A7_%28%E3%82%80%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%29/

 

すべての人には仏性があるはずなのに、「怒り」や「絶望」は仏性を覆い隠すのですね。
だから、逆の「喜び」や「希望」をいつでももてる自分になりたいですね!

 

 

2024年12月1日日曜日

信仰は お豆腐のように

 


今年も、早いもので、もう12月ですね。

今日は、とあるところで、法話を聞いて来ました。

その法話で、心に残ったものがありました。

それと同じものが、ネットにありましたので、引用しときます。


信仰は お豆腐のようになることです。
豆腐は煮られてもよし
焼かれてもよし 揚げられてもよし
生で冷奴で ご飯の菜によし
湯豆腐で一杯 酒のさかなによし
柔らかくて 老人 病人の お気に入り
子供や 若い者からも 好かれる
男によし 女によし
貧乏人によし 金持ちによし
平民的であって 気品もあり
上流へも好かれる
行儀よく切って 吸い物となり
精進料理によし
握りつぶして味噌汁の身となり
家庭料理に向く
四時 春夏秋冬 いつでも使われ
安価であって ご馳走の一つに数えられ
山間に都会に…….何処でも歓迎せられる

味がないようで 味があり
平凡に見えて 非凡。

https://woo-site.com/article300/2/

 

煮られてもよし、焼かれてもよし、揚げられてもよし、生でよし
味がないようで味があり、平凡に見えて非凡

私も、豆腐のようになりたい(^o^)

2024年11月30日土曜日

出会いが人生を変える

 


たとえば、よく仕事で厳しいことを言ってくる人がいます。

 

その人を「この人さえいなければ」と否定的に見るか、「苦言は、足りない私を向上させるため」と肯定的みるか、またまた「器を大きくさせていただける、ありがたいご縁」と感謝の心で見るかによって、出会いは大きく変化します。

 

つまり、「仕事で厳しいことを言ってくる人」という一つの現象に対して、以下の三つの見方があったわけです。

 

  1. 否定的「この人さえいなければ」
  2. 肯定的「苦言は、足りない私を向上させるため」
  3. 感謝的「器を大きくさせていただける、ありがたいご縁」

 

そして、否定的より肯定的、肯定的より感謝的に見ることにより、仕事スキルが上がり、精神的にも成長ができ、自分が変わり、自分が変われば世界が変わるのです。

 

また、「あいさつ」は人間関係を円滑にする基本の一つです。いまを大切に生きることで、未来が拓くのですから、どんな人にも変わることなく、あいさつをする。

 

相手を否定的に見ないで、こちらが一つのことを貫いていけば、人間関係は必ず変化していくのです。


どんな出会いも感謝的に受け取り、どんな人にもあいさつを貫いていけば、出会いが人生を変えるのです。たぶん。

 

2024年11月29日金曜日

「お経を読む」ということ


 

最近、法華経ブログを再開し始めて、サボりにサボっていた法華経読誦も再開で…(^^;
 

「お経を読む」ということは、どういうことかというと・・・。まず、仏教とは、ずばり「因縁果報」の教えです。

 

平たく云うと、以下の2つです。

  • 良いことをすれば、良い縁にふれて、良い結果が出て、良い報いが来る
  • 悪いことをすれば、悪い縁にふれて、悪い結果が出て、悪い報いが来る

で、お経には、良いことが沢山書かれています。 

 

読み始めのうちは、チンプンカンプンですが、毎日毎日読誦したり、ネットや本で分からない語句を調べたりして、徐々にお経の内容が理解でき、良いことが沢山書かれていると、わかるようになるのです。


つまり、「お経を読む」ということは、良いことが書かれているお経を読むわけですから、良いことなのです。
すると、良い縁にふれたときに、良い結果が出て、良い報いが来ることになるのです。


だから、「お経を読む」と良い報いが来て、幸せになることができるのです(^o^)

2024年11月28日木曜日

いのちの尊さ実感

 

自分が生まれてきた命の尊さを考えてみました。

たとえば、過去10代のご先祖さま1024人の内、1人欠けても自分は存在していないです。

つまり、それだけ尊い命を私たちは生きているのです!

  1. 両親で2人
  2. 両親の両親で4人
  3. 両親の両親の両親で8人
  4. 両親の両親の両親の両親で16人
  5. 両親の両親の両親の両親の両親で32人
  6. 両親の両親の両親の両親の両親の両親で64人
  7. 両親の両親の両親の両親の両親の両親の両親で128人
  8. 両親の両親の両親の両親の両親の両親の両親の両親で256人
  9. 両親の両親の両親の両親の両親の両親の両親の両親の両親で512人
  10. 両親の両親の両親の両親の両親の両親の両親の両親の両親の両親で1024人

と思ったら、以下は超桁違いに、尊い命を私たちは生きているのですね!!

自分のいのちの尊さについて考えましたが、理屈理論で考えてみると、、、。
男性の精巣は一日に約3億5000万個の精子を作り出します。そして、10歳位から死ぬまで作られます。人生80歳と仮定すると、3億5000万(個)×365(日)×70(年)=8兆9425億(個)
女性の卵巣は1ヶ月に1個の卵子を作り出します。そして、10歳位から50歳位まで作られますので、1(個)×12(月)×40(年)=480(個)
精子×卵子=4292兆4千億(個)となります。

私ひとりのいのちは、1/4,292,400,000,000,000の確立で頂いたいのちなのですね。これを貴重と言わずして何と言ったら良いのでしょうか?

(引用先リンクなくなる)

 まぁ、法華経に出てくる数値レベルのとんでもない数値ですね(^^;;

 

2024年11月27日水曜日

「ようし」と「かなめ」とは


 
最近、仕事で年一度の停電作業夜勤勤務に当たって、面倒臭いな…と思っていましたが、以下を思い出し、意外と何事もなく乗り越えることができました(^o^)

 
とある書誌より引用

何か事が起こると、「さあ大変だ」と言うのが口癖になっている人がいますが、私は逆に難問がくると「これは、おもしろくなってきたぞ」と自分に言い聞かせるのです。そこの紙一重の差が大事だとおもうのです。


さあ大変だと思うと腰が引けてしまいます。反対に、「ようし」と心に決めると、すぐ行動がおこせるのです。行動を起こせば、必ずどこかに道が開けてきます。


「仏教は苦滅の道」であると学んで、「どんな苦も救うことができる教えを見つけた」と、躍り上がらんばかりだった当時の感動です。


その苦滅の道のかなめは、自分に不利なこと、つまり逆縁をも仏さまのご功徳であり、善縁なのだと受け取れるようになることにあります。

    
本当に「ようし」と心に決めて、入念な下準備して、嫌なことの「かなめ」を受け入れたら、意外と上手く終わらせることができ、安堵の日々を送ることができました(^o^)

 
みなさん、「さあ大変だ」と思ったら、脳内で「これは、おもしろくなってきたぞ」と変換するのですよ!

2024年11月26日火曜日

仏教五戒について


 

法華経には五戒(ごかい)という言葉自体は具体的に登場しませんが、方便品第二に六波羅蜜が出てきます。この六波羅蜜は6通りの修行ことで、その2番目の修行に持戒が出てきます。その修行には、以下の5つあるという教えです。

五戒

  1. 不殺生(ふせっしょう)
  2. 不偸盗(ふちゅうとう)
  3. 不妄語(ふもうご)
  4. 不飲酒(ふおんじゅ)
  5. 不邪淫(ふじゃいん)

1から3の「殺さない・盗まない・嘘つかない」は、まぁ当たり前すぎて、守ることすら意識しないでも大丈夫ですが・・・ 人によっては、嘘つきは結構いる感じですか・・・

 

問題は4と5の「酒飲まない・エロしない」は、これは守るのがすごく難しいですね。


お酒は、付き合いでどうしても飲んでしまうとか、特に夏場はビールがすごくおいしいですね。しかし、お酒が入ると、眠たくなったりして何も出来ず、その時間がいつももったいなく思います。


邪淫の本来の意味は、不倫など人の道をはずれた性行為のことですが、一般的には、エロなどのよこしまで、みだらなことです。私も若い時は結構エロ好きでしたが、もうすぐ70歳になる今は、全く無くなってしまいました(^^;;;


ということで、五戒を意識しなくてもできる自分になりたい…と思う今日この頃です。五戒ありを誤解なく言えたかな(^o^)

2024年11月25日月曜日

当たり前の事を当たり前に行うことが大事


仏法では、誰もが否定できない「当たり前の事」を法(真理)といいます。

しかし、この「当たり前の事」を「当たり前に行う」ことが、実生活の上では凄く凄く難しいのです。

 

以前、こんな有り難いお話を聞かせて頂きました。

あるお寺に、お釈迦さまの教えを悟りきった凄く偉いお坊さんがいました。

ある仏教専門の偉い学者さんが、是非、教えを請いたいと遠い所からわざわざそのお寺へ訪ねてきました。

学者さんは、お坊さんに、お釈迦さまの難しい教えの真髄を教えて下さいとお願いしました。

すると、お坊さんは、お釈迦さまの教えは、難しくありません。3歳の子供でもすぐ理解ができます。といってお話しをはじめました。

お釈迦さまの教えは、『悪いことをしては、いけませんよ、良いことをしなさい。』これだけです。

それを聞いた学者さんは、わざわざ遠いところから、そんな「当たり前の事」を聞きに来たのではないと怒りはじめました。

それを見て、お坊さんは、『では、あなたは、その「当たり前の事」を実行することが出来ていますか・・・』

それを聞いて、我に帰った学者さんは、仏法を悟ったそうです・・・。

 

ちなみに、「法」とは、さんずいに去ると書きます。さんずいは、みなさんご存知の通り「水」です。そう、「法」とは、水が流れて去っていくというごく「当たり前の事」をいっている漢字だったのです。

2024年11月24日日曜日

因縁果報

 

今年2月に、次男夫婦に初のお孫ちゃんが産まれ、お孫ちゃんの安全と健康を祈るために法華経の読誦を、毎日することを決意し、しかし、サボり気味なり、そして今、法華経ブログ再開ということで、今のところ、毎日欠かさず、読誦させていただいています(^^;;


法華経の教えは、突き詰めると『因縁果報』という普遍の法則です。
『とある原因(因)』が『とある条件(縁)』にふれ『とある結果(果)』となり『とある報い(報)』が来る。


『とある結果』のところで、ネガティブな妄想が膨らみ、いろいろと苦しくなっている感じです。『とある結果』のところを変えようと思っても、その領域は、実は神や仏の領域で、自分ではどうすることもできません。自分でできるのは、『とある原因』のところなのです。


原因である自分を変えることしか出来ないのです。
自分にできることを精一杯させて頂くしかないのです。
ネガティブな妄想を捨て、今を精一杯生き抜くしかないのです。


さあ、サボらないで、法華経読誦、するぞ〜と誰にともなく・・・(^^;

2024年11月23日土曜日

不退転とあびばっち、あゆいおっち

 

法華経を読誦していると「不退転」とか「あびばっち」、「あゆいおっち」という単語が出てきます。

 

実はこの3つ、同じものなのです。

梵語の「アヴァイヴァルティカ」を音写したのが「あびばっち(阿び跋致)」で、不退転と漢訳されたものなのです。
また、阿惟越致(あゆいおっち)も阿び跋致(あびばっち)と同じものなのです。


尚、阿惟越致は13番16番、阿び跋致は3番、不退転は1,6,12,20番に出てきますね。


あびばっちの決意で、法華経を授受しないといけませんね(^^;


2024年11月22日金曜日

五種法師とは

 

五種法師(ごしゅほうし)とは、法華経に対する修行者のあり方を示すもので、「法華経」の法師品に説かれています。

 

  1. 法華経を受持し。
  2. 法華経を読んで。
  3. 法華経を誦じて。
  4. 法華経を解説し。
  5. 法華経を書写す。

 


法華経を信じきり(受持)、毎日毎日読んで読んで(読)、暗記して(誦)、みなさんに教えてあげる(解説)。
また、インターネットを使って法華経の教えを公開する(書写)。

まだまだですが、私も頑張ります・・・誰にともなく(^^;


2024年11月21日木曜日

雨にも負けず、風にも負けず


私のお仕事は施設警備員で立哨もあります。 ここ数日、雨が降っていました。


雨の中の立哨は、結構堪えますが、「雨の中、ご苦労様」とか「お風邪を引かないように」等の温かい労いの言葉を頂くことがあり、凄く有り難いです。


仕事とはいえ、雨と寒さの中の立哨は、凄く大変です。
でも、その大変さを顔に出したら、警備員失格ですね。


つねに、良い挨拶と良い姿勢。そして、良い身だしなみを心がけ…。
自己改革を続けなければ、警備員の社会的地位は底辺のままです。


休日に自家用車を買い物等で乗り回すと、交通誘導の警備員さんを沢山見掛けます。
半分以上の警備員さんは、だらしがない格好をしていますね。
平気で警備服のままタバコを吸っていたり…。


警備の仕事は、意識を高く持てば、素晴らしい仕事です。
底辺の仕事などと言われないように頑張りましょう!(誰にともなく…)


ちなみに、「雨にも負けず、風にも負けず」の詩は、宮沢賢治の没後に発見された遺作のメモであり、その最後に「南無無邊行菩薩/南無上行菩薩/南無多宝如來/南無妙法蓮華経/南無釈迦牟尼佛/南無浄行菩薩/南無安立行菩薩」という題目が記されていたという。
この詩は、明らかに法華経20番の常不軽菩薩とイメージが重なります。


私も、常不軽菩薩のように、仏性を拝む修行をしているのかもしれません。
私も、デクノボーと呼ばれ…そういう者に私はなりたい(^^;

 

2024年11月20日水曜日

「行ってきます」と「行って参ります」


あなたは、何処かへ出かける時、「行ってきます」と言いますか?
それとも、「行って参ります」と言いますか?

 

この2つ、同じ意味で使われますが、実は、大きな違いがあるのです。それは、「参」が入るか、入らないか、ということです。

 

「参」には、さまざまな出会いの中で、人間として少しでも尊ぶべきものごとを学び、向上して帰ります、という精神的な意味合いが含まれるのです。


また、何かの対戦で、負けると「参った」、「参りました」と言います。
これは、悔しがったり、文句を言ったりせず、謙虚に相手の強さを認め、敬意を表す言葉です。


つまり、尊いものや強いものに近づこうと誓願するのが「参」と言うことなのです。
ということで、「行って参ります」は、イコール自己向上を意味し、仏教的には、自らの魂を磨くことなのですね。


「行ってきます」は、まさにそのままですが、「行って参ります」は、行って魂を磨いてくるのです!


2024年11月19日火曜日

わかりやすい法華経

本ブログの一番のコンテンツ、「法華経のあらまし」を一つのスレッドにまとめてみました。

 

法華経ってなに?

ここにブログとして『法華経』を取り上げます。
そこで、超簡単に『法華経』を紹介させていただきます。
『法華経』は、ずばり! お経です・・・。お経は、お釈迦さまの教えです。
お経は、沢山あり、なぜ『法華経』かと言われれば、たまたまご縁があったってことでしょうか・・・。
さて、この『法華経』は、28の章(品)から成り立っていて、16章の「如来寿量品」が『法華経』の真髄とされています。
そこには、「法身の釈迦」について説かれています。「法身の釈迦」とは、人間の釈迦ではなく、時空のあらゆるところに存在し、真理(法華経)を説く釈迦のことです。
もう少し、わかりやすく言うと、過去未来、宇宙全体のいつでもどこにでも存在して、真理(法華経)を説く存在です。
ごく普通の人は、そんな馬鹿な! と、まず思うでしょう。でも、そうらしいのです。とにかく、理屈でなく、信じることから、始まるらしい・・・。
どんな、真理(法華経)なのかは、これからが、本テーマへと続きます。ご期待ください!

 

なぜ法華経なのか?

なぜ法華経なのか? と問われれば、たまたま、そうとしか言えませんが・・・。しかし、この法華経の凄いところは、実践の書というところです。
他のお経や宗教は、単に、拝んだり、祈っただけで御利益があるって感じですが・・・。法華経は違います。法華経に書かれている教えを実行しなさい。そうすれば、「必ず幸せになれます」よ、と云う教えです。
この「必ず幸せになれます」ってところが凄いところです。つまり、法華経の教えを実践すれば・・・。貧乏な人、犯罪者の人、極悪人の人、また、お金持ちでも心の貧しい人、偽善者の人、善良だけど運の悪い人などなどでも、100%幸せになることが出来ると書かれているらしいのです。
どうですか、そろそろ、法華経には、どんな事が書かれているか知りたくなって来たでしょう。あせらず、じっくり、行きましょう。では、続きをお楽しみに・・・。

 

法華経のルーツ

お釈迦さまがお説きになったお経は、約1700種あると云われていますが・・・。実は、直筆のものは無いそうです。
この沢山のお経は、お釈迦さまの弟子達が、お釈迦さまが亡くなってから、編集したもので、法華経も仏滅後400~600年後に編集されました。
その後、インドに留学していた鳩摩羅什が中国に持ち帰り翻訳し、天台大師に引き継がれます。また、同時期に日本にも伝わり聖徳太子が「十七条の憲法」を法華経をもとに作ったとされています。
その後、奈良朝の終わり頃、最澄が天台宗を日本にも起こし・・・。鎌倉時代に法華経のエース、日蓮が登場し、法華経を元に日蓮宗を起こします。
まぁ、簡単ですがこんなところです。尚、鳩摩羅什、天台大師、聖徳太子、最澄、日蓮は、仏教界では、今の大谷翔平級の人達です。

 

法華経の誕生秘話

法華経の教えが説かれたのは、お釈迦さまの晩年、すなわち亡くなる前の8年間であることが、法華経の本文からうかがい知ることができます。
ところが、経典として出現したのは、仏滅後、400~600年ぐらいと推定されています。
なぜ、こんなに経ってから法華経が成立したのでしょうか・・・。それは、今もよくある宗教論争が、当時もあったのです。
仏滅後、お釈迦さまの教えを一字一句守ろうとする保守派(小乗)と教えの精神こそ守るべきとする進歩派(大乗)の対立でした。
もともと、争いをなくし、みんなが幸せになるという、お釈迦さまの教えが原因で、逆に争いが起こることに疑問をもった良識派(一乗)が、大乗も小乗もなくすべてが一乗なのだという精神のもとに、お釈迦さまの晩年の教えを法華経としてまとめました。
そう、ここに法華経が誕生したのです!
つまり、法華経こそが、すべての教えを包み込む性質をもったお経として誕生したのです。

 

法華経ストーリーの流れ

法華経は、お経でありながらオペラのようなストーリー展開になっています。テーマは、『縁起』、『永遠の命』、『法の実践』の3つで、各々、智慧のお話、慈悲のお話、行徳のお話の順に展開していきます。
また、法華経は28の章(品)からなり、序品第一から法師品第十までが、インド霊鷲山(りょうじゅうせん)の説法で、見宝塔品第十一から嘱累品 第二十二までが、霊鷲山の空中(虚空)での説法になります。あとの薬王菩薩本事品第二十三から普賢菩薩勧発品第二十八は、また霊鷲山の地上での説法になります。
以下は、簡単ではありますが、大体の法華経ストーリーの流れです。尚、時代は約紀元前500年、場所はインド霊鷲山。今、法華経の説法が始まろうとしています・・・。

  • はじめ、お釈迦さまは、沈黙されておりましたが、突然眉間から光を放ち、『縁起』について語りはじめます。

  • そして、『縁起』を理解した智慧のある弟子達をどんどん授記していきます。

  • すると、地面から多宝如来のいる見宝塔が湧き出して来て、いきなり霊鷲山から虚空での説法となりました。

  • そして、お釈迦さまの説法を多宝如来が真実であると証明すると、他の世界からやって来た菩薩達が娑婆世界にとどまって、この教えを説き広めたいと表明します。

  • しかし、お釈迦さまは、その表明をぴしゃりとお断りになりました。

  • すると、地面から今度は、計り知れない数の全身金色に輝く菩薩達が登場したのです。

  • そして、お釈迦さまは、その登場した菩薩達を過去世の『永遠の命』の中で教化したのだと宣言します。

  • ここに、生きとし生けるものすべてのものの本質は仏性で、それは、過去世、今世、来世と輪廻して『永遠の命』と繋がっている。

  • そして、『永遠の命』は、我々生きとし生けるものすべてを、いつでも、どこでも、慈悲をもって生かしてくれる。

  • そのご、智慧の『縁起』と慈悲の『永遠の命』を説く法華経を授受実践。つまり、行徳の『法の実践』をすることがいかに功徳があるかを語り。

  • さいご、『法の実践』のエピソードを薬王菩薩、妙音菩薩、観世音菩薩、普賢菩薩を各々主役にして語り、終わりを迎えます。

では、上記を踏まえて、各品毎のあらましにつづきます。

 

序品 第一(法華経のあらまし)

序品は、文字通り法華経のプロローグです。舞台は、王舎城(おうしゃじょう)の霊鷲山(りょうじゅうせん)。まさに今、大オペラが始まろうとしています・・・。

お釈迦さまの教えを聞こうと、沢山の人(弟子、菩薩、他教の神々、鬼神、動物等)が集まってきました。そして、その教えは、『無量義』という教えでした。その教えを説き終えれると、お釈迦さまは、三昧(瞑想)にお入りになりました。そして、しばらくすると、空から美しい花が降ってきて、お釈迦さまの眉間から光が出て、宇宙のあらゆる世界を照らしました。しかも、過去世の様子まで・・・。

この光景を見ていた弥勒菩薩は、このことが、どういうことか、お釈迦さまへ聞きたかったのですが、三昧に入っていたので、代わりに文殊菩薩に聞きました。そして、文殊菩薩は答えました・・・。

「わたしはかつて、過去の諸仏もとで修行をしていた遠い昔に、同じような奇跡を見た事があります。それは、日月燈明如来という仏がおられ、声聞には『四諦』を、縁覚には『十二因縁』を、菩薩には『六波羅蜜』を説かれました。また、そのつぎの時代にも別の仏が現れ、名は同じく日月燈明如来とよばれ、今度は、『無量義』を説かれ、三昧に入り、そして、『妙法蓮華経』をお説きになったのです・・・。まさに今、その時と同じ光景なのですよ!」

とまぁ、こんな感じに展開していきます。そして、本品のポイントは、他教の神々や生きとし生けるものすべてに対して説かれたこと。また、眉間からの光が時空を超えてすべてのものにとどいたこと。つまり、法華経は、あらゆるものに通じる真理を象徴しています。

 

方便品 第二(法華経のあらまし)

序品第一で三昧に入られていたお釈迦さまが目を開け、そして起き上がり、弟子の舎利弗に告げはじめました。

「もろもろの仏が悟った智慧は、深遠で大変難しく、舎利弗をはじめとする皆さんには到底理解することができません。もし、お話ししても、皆さんの頭が混乱するだけなので、説くのはやめましょう。」



しかし、舎利弗は余計に聞きたくなり、再度、説いてくださいとお願いしましたが、やはり、駄目で、三度目でやっと、それほど云うならと説法をお話し始めました。(これが有名な三止三請です。)

すると、今までお釈迦さまの教えを聞いて、自分はもう悟っていると思っている弟子達五千人が、いまさら新たな教えなど聞き耳もちませんとその場を退場していきました。

すると、お釈迦さまは、その弟子達を止めもせず、あらためて、舎利弗へこの教えを聞くに相応しい人だけ残りましたと説法をお話し始めました。

しかし、この品では、肝心の法華経については、至らず、さわりで、因果の法則(十如是)や方便についてお話しになりました。

十如是は、相、性、体、力、作、因、縁、果、報、がすべて等しいことであるとする法門で、諸法実相とも云います、あとで詳しく説明を致します。

また、方便は、正しい手段のことで、それぞれの人に、その時、その場所により、無数の教えを今まで説いてきましたが、実は、ある一つの教え(真理)がすべて元になっていて、そこに気づき、理解できれは、舎利弗をはじめとする皆さんも、仏になれますよ・・・。

と、云う事で、方便品は終わり、『譬諭品 第三』へ続いていきます・・・。

 

譬諭品 第三(法華経のあらまし)

方便品で、お釈迦さまから、つぎのようなお言葉を承った舎利弗は・・・。

『無数の方便で、それぞれの人にふさわしい、適切な道によって教えが説かれ、そして、ある一つの真理を会得すれば、舎利弗をはじめとするすべての皆さんも仏になることが出来ますよ。』

これを聞いて、自分も仏になれるのだと大変喜びました。そこで、舎利弗は「ある一つの真理」とはどんなものでしょうかと、お釈迦さまへおうかがいしました。すると、お釈迦さまは、『三車火宅の譬え』をお話し始めたのです。

『三車火宅の譬え』をお話し終えたお釈迦さまは、今まで無数の方便の尊い教えを説いてきましたが、実はそれは、ただ唯一の一番尊い真理を説いていたのです・・・。
ということで、法華経の神髄は、まだ、語られず、信解品へ続くことになります。

 

信解品 第四(法華経のあらまし)

譬諭品 第三で、お釈迦さまから『舎利弗をはじめとするすべての皆さんも仏になることが出来ますよ』と聞いた、慧命須菩提、摩訶迦旃延、摩訶迦葉、摩訶目ケン連の4人は、われわれも仏になれると大喜びして、我々が理解した内容を譬えにして申し上げますと『長者窮子の譬え』を語り始めました・・・。

尚、信解品の「信」とは、感情(行)のはたらきです。「解」とは、理性(学)のはたらきです。そう、信仰に対して、この両方がかね備わってこないと、なかなか「ある一つの真理」を会得することが難しいみたいです・・・。

 

薬草諭品 第五(法華経のあらまし)

信解品 第四で、摩訶迦葉らから『長者窮子の譬え』を聞いた、お釈迦さまは、「よろしい、よく分かってくれました。しかし、如来は、もっともっと計り知れないほどの功徳があるのです。如来は、一切の教えを知り、それを自由自在に支配するものです。そして、すべてのものごとの真相を明らかに究め尽くして、多くの衆生にたいして、その一切を知るものの智慧を示されるのであります・・・。」と、続いて『薬草の譬え』をお説きになりました。

 

授記品 第六(法華経のあらまし)

この品は、『信解品 第四』で、仏の教えについて理解した内容を『長者窮子の譬え』にして申し上げた、慧命須菩提、摩訶迦旃延、摩訶迦葉、摩訶目ケン連らが、『薬草諭品 第五』『薬草の譬え』を聞き、ますます、教えを深め、そして、そのことに対して、お釈迦様が、仏法を理解したこと認め、あなた方も仏になれますよと、授記されます。

授記とは保証のことで、保証にはいつも条件があり、それは、これからも行学二道の研修に励み、多くの人々を仏道に導いた後・・・、ということです。つまり、これからが大事で、理解した仏法を実践してくださいってことです。

 

化城諭品 第七(法華経のあらまし)

はるかなる大昔に、大通智勝如来という仏さまがおられました。この仏さまには、出家するまえに16人の子供がいました。16人の子供は、みな父上を見習って法華経を説くために仏さまになりました。そして、16番目の仏さまが娑婆国担当の釈迦牟尼仏でありました。

釈迦牟尼仏ことお釈迦さまは、過去世に法華経の教えによって教化した衆生たちこそ、いまの弟子たち及び未来世の信者(現在の我々)に他ならないことを、明らかにしました。

真に悟りを得る道は2つあるものでは、ありません。ただ一つ法華経の教えがあるのみです。しかし、五官の欲にとらわれて、みずから苦しみを招いている人もいますので、そういう人達のために、とりあえず、迷いを除いて、心に安心を得るようにみちびいてあげるのです、と。このことを譬え話で説明いたしましょうと『化城宝処の譬え』を説かれ始めます・・・。

 

五百弟子受記品 第八(法華経のあらまし)

この品は、お釈迦さまが富楼那(フルナ)をはじめとする5百人の弟子(阿羅漢)に成仏の保証(受記)されます。
阿羅漢たちは、受記されるにいたった悟ったことを『衣裏繋珠の譬え』にして、申し上げました。

この譬え話が終わると、「お釈迦さまも、この友人のようなお方です。まだ菩薩であられたころ、私たちに、『だれしも仏性が具わっているのだから、修行して仏の悟りをひらくように』と教えてくださってのですが、私たちの心は眠りこけていて、そのことを知らず、ただ煩悩を除くことだけで、それが最上の悟りだと思い込んでおりました。

今、ここに、お釈迦さまは私どもの目をさまさせてくださいました。と心からお礼を申し上げるのでした・・・。

 

授学無学人記品 第九(法華経のあらまし)

この品は、前品の『五百弟子受記品 第八』で 五百人を受記(仏に成れる保証)されましたが、さらに、『授学無学人記品第九』では、阿難(アナン)羅ご羅(ラゴラ)を始めとする授学無学人の二千人を受記されます。

さて、この阿難と羅ご羅ですが、ブッダ十大弟子でありながら、一番最後に受記されました。
どうしてかと言うと、この2人、実は、お釈迦様の従弟と実子(長男)で、いかに身内の者を教化することが難しいかということと、お釈迦様の身内に生まれたことの強い因縁があったと言われています。

阿難は、「多聞第一」といわれ、当時、いまでは考えられないほどの男尊女卑の時代に比丘尼教団を作ってしまった人です。どうしてかと言うと、女の人が沢山慕ってくるほどの美男子だったようです。

羅ご羅は、「密行第一」といわれ、人の見ていないところでも常に慈悲のある正しい行いをし、また、高い境地にいながらも、決してそれを表に出すことなく陰徳を積んだとされています。

そして、この2人の受記が終わると他の授学無学の二千人を受記されます。
ちなみに、ここでいう無学とは、学が無いという意味でなく、もう学ぶことが無いと言う意味です。
で、結局この品は、方便品 第二から始まった受記がすべて完了したと言うことでしょうか・・・、ブッダ教団は皆、菩薩になりました。

 

法師品 第十(法華経のあらまし)

ほとんどの弟子を受記されたお釈迦さまは、今度は薬王菩薩をはじめとする八万の菩薩に告げ始めました。

「法華経の一偈ー句を聞いて、一瞬の間でも有りがたいと思う者があれば、その人に悟りを得る保証を与えましょう。」「法華経の一偈ー句でも受持・読・誦・解説・書写し(五種法師)、感謝を捧げる人が、仏になれる人であると答えましょう」

そして、すべての教えの中で『法華経』が第一であると宣言されました。

また、お釈迦さまは、『法華経』を説くときに、「如来の室に入り、如来の衣を着、如来の座に坐して説くのです。如来の室とは大慈悲心です。如来の衣とは柔和忍辱の心です。如来の座とは一切は空であり、すべての人間は平等に生かされているという、根本真理です。この大慈悲心と、柔和忍辱の心と、平等心を胸にしっかりと持ちつづけて、広くこの経を説きなさい」と教えられました。

 

見宝塔品 第十一(法華経のあらまし)

序品第一から前回の法師品第十までは、第一幕で、この品から、第二幕の始まりになります。
第一幕の舞台は、王舎城(おうしゃじょう)の霊鷲山(りょうじゅうせん)でしたが、この第二幕からは、霊鷲山の上空にいきなりなってしまいます。

どういうことかと言うと、大地から東京タワーのような塔がいきなり湧き出して来て、中から『お釈迦さまの説く法華経は、すべて真実です』という大きな声が聞こえてきました。

不思議に思った大楽説菩薩は、お釈迦さまに、中には何方がいるのですかとお尋ねすると、『如来の全身である多宝如来です』とお答えになりました。

そして、多宝如来が塔の中にお釈迦さまを招き入れ、一つの椅子に2人並んでお座りになりました。すると弟子達もその近くまで行きたいと思うと同時に、それを察知したお釈迦さまが、神通力で弟子達を虚空(上空)へ引き上げられました。

と、こんな感じで大スペクタルが展開していきます。これから先は、とうぶん虚空が舞台になります。
で、結局、この品はどういうことかと言うと、大地が人の比喩で、塔が仏性の比喩で、多宝如来が真理の比喩で、要は、法華経を授受すると、人は皆、本来持っている仏性が塔のように現れ、その中に真理が宿っている・・・。ということらしい・・・.。

そして、お釈迦さまがお説きになった法華経が、多宝如来によって真理であると証明されました。しかし、根拠がイマイチ謎ですが・・・。

 

堤婆達多品 第十二(法華経のあらまし)

法華経は、正しい行いをしていけば、すべての人が幸せ(成仏)になれるという教えです。
すべての人ですから、当然、悪い人も女の人も正しい行いをしていけば、成仏できるわけです。
なぜ、悪人と女性を同等に扱っているかと言うと、『提婆達多品第十二』のテーマが『悪人成仏 & 女人成仏』なのです。
悪人成仏は、極悪人である提婆達多が主人公で語られ、女人成仏は、8才の竜女が主人公で語られます。

悪人成仏

お釈迦さまは、前世において、阿私陀(あしだ)と言う仙人に法華経を教わったとお話しになりました。
その阿私陀は、現世において、お釈迦さまの命を狙ったり、いろいろ悪いことした提婆達多のことだと明らかにされました。
しかし、その提婆達多も長い間修行をすれば、仏の悟りを得られるでしょう、と授記されました。
そして、お釈迦さまも極悪人の提婆達多が、実は『善知識』だったお蔭様で成仏できたとお明かしになりました。
生きていくうちには、良い縁ばかりではありません。そう、もちろん悪い縁(逆縁)もあります。本品は、如何に逆縁に遭遇したときに、それを人間的成長の糧として消化していくことの大切さを教えてくださっています。

 

女人成仏

文殊菩薩から教化された竜女が、即座に悟りを得ますが、舎利弗はそんなことがあるはず無いと信じません・・・、でも結果的には信じざるをえなくなります。
しかし、竜女はそのままでは、成仏出来ず、男性に変身して成仏するのです。法華経では、『変成男子』とあります。また、梵本では、『女性の生殖器が消え、男性の生殖器が生じる』とあるそうです。
なんで、女性のまま成仏ができないのか・・・謎だ。ブッダの時代は、よほど女性の地位が低い時代だったのかなぁ・・・。
とにかく、ブッダの時代は、女性のまま成仏するなど、とんでもないと思われていた時代だったようです。現代でもまだ、なごりはありますよね・・・。
そして、すべての人を平等に救う教えの法華経だからこそ、女性までもが成仏できるというのはごく当然のことなのです。どんなに女性蔑視の時代にも・・・。つまり、法華経こそが、女性の味方の経典なのです。(ここにもってこれて良かった・・・。)

 

勧持品 第十三(法華経のあらまし)

この品には、いかなる困難にも耐えて忍んで、『法華経』を勧め、受持することが述べられています。

はじめに、お釈迦さまへ薬王菩薩と大楽説菩薩をはじめ、先に授記された8千人の比丘たちが、お釈迦さまが入滅されても、この『法華経』を受持し、学び、人々のために説き広めましょうと申し述べました。

つぎに、お釈迦さまは、突然ですが、叔母(摩訶波闍波提比丘尼)と妻(耶輸陀羅比丘尼)を授記します。先に堤婆達多品で竜女を授記していますが、これは、身近な者や教養の高い人ほど『法華経』を受持するのが難しいことを表しています。

で、この品のポイントですが、法華経が、正しいがゆえに迫害や謗り辱めを受けやすく、それを忍辱の鎧を着て忍び、この教えを説き広めるという一大事のために、あらゆる困難に耐えましょう。ということらしい・・・。

 

安楽行品 第十四(法華経のあらまし)

この品は、文殊菩薩がお釈迦さまへ末法の世で法華経を護持し、説き広める心がけをおたずねになりました。
するとお釈迦さまは、自分の行いと人々との交際についての心構え(身安楽行)、ことばについての戒め(口安楽行)、心の持ち方についての戒め(意安楽行)、理想の実現に対する努力のしかた(誓願安楽行)、の四つの心がけを教えられます。
そして、髪中の譬えで法華経がどんなにすぐれた教えであるのかを力説し、四安楽行を完全に行って、この教えを広める者の功徳について以下のようにお説きになりました。

  • 一切心配事がなくなる。
  • 一切苦痛がなくなる。
  • 徳が自然と顔に現れて、人相がよくなる。
  • 生活にこまることがなくなる。
  • 大勢の人から崇め慕われる。
  • 神からも守護される。
  • いつでも、どこでも、だれにでも、心が自在になれる。
  • 大きな智慧であらゆる迷いの暗黒を打ち破ってしまうでしょう。

上記のことは、当然、四つの心がけある以下の四安楽行を実践できている人が対象です。

身安楽行

いつも柔和忍辱をたもち、権力や邪法や勝負事には近寄らず、性的なことには最善の注意を払う、などなど。

口安楽行

悪口や見下すような言葉、批判、また、あの人は好きだとか嫌いだとか、などなど。

意安楽行

嫉妬の心を持たないようにしたり、人を軽んじたり、失望させたり、えこひいきなどをしない、などなど。

誓願安楽行

すべての人をこの法華経によって幸せにしたいと誓願すること、などなど。
そして、次の従地涌出品第十五から如来寿量品第十六で法華経の神髄が述べられます。ご期待ください!

 

従地涌出品 第十五(法華経のあらまし)

他の世界からやって来た菩薩達が、仏の滅後に娑婆世界にとどまって、この教えを説き広めたいと表明します。


しかし、お釈迦さま、そのお申し出を次のようにお断りになりました。
 

「尊き志をもつ菩薩達よ。その必要はないのです。なぜなら娑婆世界には、あなた方の数をはるかに凌ぐ六萬恒河沙の菩薩がおり、その一人一人の菩薩にも六萬恒河沙の眷族がおり、彼らこそがこの地において法華経を護り、教えを広める使命を持つからなのです。」


この言葉が終わるやいなや大地は激しく振動して裂け、そこから計り知れない数の菩薩達が現れました。その姿はみなお釈迦さまと同様に三十二相という尊い人相をそなえ、全身は金色に輝き、光を放っていました。


この菩薩たちは、娑婆世界の下の虚空に住んでいたのですが、お釈迦さまのお説になったお言葉に応じて大地から湧き出してみもとに参ったのです。
 

その中に四人の大導師がおられました。その名を上行(じょうぎょう)菩薩・無辺行(むへんぎょう)菩薩・浄行(じょうぎょう)菩薩・安立行(あんりゅうぎょう)菩薩といいました。(四弘誓願を参照のこと)


で、この光景をみていた古参の弥勒菩薩等は、どうも納得がいきません。お釈迦さまは、どうやって短い間にこれだけの沢山の菩薩達を教化されたのか・・・。


と云う感じで、その疑問は、そのまま法華経の神髄を解き明かすキーワードとして、「如来寿量品 第十六」へ引き続くことになります・・・。

 

如来寿量品 第十六(法華経のあらまし)

従地涌出品での疑問:『お釈迦さまは、どうやって短い間にこれだけの沢山の菩薩達を教化されたのか?』
答えのポイントは、輪廻です。答えは、良医の譬えの解説を参照願います。

そう、『すべての人の魂は、永遠の命で、何度も何度も生まれ変わっては、良因を積むことにより、その縁起で仏になっていくことができる。』

これが、法華経を毎日読誦して感じた、今のレベルでの私の法華経感です。
とにかく、仏は『永遠の命』こと『仏寿無量』で、これを信じきることが出来るか出来ないかが、法華経を理解するキーになるようです。

 

分別功徳品 第十七(法華経のあらまし)

この17番から28番までが、流通分と云われ、法華経を実践すれば、大変素晴らしい功徳のあることが説かれています。


この分別功徳品では、とにかく『仏寿無量(永遠の命)』を信解すれば、ものすごく大きな功徳があると説かれています。


たとえば、以下の感じです。
80万億那由他劫という長い長い間、五波羅蜜(六波羅蜜から智慧を除く)を行じてえる功徳は、大変なものですが、しかしそれでも、『仏寿無量』をほんの一念にでも信解することよって得られる功徳とくらべると、その百千万億分一にも及ばないそうです。つまり、『仏寿無量』の信解の方が百千万億倍も功徳があるのです。


ホントかよって感じですが、もしホントなら、『仏寿無量』『仏寿無量』『仏寿無量』・・・。

 

随喜功徳品 第十八(法華経のあらまし)

この品も分別功徳品と同じく、法華経には、ものすごく大きな功徳のあることが説かれています。


たとえば、法華経の伝言ゲームで、50番目の人が一偈でも信解したならば、その功徳は、宇宙のあらゆる生あるものに物質的&精神的に布施した功徳より大きいと・・・。
 

また、ホントかよって感じですが、『仏寿無量』『仏寿無量』『仏寿無量』・・・。
信じることから始まるらしい・・・。

 

法師功徳品 第十九(法華経のあらまし)

この品も分別功徳品と同じく、法華経には、ものすごく大きな功徳のあることが説かれています。


もし信仰心の深い男女が、法華経を信じ、読誦し、解説し、書写したとしましょう。その人は、以下のような功徳を得ることが出来るのです。


  • 『八百の眼の功徳』
  • 『千二百の耳の功徳』
  • 『八百の鼻の功徳』
  • 『千二百の舌の功徳』
  • 『八百の身の功徳』
  • 『千二百の意の功徳』


その功徳をもって、すべての感覚・知覚器官の作用を美しく。清らかなものにするでありましょう・・・と。


またまた、ホントかよって感じですが、『仏寿無量』『仏寿無量』『仏寿無量』・・・。
信じることから始まるらしい・・・。

 

常不軽菩薩品 第二十(法華経のあらまし)

仏の教えが形式化、そして、形骸化された時代に一人の菩薩がいました。その菩薩は、会う人ごとに、会う人ごとに、『私は、あなたを敬います。けっして軽んじません。なぜなら、あなたは、必ず仏になられる方であるからです。』と言って賛嘆するのでした。


ところが、大勢の中にはそんなことを言われて腹を立て、石や瓦を投げつける者がいました。
すると、菩薩は走って逃げ、遠くのほうからまた同じセリフ『私は、あなたを敬います。けっして軽んじません。なぜなら、あなたは、必ず仏になられる方であるからです。』と、大声で唱えるのでした。


そして、菩薩は一生の間、この行を続けたのです。すると、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)が清浄となって、虚空の中からひびいてくる声を聞くように法華経を自得したのです。
すると、寿命が2百万億那由他歳になり、広く人々のためにその法華経の教えを説きました。
 

で、解説です。この常不軽菩薩品では以下の3つがポイントです。


  • 真心から行じた、ただ一つの礼拝行だけでも実に尊いことで、それが救いの道に入る第一歩になる。
  • 逆に言うと、形式だけをいかに多く行じても真心から行じないと無価値である。
  • 仏性を礼拝することは、あらゆる人間の中にある仏性を認めることである。


あぁ、雨にも負けず風にも負けず、私は、常不軽菩薩でありたい・・・。

 

如来神力品 第二十一(法華経のあらまし)

この神力品は、法華経の総まとめの品と云われています。しかし、普通に(浅く)読むと、とてもそうとは思えません。舌を出したり、光を出したり、咳をしたり、指パッチをしたり・・・とか、そのどこが、神力なのだと思うわけです。また、仏なら神力でなくて仏力だろ・・・とか。だけど、それには、以下の意味があるらしい。

しかし、その前に復習です。法華経は、前半が『方便品』を中心とした智慧の教え(迹門の教え)で、後半は『寿量品』を中心とした慈悲の教え(本門の教え)です。これは、前半(迹門)と後半(本門)が別々のように思えてしまいますが・・・、実は・・・。

  • 『舌を出したり』とは、インドでは、自分の言ったことは真実であると云うことで、迹門を信じても、本門を信じても、実は一つなのだという象徴。(出広長舌)
  • 『光を出したり』とは、迷いの闇を打ち破ることで、迹門の原理も、本門の原理も、実は一つなのだという象徴。(毛孔放光)
  • 『咳をしたり』とは、声を出し教えを説く象徴のことで、迹門の教えも、本門の教えも、実は一つなのだという象徴。(一時謦がい)
  • 『指パッチをしたり』とは、インドでは承知しましたと云う事で、迹門の教えを広めることを承知した人も、本門の教えを広めることを承知した人も、実は一つなのだという象徴。(倶共弾指)

このように如来(釈尊と菩薩)が『一時謦がい』『倶共弾指』をしたら以下のようなことが起こりました。

  • 天地のあらゆるもの心が感動した。(六種地動)
  • 普くすべてのものがこの大会を見ることができた。(普見大会)
  • 諸天善神が法華経を説いた釈尊を供養すべしと空中から唱声した。(空中唱声)
  • 空中唱声を聞いて、必ずすべての人が釈尊に帰命する。(感皆帰命)
  • 花、香、瓔珞等が美しい帳に変じて如来の上に覆った。(遥散諸物)
  • すると、宇宙空間(十方世界)が一つの仏土になった。(通一仏土)

そして、この

  1. 出広長舌
  2. 毛孔放光
  3. 一時謦がい
  4. 倶共弾指
  5. 六種地動
  6. 普見大会
  7. 空中唱声
  8. 感皆帰命
  9. 遥散諸物
  10. 通一仏土


これが、『如来の十大神力』と云われています。

そして、この『如来の十大神力』を踏まえ、法華経の総まとめの句がつぎに示されます。
 

『如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘蔵の蔵・如来の一切の甚深の事・皆此の経に於て宣示顕説す。』

とにかく、如来の一切の『正法』『衆生救済力』『秘密の教え』『修行の実践方法』が、すべてこの法華経に注ぎ込んでいると宣言しているのです・・・。あぁ、なんて有り難い、合掌。

 

嘱累品 第二十二(法華経のあらまし)

釈尊は、法座より起き上がり、菩薩達の頭を撫ぜながら、この法華経の広宣流布を託します。と述べられ、とりあえず、この品で法華経は、ひとまず終わりを迎えます。

では、後の薬王菩薩本事品から普賢菩薩勧発品までは、何かというと、
一編一編が一つの短編ストーリーになっていて法華経実践の大切さを説いています。まぁ、法華経の駄目押しですかね・・・。 

 

薬王菩薩本事品 第二十三(法華経のあらまし)

薬王菩薩の沢山の前世のお話で、体を燃やしたり、両腕を燃やしたりして仏を供養したお話です・・・。

・・・その時、宿王華菩薩が釈尊におたずねになりました。
『薬王菩薩というお方は、どのようにして、大変素晴らしい働きがおできになるようになったのでしょうか・・・・・・そのことを知ったら、みんな歓喜することでございましょう!』
その問いにたいして釈尊は、次のようにお答えになりました。
『遠い遠い昔、日月淨明徳如来という仏さまがいました。仏さまは、一切衆生憙見菩薩をはじめとするもろもろの菩薩、声聞に法華経の教えをお説きになりました。』
『すると一切衆生憙見菩薩は、法華経を1万2千年の間、一心に修行して、高い境地に達し、大いに歓喜し、仏恩にお報いする大きな力を得て、一切衆生を救いたいと思い、日月淨明徳如来と法華経を供養するため、自分自身に火をつけ、80億恒河沙の広い世界の普く闇を照らし出したのです。』
『燃え尽きて、一度亡くなった一切衆生憙見菩薩ですが、再度、生まれてきて、今度は、両腕を燃やして供養しました・・・とさ・・・。』
『さて、あなたは、どう思いますか。この一切衆生憙見菩薩は、ほかでもありません、今の薬王菩薩の前身なのです・・・』
ここで解説です。
とにかく、法華経の実践には、いろいろありますが、中でも身の布施が一番尊いということの本事です。
ちなみに、本事とは、仏弟子が前世に行った事のストーリーです。
そして、釈尊は宿王華菩薩へ法華経の実践の功徳を『十二論の利益』の譬えにしておおせになりました。

1、池の清らかな水を飲んで、喉の渇いた者が満足するように。
2、寒さに震えていた人が、暖かい火を得て生き返ったように。
3、裸の人が、着物をえたるがように。
4、商人が、主のものをえたるがように。
5、子が、母をえたるがように。
6、渡りに、船をえたるがように。
7、病に、良い医者をえたるがように。
8、暗に、灯火をえたるがように。
9、貧乏に、宝をえたるがように。
10、民に、王をえたるがように。
11、貿易者に、平穏な海路をえたるがように。
12、たいまつの灯かりが、暗を除くように。

とにかく、法華経を実践すると、何かと、事(お手配)がスムーズに行くのですよ・・・いや、ホントに不思議や!
そうそう、この品には、念仏で有名な阿弥陀仏が登場します。
『仏滅後、5百歳の中の世に、もし女人があってこの経典を聞いて修行したならば、その世の生を終えた後、阿弥陀仏のいる安楽世界の蓮華の寶座の上に生まれ変わるでしょう!』
なぜ、女人なのかは、謎ですが・・・。
 
 

妙音菩薩品 第二十四(法華経のあらまし)

理想の世界からやって来た妙音菩薩のお話です・・・。
・・・釈尊は、突然、眉間から光を出し、宇宙のあらゆる世界を照らしました。
すると、淨光荘厳という理想の世界いる三昧神通力を具えられた妙音菩薩がそれを察知し、この光から、非常に徳の高い方と分かりましたので、娑婆という現実の世界へ、釈尊(仏)と法華経(法)と菩薩達(僧)を供養しにやって来たのでした。
妙音菩薩は、過去世に一万2千年間、美しい音楽(プラス言葉で仏を称える)を奏し、8万4千の数(経典数)の七宝の鉢をささげ、仏を供養しました。
その結果、淨光荘厳という理想世界に生まれ変わり、三昧神通力と三十四身を得たのです。
ここで解説です。
理想世界は、もちろん尊いものですが、あくまでも頭の中で考えられている間は、その価値が生きてきません。それを現実世界の生活の中に一つ一つ実現していくことにこそ、本当の価値がいきてくるのです。
そして、つまるところ、この品は、理想世界の代表である妙音菩薩が、現実世界での理想世界具現者:釈尊を讃嘆しているのです。

    理想は、それを一歩ずつでも現実化してこそ尊いのである。

ちなみに、妙音菩薩は身長が4万2千由旬です。これをキロメートルにすると・・・。・・・一由旬が約四十里で、一里が約3.9キロメートル、よって、42000*40*3.9 = 6552000で6百55万2千キロメートルもあります。驚きです。

妙音菩薩の三十四身
妙音菩薩は三十四身で自由自在に法を説きました。
01.梵王/ 02.帝釈/ 03.自在天/ 04.大自在天/ 05.天大将軍/ 06毘沙門天/ 07.転輪聖王/ 08.諸の小王/ 09.長者/ 10.居士/ 11.宰官/ 12.婆羅門/ 13.比丘/ 14.比丘尼/ 15.優婆寒/ 16.優婆夷/ 17.長者の婦女/ 18.居士の婦女/ 19.宰官の婦女/ 20.婆羅門の婦女/ 21.童男/ 22.童女/ 23.天/ 24.龍/ 25.夜叉/ 26.乾闥婆/ 27.阿修羅/ 28.迦楼羅/ 29.緊那羅/ 30.摩羅伽/ 31.人/ 32.非人/ 33.苦難にあえぐ人 34.後宮の女身
 
 

観世音菩薩普門品 第二十五(法華経のあらまし)

観世音菩薩を念じれば、なんでも叶う・・・、実は、観世音菩薩みたいになりましょうということらしい・・・。
・・・南無観世音菩薩を唱えれば、三毒(貪(欲張り)・瞋(我による怒り)・痴(目先の愚かさ))、四苦(生・老・病・死)、七難(火難・水難・風難・剣難・鬼難・獄難・盗難)を滅し、さらに願う通りの子を得ることができるという・・・。
しかし、こんな拝み信仰じゃ、いままで序品から説かれていた法華経は、なんだったのかということになりますね。これらの観音力は、確かにこの品に書かれています。でも、浅い理解なのです。
本当は、無尽意菩薩が偉大な救済力(観音力)をもつ観世音菩薩を供養しようとして、瓔珞(首飾り)をさしあげましたが、しかし、受けとっても、首にかけず、それを2つにして、釈尊と多宝如来に捧げました。これは、偉大な救済力である観音力の元は、真理を教えられた釈尊と、その真理を証明された多宝如来のおかげであるということの表明なのです。
つまり、救いの本質は、ある外側の力によって目の前の苦難から逃れることではなく、久遠実成の本仏のみ心に沿い、そこに周囲との調和がうまれ、みんなが救われることにあるのです。
また、観世音菩薩普門品の観世音とは、世の人々の声(音)を見(観)分けることで、菩薩とは、手本として仰ぐべき方で、普門とは、相手に応じていろいろ姿(三十六身)をかえて、平等に真理の門に引き入れることです。
とにかく、観世音菩薩を念じれば、なんでも叶う・・・ではなく、真に観世音菩薩を念じるとは、慈悲をもって苦しみあえぐ人の声(世音)を感知し聞き入れ(観)、観世音菩薩のようになりましょうということです。

観世音菩薩の三十六身
ちなみに、妙音菩薩は三十四身でしたが、観世音菩薩は三十六身で自由自在に法を説きました。数はあまり気にしなくてよく、とにかく、いろいろな人を救うために身を現じて法を説く、ということです。
01.仏身/ 02.辟支仏/ 03.声聞/ 04.梵王/ 05.帝釈/ 06.自在天/ 07.大自在天/ 08.天大将軍/ 09毘沙門天/ 10.転輪聖王/ 11.小王/ 12.長者/ 13.居士/ 14.宰官/ 15.婆羅門/ 16.比丘/ 17.比丘尼/ 18.優婆寒/ 19.優婆夷/ 20.長者の婦女/ 21.居士の婦女/ 22.宰官の婦女/ 23.婆羅門の婦女/ 24.童男/ 25.童女/ 26.天/ 27.龍/ 28.夜叉/ 29.乾闥婆/ 30.阿修羅/ 31.迦楼羅/ 32.緊那羅/ 33.摩羅伽/ 34.人/ 35.非人/ 36.執金剛神

陀羅尼品 第二十六(法華経のあらまし)

薬王菩薩、勇施菩薩、毘沙門天王、持国天王、十羅刹女等が法華経の説法者を守護するため呪文(神呪、陀羅尼)を唱えました。

『あに まに まね ままね しれ しゃりて しゃみや しゃびたい せんて もくて もくたび しゃび あいしゃび そうび しゃび・・・・・・』


この神呪は、神々の名もしくはその異称の呼びかけであるということです。また、神呪を唱えることにより、善をよく身にたもち、悪をおしとどめて、発しせしめない・・・とのことです。
ではなぜ、法華経説法者の守護が必要なのかというと、法華経は真の善の教えなので、悪の教えや、見かけ上は善の教えの勢力などから迫害を受けやすいとのことです。
そして、神呪に守られた法華経説法者に、迫害をくわえることは、神々に迫害を加えるのと同じで・・・後は推して知るべし・・・です。
ちなにみ、毘沙門天王、持国天王は、他教(バラモン教)の神々で、羅刹女とは、鬼女のことです。つまり、他教の神々や鬼女までもが、法華経説法者の守護を願って、神呪を唱えてくれたのです。
これは、法華経の教えが、万教をも包容し、また、鬼女たちをも平等に成仏させる力をもっていることの証しです。
また、鬼女の中に鬼子母もいました。これは、法華経の主な登場人物の鬼子母と十羅刹女を参照願います。(しかし、鬼子母と十羅刹女・・・・・・どんなにやさしい女の人でも、たまに垣間見る性質のような気がします。やばい書いてしまった・・・)
とにかく、陀羅尼(ダラニ)は、法華経説法者からみれば、いろいろ守護してくれる有り難い神呪なのです。合掌。
 
 

妙荘巌王本事品 第二十七(法華経のあらまし)

薬王菩薩と薬上菩薩の前世のお話で、王様の父を教化するお話です・・・。
・・・そのとき釈尊は、もろもろの大衆に薬王菩薩と薬上菩薩の前世のお話を語り始めました。


はるかはるかな遠い大昔に、雲雷音宿王華如来という仏さまと妙荘巌王という王さまがいました。
王さまの夫人は、淨徳と言い、また、淨蔵(前世の薬王)と淨眼(前世の薬上)と言う2人の王子がいました。
淨蔵と淨眼は、六波羅蜜を行じ、仏教を信仰しておりました。
しかし、王さまの父は、邪教を信仰しており、2人はなんとか正しい教えの仏教へ改宗してもらいたいと思っていました。
そこで、2人は母に相談しました。すると母は、父へびっくりするような信仰の証しの奇跡をみせれば、改宗できるでしょうとアドバイスをされました。
2人は母のアドバイス通りにいろいろな奇跡を父の前で演じ、父の妙荘巌王を改宗させました、とさ・・・。


で、本品のポイントは、身近な家族の教化の難しさと、指導的立場の人(王様等)の教化の難しさで、それらの人を教化するには、法華経を頭で理解してもらうだけでなく、自ら身を持って示さなければならないということです。
ちなみに、妙荘巌王本事品(みょうそうごんのう ほんじほん)の本事とは、仏弟子が前世に行った事のストーリーです。

 

普賢菩薩勧発品 第二十八(法華経のあらまし)

最後の最後に大菩薩団を引き連れて娑婆世界に釈尊の説法を聞きに来た大物菩薩の普賢菩薩と釈尊(お釈迦さま)の問答です。
はじめに、普賢菩薩はお釈迦さま(釈尊)へ『仏滅後、どうしたら法華経の真の功徳を得ることができるのでしょうか』とお尋ねになりました。
すると、お釈迦さまは普賢菩薩へ、以下の『四法成就』、を実践すれば、真の功徳を得ることができましょう・・・と、お答えになりました。


  1. 諸仏に護念されているという絶対の信念を持つこと。(仏さまを信じきる)
  2. もろもろの徳の本(もと)を身に植えること。(いつも善い行いを心がける)
  3. 正しい教えを実践する人々の仲間にはいること。(正しい信仰者の仲間に入る)
  4. 一切衆生を救おうという心を起こすこと。(いつも人のために尽くす)

 

 それをうかがった普賢菩薩は、感激して次のように申し上げました、
『法華経行者がどこにいても、六牙(六波羅蜜の象徴)の白象王(実践の象徴)にのって応援し守護したいと思います!』
と、お釈迦さまの許可をえて、法華経行者を守護するために陀羅尼(神呪)を説きました。
 

『あたんだい たんだはだい たんだはて たんだくしゃれ たんだしゅだれ しゅだれ しゅだれはち ぼっだはせんね さるばだらに・・・・・・』

 

お釈迦さまは、満足そうにうなずかれ、今度は具体的な功徳についてのべられました。

  • 世俗的な楽しみを貪ったり、とらわれたりすることがなくなる。
  • 仏教以外の教えや本に、はまりこんでしまうことがなくなる。
  • また、その著者や悪人に心を奪われることがなくなる。
  • 肉屋、猟師、女色系の職業に、親しく近づくことがなくなる。
  • この人は、心が素直で、ものの考え方が常に真理に一致していて、福の徳で人を幸せにすることができる。
  • 貪(欲張り)・瞋(我による怒り)・痴(目先の愚かさ)の三毒に悩まされることが無い。
  • また、嫉妬・我慢・邪慢・増上慢に悩まされることが無い。
  • 少欲知足で普賢菩薩のように法華経の教えを行じられる。

そして、この普賢菩薩勧発品の説法を聞いた無数の菩薩は、百千万億人に展転する善をすすめ悪をとどめる大きな教化の力を得て、普賢菩薩とおなじような、徹底した実践力を身に具えることができました。
このようにして、ここに法華経のすべての教えを聞き終えた、普賢等の諸々の菩薩、舎利弗等の諸々の声聞、及び諸々の一切のギャラリーは歓喜し、仏語を受持し、お釈迦さまを礼拝し、去っていきました。
ちなみに、普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつ かんぼっぽん)の勧発とは、元気づけとか励ましという意味です。
 
 

法華経の神髄

法華経をいろいろ勉強してまいりましたが、おぼろげながら、その神髄が見えてきました。

それは、ズバリ! 『因縁果報(縁起)』と『正しい生活』です。

要は、正しい生活をして(因)、良い(縁)が沢山出来、人生苦が消滅(果)して、幸せ(報)なる。

そして、正しいとは、真理(法)にそった、とういうことです。

人は、良因を積むことで、宇宙の調和と共振し、いつでもどこにでも、法身の釈迦を見ること、感じることが出来るようになる。

すべての人の魂は、永遠の命で、何度も何度も生まれ変わっては、良因を積むことにより、その縁起で仏になっていくことができる。

つまり、仏になっていくこと、言い換えれば法華経の実践こそが、宇宙の調和であり、世界平和実現の礎になる。とまぁ、法華経の神髄とは、こんなところですか、たぶん。