・はじめに
立正佼成会会員がほぼほぼ朝夕に読誦する所依の『経典』は、法華三部経(無量義経、妙法蓮華経、仏説観普賢菩薩行法経)のエキスをまとめたものです。それを分かりやすく解説した本が「釈尊のいぶき」です。本コンテンツは、その「釈尊のいぶき」の一部の解説サマリーです。
そして、本コンテンツの一番の目的は、所依の『経典』の内容理解です。
尚、本コンテンツを作成するに当たって以下のページを大変参考にさせていただきました。
・https://www.kosei-kai.or.jp/official/faith/creed/creed-4-15/
・経文(「釈尊のいぶき」での抜粋)
若し眼根の悪あって。
業障の眼不浄ならば。
但当に大乗を誦し。
第一義を思念すべし。
是れを眼を懺悔して。
諸の不善業を尽くすと名く。
耳根は乱声を聞いて。
和合の義を壊乱す。
是れに由って狂心を起すこと。
猶お癡なる猿猴の如し。
但当に大乗を誦し。
法の空無相を観ずべし。
永く一切の悪を尽くして。
天耳をもって十方を聞かん。
鼻根は諸香に著して。
染に随って諸の触を起す。
此の如き狂惑の鼻。
染に随って諸塵を生ず。
若し大乗経を誦し。
法の如実際を観ぜば。
永く諸の悪業を離れて。
後世に復生ぜじ。
舌根は五種の。
悪口の不善業を起す。
若し自ら調順せんと欲せば。
勤めて慈悲を修し。
法の真寂の義を思うて。
諸の分別の想なかるべし。
心根は猿猴の如くにして。
暫くも停まる時あることなし。
若し折伏せんと欲せば。
当に勤めて大乗を誦し。
仏の大覚身。
力・無畏の所成を念じたてまつるべし。
身は為れ機関の主。
塵の風に随って転ずるが如し。
六賊中に遊戯して。
自在にして罣礙なし。
若し此の悪を滅して。
永く諸の塵労を離れ。
常に涅槃の城に処し。
安楽にして心憺怕ならんと欲せば。
当に大乗経を誦して。
諸の菩薩の母を念ずべし。
無量の勝方便は。
実相を思うに従って得。
此の如き等の六法を。
名けて六情根とす。
一切の業障海は。
皆妄想より生ず。
若し懺悔せんと欲せば。
端坐して実相を思え。
衆罪は霜露の如し。
慧日能く消除す。
是の故に至心に。
六情根を懺悔すべし。
・訳文
もし、自分のものの見方が誤っていたと気づいたならば、一心に大乗の教えを読誦し、諸法実相(第一義空)ということに心をそわせることが大切です。
これが眼の懺悔であり、一切のよくない行ないを消滅し尽くす大本の力です。
また、迷いがあるがゆえに、ものごとを正しく聞くことができないと、人間関係に不和を生じさせる原因となります。
誤った聞き方をすれば、誤った考えを起こし、あたかも本能のみによって動く猿のように、あられもないことをしてしまうのです。
ですから、一心に大乗の教えを読誦し、すべてのものごとは「空」であり、固定した相はないことをしっかりと観じ、すべての人間が持つ仏性を見つめることを心がけなければなりません。
そうすれば、永久に一切の悪を寄せつけず、すべてのものごとが正しく耳に入ってくるようになるでしょう。
感覚の快さのみに執着すれば、その妄念によってさまざまなまちがった感情を起こし、その迷いのためにいろいろな煩悩の塵が生じます。
そのときに大乗経を読誦し諸法の実相を観じるならば、永遠にもろもろの悪業から離れることができ、再び同じことをくり返すことはないでしょう。
舌は、悪口や荒々しい言葉など、口の悪をつくるもとです。
正しい言葉で語りたいと思うならば、常に慈悲の行ないをし、人びとの仏性というものに思いをこらし、自己中心の心から分けへだてをする考え方を捨ててしまわなければなりません。
心というものは、枝から枝へ飛び移る猿のように、しばらくもじっとしていません。
もしその悪へ傾いた心をおさえ、正しい道に引き入れようと思うならば、つとめて大乗の教えを読誦し、天地の真理を悟った身であり(大覚身)、万物を救う力を具え(力)、何ものをも畏れはばかることなく法を説く(無畏)、仏の業を心にありありと思い浮かべることが大切です。
人間の心身の働きは、まるで塵が風に飛ばされるように、周囲の事情によっていかようにも変化します。
そのなかには眼・耳・鼻・舌・身・意(心)の六根のわがままな欲望が暴れまわっています。
この誤った欲望を滅して常に涅槃の境地にいたいと思うならば、大乗経を読誦して仏の智慧と慈悲(菩薩の母)を念じなければなりません。
人間を向上させる勝れた方法は、このように大乗の教えによって、諸法の実相を思うことから生まれてくるのです。
いま説いた六つの教えもその例であって、これらは人間の心の働きを正しくして実相を見きわめるようになる方法にほかならないのです。
すなわち、一切の行ないの過ち(業障)はみな、ありもしないことをあると思う妄想から起こるのです。
もし自分の業障を懺悔しようと思うならば、静かに坐って諸法の実相を深く想い念じることです。
もろもろの罪というものは、ちょうど霜や露のような仮のあらわれに過ぎず、実相を見る智慧の光に会えば、たちまち消滅してしまうのです。
ですから、ひたすら実相を思うことによって、六情根を洗い清めなければなりません。
・補足
鼻根は諸香に著して
人間のすべての感覚を鼻根に代表させています。したがってこの一節は、嗅覚が香を貪るように、感覚の快さのみを追求することを意味しています。
染に随って
「染」とは、染色などが布にしみ込んで離れないように、ものごとに執着する妄念を意味します。
触を起す
「触」とは感情のことです。
法の真寂の義
「真」は究極の真実、「寂」は不動の真理という意味ですから、第一義空(諸法実相)ということです。第一義空を人間にあてはめると、すべての人は「仏性を自らのいのちの本質とする」という点において平等であるということになります。
折伏
悪い道にそれてしまった心を正しい道へ引き入れることです。
六賊
眼・耳・鼻・舌・身・意(心)の六情根(略して六根)が、それぞれ煩悩のおもむくままに働いていることを意味しています。
菩薩の母
菩薩行の原動力は智慧と慈悲です。そこで、仏さまと同じような智慧と慈悲を得たいと念ずることが、菩薩を生み出す母であるというのです。
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