お釈迦さまは、自分を何度も殺そうとした提婆達多(だいばだった)を憎まず、逆によき友(善智識)とおしゃっていました。
これは、自分にとって、いやな人、いやなことが、実は自分を成長させていただけるチャンスなのだという教えなのです。
このように人生は、いいことも、いくないことも、すべて自分を生かすことだと自覚ができれば、すでにもう幸せなのです。お釈迦さまは、自分を何度も殺そうとした提婆達多(だいばだった)を憎まず、逆によき友(善智識)とおしゃっていました。
これは、自分にとって、いやな人、いやなことが、実は自分を成長させていただけるチャンスなのだという教えなのです。
このように人生は、いいことも、いくないことも、すべて自分を生かすことだと自覚ができれば、すでにもう幸せなのです。このブログの常連さんは、もうお分かりだと思いますが、私はRKK教団のダメダメ信者です。
この教団の経典は、「法華経」です。
「法華経」は、実は、難信難解です。
その難信難解の「法華経」のエッセンスを以下の「3つの心構え」と「3つの実践」で分かりやすく一般人までに落としてくれたのが某教団の方々なのです。
特に「3つの実践」は、現会長先生が自ら3年間毎日実践し、これこそ現代の法華経実践とだ確信したものだそうです。
私も同感だと思うこの頃です(^o^)
昔、旧燈明日記で引用したんだけど、今、引用先がわからない…、良いメッセージなので、また引用しときます(^^;
幸せというのはどこかにあるものを追い求めて得られるのでなく、いま自分がいるその場所で見つけ出すもの、気づくものです。
問題を否定したり、直そうとするのではなく、そのままを喜ぶこと、それが「本質的な救われ」です。
何も変わったことがないのが功徳である場合が多いのです。その功徳を感じとるのが、真の信仰者というものです。
仕事での一日3回の警備巡回も、何もないことは、まさに功徳です(^o^)
仕事をちゃんとしてんのかって、声が聞こえて来ましたが・・・
仏教の基本は「世の中のすべてのものごとは、『因』と『縁』の出合いによって存在する」という縁起の教えです。
法華経は、これを一歩進めて「常にまわりの人をよい因・よい縁と見る」という「善因善果」で、すべての人が百パーセント救われるという縁起観なのです。
「法華経ですべての人が百パーセント救われる」というのは、出合うことすべてを幸せの因と見ることで、人は皆幸せになるために生まれてきていると信じること。
「〜信じること。」って、あんた・・・(^^;;
どの宗教も、幸せになることが目的の一つだと思います。
しかし、宗教がもとで争いが起こることもありますね。
争いの宗教は、『感情の宗教』なのです。
『感情の宗教』には、2つの欠陥があります。
それは、感情である『これは好き』、『これは嫌い』、という2つの欠陥です。
では、『理性の宗教』とは、どういうものでしょうか?
ハイ、それは、仏教です。
仏教は、感情的にこれを拝めとか信ぜよとか教えられたものではありません。
仏教は、因果の法則を説かれたもので、誰でも理性で理解ができるものなのです。
そう、仏教は
です!
しかし、一神教は争いばかりですね…
一神教の各々が、それぞれ絶対的に正しいと思っているから他を許せず争いになる。
世界を救えるのは、やはり、仏教しかないですね…(^o^)
人には、相性というものがあります。
普通、結婚は相性の良い人とするものです。
しかし、実際は、相性が良いと単に勘違いした、あるいは、騙されたケースが多いようですね。
ですので、結婚生活をつづけていると、『無性に腹が立つ』ことがありますね(たぶん相手も同様でしょう・・・)。
これは、感情なので理性では、なかなか抑えきれません。
しかし、そこをなんとか乗り越えるところが、宗教を行ずる信仰者ではないでしょうか・・・。
法華経では、お釈迦様が、自分を何度も殺そうとしたダイバダッタでさえも、良い友達としているのです。
逆にいうと、自分にとって都合が悪い相手ほど自分を成長させてくださる有り難い友としてみるのが仏教(法華経)なのですね。
ちなみに、『無性に腹が立つ』の無性は、仏性がない状態のことらしい。
仏性のないもの。悟りを開く素質のないもの
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%84%A1%E6%80%A7_%28%E3%82%80%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%29/
すべての人には仏性があるはずなのに、「怒り」や「絶望」は仏性を覆い隠すのですね。
だから、逆の「喜び」や「希望」をいつでももてる自分になりたいですね!
今年も、早いもので、もう12月ですね。
今日は、とあるところで、法話を聞いて来ました。
その法話で、心に残ったものがありました。
それと同じものが、ネットにありましたので、引用しときます。
信仰は お豆腐のようになることです。
豆腐は煮られてもよし
焼かれてもよし 揚げられてもよし
生で冷奴で ご飯の菜によし
湯豆腐で一杯 酒のさかなによし
柔らかくて 老人 病人の お気に入り
子供や 若い者からも 好かれる
男によし 女によし
貧乏人によし 金持ちによし
平民的であって 気品もあり
上流へも好かれる
行儀よく切って 吸い物となり
精進料理によし
握りつぶして味噌汁の身となり
家庭料理に向く
四時 春夏秋冬 いつでも使われ
安価であって ご馳走の一つに数えられ
山間に都会に…….何処でも歓迎せられる
::
味がないようで 味があり
平凡に見えて 非凡。
https://woo-site.com/article300/2/
煮られてもよし、焼かれてもよし、揚げられてもよし、生でよし
味がないようで味があり、平凡に見えて非凡
私も、豆腐のようになりたい(^o^)
たとえば、よく仕事で厳しいことを言ってくる人がいます。
その人を「この人さえいなければ」と否定的に見るか、「苦言は、足りない私を向上させるため」と肯定的みるか、またまた「器を大きくさせていただける、ありがたいご縁」と感謝の心で見るかによって、出会いは大きく変化します。
つまり、「仕事で厳しいことを言ってくる人」という一つの現象に対して、以下の三つの見方があったわけです。
そして、否定的より肯定的、肯定的より感謝的に見ることにより、仕事スキルが上がり、精神的にも成長ができ、自分が変わり、自分が変われば世界が変わるのです。
また、「あいさつ」は人間関係を円滑にする基本の一つです。いまを大切に生きることで、未来が拓くのですから、どんな人にも変わることなく、あいさつをする。
相手を否定的に見ないで、こちらが一つのことを貫いていけば、人間関係は必ず変化していくのです。
どんな出会いも感謝的に受け取り、どんな人にもあいさつを貫いていけば、出会いが人生を変えるのです。たぶん。
最近、法華経ブログを再開し始めて、サボりにサボっていた法華経読誦も再開で…(^^;
「お経を読む」ということは、どういうことかというと・・・。まず、仏教とは、ずばり「因縁果報」の教えです。
平たく云うと、以下の2つです。
で、お経には、良いことが沢山書かれています。
読み始めのうちは、チンプンカンプンですが、毎日毎日読誦したり、ネットや本で分からない語句を調べたりして、徐々にお経の内容が理解でき、良いことが沢山書かれていると、わかるようになるのです。
つまり、「お経を読む」ということは、良いことが書かれているお経を読むわけですから、良いことなのです。
すると、良い縁にふれたときに、良い結果が出て、良い報いが来ることになるのです。
自分が生まれてきた命の尊さを考えてみました。
たとえば、過去10代のご先祖さま1024人の内、1人欠けても自分は存在していないです。
つまり、それだけ尊い命を私たちは生きているのです!
と思ったら、以下は超桁違いに、尊い命を私たちは生きているのですね!!
自分のいのちの尊さについて考えましたが、理屈理論で考えてみると、、、。
男性の精巣は一日に約3億5000万個の精子を作り出します。そして、10歳位から死ぬまで作られます。人生80歳と仮定すると、3億5000万(個)×365(日)×70(年)=8兆9425億(個)
女性の卵巣は1ヶ月に1個の卵子を作り出します。そして、10歳位から50歳位まで作られますので、1(個)×12(月)×40(年)=480(個)
精子×卵子=4292兆4千億(個)となります。私ひとりのいのちは、1/4,292,400,000,000,000の確立で頂いたいのちなのですね。これを貴重と言わずして何と言ったら良いのでしょうか?
(引用先リンクなくなる)
まぁ、法華経に出てくる数値レベルのとんでもない数値ですね(^^;;
何か事が起こると、「さあ大変だ」と言うのが口癖になっている人がいますが、私は逆に難問がくると「これは、おもしろくなってきたぞ」と自分に言い聞かせるのです。そこの紙一重の差が大事だとおもうのです。
さあ大変だと思うと腰が引けてしまいます。反対に、「ようし」と心に決めると、すぐ行動がおこせるのです。行動を起こせば、必ずどこかに道が開けてきます。
「仏教は苦滅の道」であると学んで、「どんな苦も救うことができる教えを見つけた」と、躍り上がらんばかりだった当時の感動です。
その苦滅の道のかなめは、自分に不利なこと、つまり逆縁をも仏さまのご功徳であり、善縁なのだと受け取れるようになることにあります。
法華経には五戒(ごかい)という言葉自体は具体的に登場しませんが、方便品第二に六波羅蜜が出てきます。この六波羅蜜は6通りの修行ことで、その2番目の修行に持戒が出てきます。その修行には、以下の5つあるという教えです。
1から3の「殺さない・盗まない・嘘つかない」は、まぁ当たり前すぎて、守ることすら意識しないでも大丈夫ですが・・・ 人によっては、嘘つきは結構いる感じですか・・・
問題は4と5の「酒飲まない・エロしない」は、これは守るのがすごく難しいですね。
お酒は、付き合いでどうしても飲んでしまうとか、特に夏場はビールがすごくおいしいですね。しかし、お酒が入ると、眠たくなったりして何も出来ず、その時間がいつももったいなく思います。
邪淫の本来の意味は、不倫など人の道をはずれた性行為のことですが、一般的には、エロなどのよこしまで、みだらなことです。私も若い時は結構エロ好きでしたが、もうすぐ70歳になる今は、全く無くなってしまいました(^^;;;
ということで、五戒を意識しなくてもできる自分になりたい…と思う今日この頃です。五戒ありを誤解なく言えたかな(^o^)
仏法では、誰もが否定できない「当たり前の事」を法(真理)といいます。
しかし、この「当たり前の事」を「当たり前に行う」ことが、実生活の上では凄く凄く難しいのです。
以前、こんな有り難いお話を聞かせて頂きました。
あるお寺に、お釈迦さまの教えを悟りきった凄く偉いお坊さんがいました。
ある仏教専門の偉い学者さんが、是非、教えを請いたいと遠い所からわざわざそのお寺へ訪ねてきました。
学者さんは、お坊さんに、お釈迦さまの難しい教えの真髄を教えて下さいとお願いしました。
すると、お坊さんは、お釈迦さまの教えは、難しくありません。3歳の子供でもすぐ理解ができます。といってお話しをはじめました。
お釈迦さまの教えは、『悪いことをしては、いけませんよ、良いことをしなさい。』これだけです。
それを聞いた学者さんは、わざわざ遠いところから、そんな「当たり前の事」を聞きに来たのではないと怒りはじめました。
それを見て、お坊さんは、『では、あなたは、その「当たり前の事」を実行することが出来ていますか・・・』
それを聞いて、我に帰った学者さんは、仏法を悟ったそうです・・・。
ちなみに、「法」とは、さんずいに去ると書きます。さんずいは、みなさんご存知の通り「水」です。そう、「法」とは、水が流れて去っていくというごく「当たり前の事」をいっている漢字だったのです。
今年2月に、次男夫婦に初のお孫ちゃんが産まれ、お孫ちゃんの安全と健康を祈るために法華経の読誦を、毎日することを決意し、しかし、サボり気味なり、そして今、法華経ブログ再開ということで、今のところ、毎日欠かさず、読誦させていただいています(^^;;
法華経の教えは、突き詰めると『因縁果報』という普遍の法則です。
『とある原因(因)』が『とある条件(縁)』にふれ『とある結果(果)』となり『とある報い(報)』が来る。
『とある結果』のところで、ネガティブな妄想が膨らみ、いろいろと苦しくなっている感じです。『とある結果』のところを変えようと思っても、その領域は、実は神や仏の領域で、自分ではどうすることもできません。自分でできるのは、『とある原因』のところなのです。
原因である自分を変えることしか出来ないのです。
自分にできることを精一杯させて頂くしかないのです。
ネガティブな妄想を捨て、今を精一杯生き抜くしかないのです。
さあ、サボらないで、法華経読誦、するぞ〜と誰にともなく・・・(^^;
法華経を読誦していると「不退転」とか「あびばっち」、「あゆいおっち」という単語が出てきます。
実はこの3つ、同じものなのです。
梵語の「アヴァイヴァルティカ」を音写したのが「あびばっち(阿び跋致)」で、不退転と漢訳されたものなのです。
また、阿惟越致(あゆいおっち)も阿び跋致(あびばっち)と同じものなのです。
尚、阿惟越致は13番16番、阿び跋致は3番、不退転は1,6,12,20番に出てきますね。
あびばっちの決意で、法華経を授受しないといけませんね(^^;
私のお仕事は施設警備員で立哨もあります。 ここ数日、雨が降っていました。
雨の中の立哨は、結構堪えますが、「雨の中、ご苦労様」とか「お風邪を引かないように」等の温かい労いの言葉を頂くことがあり、凄く有り難いです。
仕事とはいえ、雨と寒さの中の立哨は、凄く大変です。
でも、その大変さを顔に出したら、警備員失格ですね。
つねに、良い挨拶と良い姿勢。そして、良い身だしなみを心がけ…。
自己改革を続けなければ、警備員の社会的地位は底辺のままです。
休日に自家用車を買い物等で乗り回すと、交通誘導の警備員さんを沢山見掛けます。
半分以上の警備員さんは、だらしがない格好をしていますね。
平気で警備服のままタバコを吸っていたり…。
警備の仕事は、意識を高く持てば、素晴らしい仕事です。
底辺の仕事などと言われないように頑張りましょう!(誰にともなく…)
ちなみに、「雨にも負けず、風にも負けず」の詩は、宮沢賢治の没後に発見された遺作のメモであり、その最後に「南無無邊行菩薩/南無上行菩薩/南無多宝如來/南無妙法蓮華経/南無釈迦牟尼佛/南無浄行菩薩/南無安立行菩薩」という題目が記されていたという。
この詩は、明らかに法華経20番の常不軽菩薩とイメージが重なります。
私も、常不軽菩薩のように、仏性を拝む修行をしているのかもしれません。
私も、デクノボーと呼ばれ…そういう者に私はなりたい(^^;
あなたは、何処かへ出かける時、「行ってきます」と言いますか?
それとも、「行って参ります」と言いますか?
この2つ、同じ意味で使われますが、実は、大きな違いがあるのです。それは、「参」が入るか、入らないか、ということです。
「参」には、さまざまな出会いの中で、人間として少しでも尊ぶべきものごとを学び、向上して帰ります、という精神的な意味合いが含まれるのです。
また、何かの対戦で、負けると「参った」、「参りました」と言います。
これは、悔しがったり、文句を言ったりせず、謙虚に相手の強さを認め、敬意を表す言葉です。
つまり、尊いものや強いものに近づこうと誓願するのが「参」と言うことなのです。
ということで、「行って参ります」は、イコール自己向上を意味し、仏教的には、自らの魂を磨くことなのですね。
「行ってきます」は、まさにそのままですが、「行って参ります」は、行って魂を磨いてくるのです!
本ブログの一番のコンテンツ、「法華経のあらまし」を一つのスレッドにまとめてみました。
お釈迦さまがお説きになったお経は、約1700種あると云われていますが・・・。実は、直筆のものは無いそうです。
この沢山のお経は、お釈迦さまの弟子達が、お釈迦さまが亡くなってから、編集したもので、法華経も仏滅後400~600年後に編集されました。
その後、インドに留学していた鳩摩羅什が中国に持ち帰り翻訳し、天台大師に引き継がれます。また、同時期に日本にも伝わり聖徳太子が「十七条の憲法」を法華経をもとに作ったとされています。
その後、奈良朝の終わり頃、最澄が天台宗を日本にも起こし・・・。鎌倉時代に法華経のエース、日蓮が登場し、法華経を元に日蓮宗を起こします。
まぁ、簡単ですがこんなところです。尚、鳩摩羅什、天台大師、聖徳太子、最澄、日蓮は、仏教界では、今の大谷翔平級の人達です。
では、上記を踏まえて、各品毎のあらましにつづきます。
「もろもろの仏が悟った智慧は、深遠で大変難しく、舎利弗をはじめとする皆さんには到底理解することができません。もし、お話ししても、皆さんの頭が混乱するだけなので、説くのはやめましょう。」
しかし、舎利弗は余計に聞きたくなり、再度、説いてくださいとお願いしましたが、やはり、駄目で、三度目でやっと、それほど云うならと説法をお話し始めました。(これが有名な三止三請です。)
すると、今までお釈迦さまの教えを聞いて、自分はもう悟っていると思っている弟子達五千人が、いまさら新たな教えなど聞き耳もちませんとその場を退場していきました。
すると、お釈迦さまは、その弟子達を止めもせず、あらためて、舎利弗へこの教えを聞くに相応しい人だけ残りましたと説法をお話し始めました。
しかし、この品では、肝心の法華経については、至らず、さわりで、因果の法則(十如是)や方便についてお話しになりました。
十如是は、相、性、体、力、作、因、縁、果、報、がすべて等しいことであるとする法門で、諸法実相とも云います、あとで詳しく説明を致します。
また、方便は、正しい手段のことで、それぞれの人に、その時、その場所により、無数の教えを今まで説いてきましたが、実は、ある一つの教え(真理)がすべて元になっていて、そこに気づき、理解できれは、舎利弗をはじめとする皆さんも、仏になれますよ・・・。
と、云う事で、方便品は終わり、『譬諭品 第三』へ続いていきます・・・。
方便品で、お釈迦さまから、つぎのようなお言葉を承った舎利弗は・・・。
『無数の方便で、それぞれの人にふさわしい、適切な道によって教えが説かれ、そして、ある一つの真理を会得すれば、舎利弗をはじめとするすべての皆さんも仏になることが出来ますよ。』
これを聞いて、自分も仏になれるのだと大変喜びました。そこで、舎利弗は「ある一つの真理」とはどんなものでしょうかと、お釈迦さまへおうかがいしました。すると、お釈迦さまは、『三車火宅の譬え』をお話し始めたのです。
『三車火宅の譬え』をお話し終えたお釈迦さまは、今まで無数の方便の尊い教えを説いてきましたが、実はそれは、ただ唯一の一番尊い真理を説いていたのです・・・。
ということで、法華経の神髄は、まだ、語られず、信解品へ続くことになります。
信解品 第四で、摩訶迦葉らから『長者窮子の譬え』を聞いた、お釈迦さまは、「よろしい、よく分かってくれました。しかし、如来は、もっともっと計り知れないほどの功徳があるのです。如来は、一切の教えを知り、それを自由自在に支配するものです。そして、すべてのものごとの真相を明らかに究め尽くして、多くの衆生にたいして、その一切を知るものの智慧を示されるのであります・・・。」と、続いて『薬草の譬え』をお説きになりました。
この品は、『信解品 第四』で、仏の教えについて理解した内容を『長者窮子の譬え』にして申し上げた、慧命須菩提、摩訶迦旃延、摩訶迦葉、摩訶目ケン連らが、『薬草諭品 第五』で『薬草の譬え』を聞き、ますます、教えを深め、そして、そのことに対して、お釈迦様が、仏法を理解したこと認め、あなた方も仏になれますよと、授記されます。
授記とは保証のことで、保証にはいつも条件があり、それは、これからも行学二道の研修に励み、多くの人々を仏道に導いた後・・・、ということです。つまり、これからが大事で、理解した仏法を実践してくださいってことです。
はるかなる大昔に、大通智勝如来という仏さまがおられました。この仏さまには、出家するまえに16人の子供がいました。16人の子供は、みな父上を見習って法華経を説くために仏さまになりました。そして、16番目の仏さまが娑婆国担当の釈迦牟尼仏でありました。
釈迦牟尼仏ことお釈迦さまは、過去世に法華経の教えによって教化した衆生たちこそ、いまの弟子たち及び未来世の信者(現在の我々)に他ならないことを、明らかにしました。
真に悟りを得る道は2つあるものでは、ありません。ただ一つ法華経の教えがあるのみです。しかし、五官の欲にとらわれて、みずから苦しみを招いている人もいますので、そういう人達のために、とりあえず、迷いを除いて、心に安心を得るようにみちびいてあげるのです、と。このことを譬え話で説明いたしましょうと『化城宝処の譬え』を説かれ始めます・・・。
この品は、お釈迦さまが富楼那(フルナ)をはじめとする5百人の弟子(阿羅漢)に成仏の保証(受記)されます。
阿羅漢たちは、受記されるにいたった悟ったことを『衣裏繋珠の譬え』にして、申し上げました。
この譬え話が終わると、「お釈迦さまも、この友人のようなお方です。まだ菩薩であられたころ、私たちに、『だれしも仏性が具わっているのだから、修行して仏の悟りをひらくように』と教えてくださってのですが、私たちの心は眠りこけていて、そのことを知らず、ただ煩悩を除くことだけで、それが最上の悟りだと思い込んでおりました。
今、ここに、お釈迦さまは私どもの目をさまさせてくださいました。と心からお礼を申し上げるのでした・・・。
序品第一から前回の法師品第十までは、第一幕で、この品から、第二幕の始まりになります。
第一幕の舞台は、王舎城(おうしゃじょう)の霊鷲山(りょうじゅうせん)でしたが、この第二幕からは、霊鷲山の上空にいきなりなってしまいます。
どういうことかと言うと、大地から東京タワーのような塔がいきなり湧き出して来て、中から『お釈迦さまの説く法華経は、すべて真実です』という大きな声が聞こえてきました。
不思議に思った大楽説菩薩は、お釈迦さまに、中には何方がいるのですかとお尋ねすると、『如来の全身である多宝如来です』とお答えになりました。
そして、多宝如来が塔の中にお釈迦さまを招き入れ、一つの椅子に2人並んでお座りになりました。すると弟子達もその近くまで行きたいと思うと同時に、それを察知したお釈迦さまが、神通力で弟子達を虚空(上空)へ引き上げられました。
と、こんな感じで大スペクタルが展開していきます。これから先は、とうぶん虚空が舞台になります。
で、結局、この品はどういうことかと言うと、大地が人の比喩で、塔が仏性の比喩で、多宝如来が真理の比喩で、要は、法華経を授受すると、人は皆、本来持っている仏性が塔のように現れ、その中に真理が宿っている・・・。ということらしい・・・.。
そして、お釈迦さまがお説きになった法華経が、多宝如来によって真理であると証明されました。しかし、根拠がイマイチ謎ですが・・・。
文殊菩薩から教化された竜女が、即座に悟りを得ますが、舎利弗はそんなことがあるはず無いと信じません・・・、でも結果的には信じざるをえなくなります。
しかし、竜女はそのままでは、成仏出来ず、男性に変身して成仏するのです。法華経では、『変成男子』とあります。また、梵本では、『女性の生殖器が消え、男性の生殖器が生じる』とあるそうです。
なんで、女性のまま成仏ができないのか・・・謎だ。ブッダの時代は、よほど女性の地位が低い時代だったのかなぁ・・・。
とにかく、ブッダの時代は、女性のまま成仏するなど、とんでもないと思われていた時代だったようです。現代でもまだ、なごりはありますよね・・・。
そして、すべての人を平等に救う教えの法華経だからこそ、女性までもが成仏できるというのはごく当然のことなのです。どんなに女性蔑視の時代にも・・・。つまり、法華経こそが、女性の味方の経典なのです。(ここにもってこれて良かった・・・。)
この品には、いかなる困難にも耐えて忍んで、『法華経』を勧め、受持することが述べられています。
はじめに、お釈迦さまへ薬王菩薩と大楽説菩薩をはじめ、先に授記された8千人の比丘たちが、お釈迦さまが入滅されても、この『法華経』を受持し、学び、人々のために説き広めましょうと申し述べました。
つぎに、お釈迦さまは、突然ですが、叔母(摩訶波闍波提比丘尼)と妻(耶輸陀羅比丘尼)を授記します。先に堤婆達多品で竜女を授記していますが、これは、身近な者や教養の高い人ほど『法華経』を受持するのが難しいことを表しています。
で、この品のポイントですが、法華経が、正しいがゆえに迫害や謗り辱めを受けやすく、それを忍辱の鎧を着て忍び、この教えを説き広めるという一大事のために、あらゆる困難に耐えましょう。ということらしい・・・。
すべての人をこの法華経によって幸せにしたいと誓願すること、などなど。
そして、次の従地涌出品第十五から如来寿量品第十六で法華経の神髄が述べられます。ご期待ください!
他の世界からやって来た菩薩達が、仏の滅後に娑婆世界にとどまって、この教えを説き広めたいと表明します。
しかし、お釈迦さま、そのお申し出を次のようにお断りになりました。
「尊き志をもつ菩薩達よ。その必要はないのです。なぜなら娑婆世界には、あなた方の数をはるかに凌ぐ六萬恒河沙の菩薩がおり、その一人一人の菩薩にも六萬恒河沙の眷族がおり、彼らこそがこの地において法華経を護り、教えを広める使命を持つからなのです。」
この言葉が終わるやいなや大地は激しく振動して裂け、そこから計り知れない数の菩薩達が現れました。その姿はみなお釈迦さまと同様に三十二相という尊い人相をそなえ、全身は金色に輝き、光を放っていました。
この菩薩たちは、娑婆世界の下の虚空に住んでいたのですが、お釈迦さまのお説になったお言葉に応じて大地から湧き出してみもとに参ったのです。
その中に四人の大導師がおられました。その名を上行(じょうぎょう)菩薩・無辺行(むへんぎょう)菩薩・浄行(じょうぎょう)菩薩・安立行(あんりゅうぎょう)菩薩といいました。(四弘誓願を参照のこと)
で、この光景をみていた古参の弥勒菩薩等は、どうも納得がいきません。お釈迦さまは、どうやって短い間にこれだけの沢山の菩薩達を教化されたのか・・・。
と云う感じで、その疑問は、そのまま法華経の神髄を解き明かすキーワードとして、「如来寿量品 第十六」へ引き続くことになります・・・。
従地涌出品での疑問:『お釈迦さまは、どうやって短い間にこれだけの沢山の菩薩達を教化されたのか?』
答えのポイントは、輪廻です。答えは、良医の譬えの解説を参照願います。
そう、『すべての人の魂は、永遠の命で、何度も何度も生まれ変わっては、良因を積むことにより、その縁起で仏になっていくことができる。』
これが、法華経を毎日読誦して感じた、今のレベルでの私の法華経感です。
とにかく、仏は『永遠の命』こと『仏寿無量』で、これを信じきることが出来るか出来ないかが、法華経を理解するキーになるようです。
この17番から28番までが、流通分と云われ、法華経を実践すれば、大変素晴らしい功徳のあることが説かれています。
この分別功徳品では、とにかく『仏寿無量(永遠の命)』を信解すれば、ものすごく大きな功徳があると説かれています。
たとえば、以下の感じです。
80万億那由他劫という長い長い間、五波羅蜜(六波羅蜜から智慧を除く)を行じてえる功徳は、大変なものですが、しかしそれでも、『仏寿無量』をほんの一念にでも信解することよって得られる功徳とくらべると、その百千万億分一にも及ばないそうです。つまり、『仏寿無量』の信解の方が百千万億倍も功徳があるのです。
ホントかよって感じですが、もしホントなら、『仏寿無量』『仏寿無量』『仏寿無量』・・・。
この品も分別功徳品と同じく、法華経には、ものすごく大きな功徳のあることが説かれています。
たとえば、法華経の伝言ゲームで、50番目の人が一偈でも信解したならば、その功徳は、宇宙のあらゆる生あるものに物質的&精神的に布施した功徳より大きいと・・・。
また、ホントかよって感じですが、『仏寿無量』『仏寿無量』『仏寿無量』・・・。
信じることから始まるらしい・・・。
この品も分別功徳品と同じく、法華経には、ものすごく大きな功徳のあることが説かれています。
もし信仰心の深い男女が、法華経を信じ、読誦し、解説し、書写したとしましょう。その人は、以下のような功徳を得ることが出来るのです。
その功徳をもって、すべての感覚・知覚器官の作用を美しく。清らかなものにするでありましょう・・・と。
またまた、ホントかよって感じですが、『仏寿無量』『仏寿無量』『仏寿無量』・・・。
信じることから始まるらしい・・・。
仏の教えが形式化、そして、形骸化された時代に一人の菩薩がいました。その菩薩は、会う人ごとに、会う人ごとに、『私は、あなたを敬います。けっして軽んじません。なぜなら、あなたは、必ず仏になられる方であるからです。』と言って賛嘆するのでした。
ところが、大勢の中にはそんなことを言われて腹を立て、石や瓦を投げつける者がいました。
すると、菩薩は走って逃げ、遠くのほうからまた同じセリフ『私は、あなたを敬います。けっして軽んじません。なぜなら、あなたは、必ず仏になられる方であるからです。』と、大声で唱えるのでした。
そして、菩薩は一生の間、この行を続けたのです。すると、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)が清浄となって、虚空の中からひびいてくる声を聞くように法華経を自得したのです。
すると、寿命が2百万億那由他歳になり、広く人々のためにその法華経の教えを説きました。
で、解説です。この常不軽菩薩品では以下の3つがポイントです。
あぁ、雨にも負けず風にも負けず、私は、常不軽菩薩でありたい・・・。
これが、『如来の十大神力』と云われています。
そして、この『如来の十大神力』を踏まえ、法華経の総まとめの句がつぎに示されます。
『如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘蔵の蔵・如来の一切の甚深の事・皆此の経に於て宣示顕説す。』
とにかく、如来の一切の『正法』『衆生救済力』『秘密の教え』『修行の実践方法』が、すべてこの法華経に注ぎ込んでいると宣言しているのです・・・。あぁ、なんて有り難い、合掌。
釈尊は、法座より起き上がり、菩薩達の頭を撫ぜながら、この法華経の広宣流布を託します。と述べられ、とりあえず、この品で法華経は、ひとまず終わりを迎えます。
では、後の薬王菩薩本事品から普賢菩薩勧発品までは、何かというと、
一編一編が一つの短編ストーリーになっていて法華経実践の大切さを説いています。まぁ、法華経の駄目押しですかね・・・。
『あに まに まね ままね しれ しゃりて しゃみや しゃびたい せんて もくて もくたび しゃび あいしゃび そうび しゃび・・・・・・』
薬王菩薩と薬上菩薩の前世のお話で、王様の父を教化するお話です・・・。
・・・そのとき釈尊は、もろもろの大衆に薬王菩薩と薬上菩薩の前世のお話を語り始めました。
はるかはるかな遠い大昔に、雲雷音宿王華如来という仏さまと妙荘巌王という王さまがいました。
王さまの夫人は、淨徳と言い、また、淨蔵(前世の薬王)と淨眼(前世の薬上)と言う2人の王子がいました。
淨蔵と淨眼は、六波羅蜜を行じ、仏教を信仰しておりました。
しかし、王さまの父は、邪教を信仰しており、2人はなんとか正しい教えの仏教へ改宗してもらいたいと思っていました。
そこで、2人は母に相談しました。すると母は、父へびっくりするような信仰の証しの奇跡をみせれば、改宗できるでしょうとアドバイスをされました。
2人は母のアドバイス通りにいろいろな奇跡を父の前で演じ、父の妙荘巌王を改宗させました、とさ・・・。
で、本品のポイントは、身近な家族の教化の難しさと、指導的立場の人(王様等)の教化の難しさで、それらの人を教化するには、法華経を頭で理解してもらうだけでなく、自ら身を持って示さなければならないということです。
ちなみに、妙荘巌王本事品(みょうそうごんのう ほんじほん)の本事とは、仏弟子が前世に行った事のストーリーです。
最後の最後に大菩薩団を引き連れて娑婆世界に釈尊の説法を聞きに来た大物菩薩の普賢菩薩と釈尊(お釈迦さま)の問答です。
はじめに、普賢菩薩はお釈迦さま(釈尊)へ『仏滅後、どうしたら法華経の真の功徳を得ることができるのでしょうか』とお尋ねになりました。
すると、お釈迦さまは普賢菩薩へ、以下の『四法成就』、を実践すれば、真の功徳を得ることができましょう・・・と、お答えになりました。
それをうかがった普賢菩薩は、感激して次のように申し上げました、
『法華経行者がどこにいても、六牙(六波羅蜜の象徴)の白象王(実践の象徴)にのって応援し守護したいと思います!』
と、お釈迦さまの許可をえて、法華経行者を守護するために陀羅尼(神呪)を説きました。
『あたんだい たんだはだい たんだはて たんだくしゃれ たんだしゅだれ しゅだれ しゅだれはち ぼっだはせんね さるばだらに・・・・・・』
お釈迦さまは、満足そうにうなずかれ、今度は具体的な功徳についてのべられました。
法華経をいろいろ勉強してまいりましたが、おぼろげながら、その神髄が見えてきました。
それは、ズバリ! 『因縁果報(縁起)』と『正しい生活』です。
要は、正しい生活をして(因)、良い(縁)が沢山出来、人生苦が消滅(果)して、幸せ(報)なる。
そして、正しいとは、真理(法)にそった、とういうことです。
人は、良因を積むことで、宇宙の調和と共振し、いつでもどこにでも、法身の釈迦を見ること、感じることが出来るようになる。
すべての人の魂は、永遠の命で、何度も何度も生まれ変わっては、良因を積むことにより、その縁起で仏になっていくことができる。
つまり、仏になっていくこと、言い換えれば法華経の実践こそが、宇宙の調和であり、世界平和実現の礎になる。とまぁ、法華経の神髄とは、こんなところですか、たぶん。
法華経には沢山のギャラリーが登場します。それは、人間(比丘衆)だけでなく、如来、菩薩、神様、非人等などで、 結果的に生きとし生けるものすべてが登場するのです。
逆に云うと、法華経は、生きとし生けるものすべてを救うお経なのです。
慈悲を象徴する菩薩です。お釈迦さまと同じ時代に実在したらしい・・・。
智慧を象徴する菩薩です。こちらは、架空の菩薩です。このような菩薩を『法身の菩薩』といいます。
行徳を象徴する菩薩です。こちらも、架空の菩薩です。六牙の白象王に乗って現れます。六牙とは、六波羅蜜を表し、白象王に乗ってとは、徹底した実践を表します。
従地涌出品で大地から涌出して法華経流布を申し出た菩薩。
従地涌出品で大地から涌出して法華経流布を申し出た菩薩。
従地涌出品で大地から涌出して法華経流布を申し出た菩薩。
従地涌出品で大地から涌出して法華経流布を申し出た菩薩。
常不軽菩薩品で登場する菩薩で、すべての人の仏性を礼拝する菩薩です。
理想の国からやって来た、なぜかウルトラマンのイメージがする菩薩です。
苦しい時に、お願いをなんでも叶えてくれる菩薩・・・、いえいえ、自分がそのような菩薩になれるようにとの見本の菩薩。
以下のように凄い菩薩です。
薬王菩薩の前世で「香油を飲み、また香油を身体に塗ってしみこませ、如来の前で宝衣に自ら火をつけて、こうして自身を灯明として法華経を供養しました。」
釈尊教団の二大柱の一人、智慧第一と言われていました。
空についてよく理解していた、解空第一と言われていました。
教えの解説が得意で、論議第一と言われていました。
釈尊教団の最長老で、頭陀第一と言われていました。(頭陀とは、貧著なく簡素に暮らすこと)
釈尊教団の二大柱の一人、神通力第一と言われていました。
弥多羅尼子という母親が大変すぐれた人だったので、弥多羅尼子富楼那(息子なので男)と呼ばれていました。 後世『富楼那の弁をふるう』といわれる通り、説法第一と言われていました。
「多聞第一」といわれ、当時、いまでは考えられないほどの男尊女卑の時代に比丘尼教団を作ってしまった人です。 どうしてかと言うと、女の人が沢山慕ってくるほどの美男子だったようです。釈尊の従弟
「密行第一」といわれ、人の見ていないところでも常に慈悲のある正しい行いをし、また、高い境地にいながらも、 決してそれを表に出すことなく陰徳を積んだとされています。釈尊の実子。
「天眼第一」といわれ、失明してから、永遠の真理を見る智慧の眼を明るくひらいた。釈尊の従兄。
「持律第一」といわれ、戒律に精通し、様々な事件を調停した。
事火外道という一種の原始宗教の一派で、500人の弟子がいました。
優楼頻螺迦葉の弟。
同じく優楼頻螺迦葉の弟で、世に三迦葉といわれる兄弟です。
大上座の一人で、勇猛端正第一といわれていました。
舎利弗の末弟で、坐禅することを好み、坐禅第一といわれていました。
無病小欲第一といわれ、160歳で入寂したと言われています。
議論がじょうずで、問答第一といわれていました。
釈尊の異母弟で、釈尊の継母で摩訶波闍波提比丘尼の実子。
容貌は、釈尊と瓜二つだといわれていました。
初転法輪の五比丘の一人、『衣裏繋珠の譬え』を説く。
初転法輪の五比丘の一人。
初転法輪の五比丘の一人。
初転法輪の五比丘の一人。
初転法輪の五比丘の一人、舎利弗と摩訶目ケン連を導く。
釈尊の母、釈尊を出産後、7日後にお亡くなりになりました。
釈尊の継母。
釈尊の妻。
釈尊こと悉達多(しつだった)の従兄弟であり、永遠のライバル。前世では、悉達多の師匠だったりする。
また、阿難(アナン)の兄。
釈尊の命を狙い、仏典では悪人の代表として有名。
空中を飛び歩く鬼神。
帝釈天に仕えて音楽を奏している神。
つねに帝釈天と戦っている鬼神。
竜を餌とする鳥の王の鬼神。
天上界で音楽を奏している神。
地竜で、蛇のような鬼神。
暴力的な鬼類。
悪臭を発する腐敗鬼。
人間の死体を食う鬼類。
動物の生き血や生肉を食らう鬼類。
前世で悪業を積み、貪欲が強く、飢渇に苦しんでいる鬼類。
子煩悩な鬼女でしたが、王舎城(おうしゃじょう)の町に来ては、人の子をとって食べてしまいます。釈尊は鬼子母の子をお隠しになり、 半狂乱になった鬼子母へ、『あなたに食べられた子の親の身になってごらん』と諭しました。すると鬼子母は、非をさとり、仏教に帰依して、安産と幼子の守り神になろうと誓願し、鬼子母神となりました。
世間をさまよいあるく鬼女。
藍婆より藍婆の完全藍婆?
まがった歯の羅刹女。
花の歯(?)をもった羅刹女。
黒い歯をもった羅刹女。
髪の毛の多い羅刹女。
厭き満足することのない羅刹女。
首飾りをもった羅刹女。
屋根にのぼって死人の霊魂を呼び戻す鬼女。
すべての生物の精気を吸い取ってしまう鬼女。